【情報募集】辛島デヴィッド『文芸ピープル』によると、アメリカでは2019年、女性作家の作品がliterary fiction上位100位の売り上げのほぼ7割を占めた、とあります。2020年以降はどう推移しているか、ご存じの方はいらっしゃらないでしょうか。
近年は残雪が頻繁に候補に挙がる国際ブッカー賞のロングリスト、数え間違いでなければ2023年はアジアの作家の人数は減って2人か。この賞については、
トーキョーブックガールさんの記事が毎年参考になります。
https://air-tale.hateblo.jp/entry/2021/04/05/232016
拙ブログ記事より。矢川澄子訳のノヴァーリス、多田智満子訳のシュペルヴィエル、佐藤弓生訳のユルスナールについて。なお、この中でシュペルヴィエル「ミノタウロス」は復刻させる価値のある傑作だと思います。
https://shimirubon.jp/reviews/1702342
海老原豊氏の松田青子『持続可能な魂の利用』書評。この小説における「おじさん」がパフォーマティブ(行為遂行的)な存在である、と指摘している箇所は示唆に富んでいると思う。
「私は五十代に入って、仕事で外国に行くのをやめてしまったんです。三十代、四十代の頃は講演やらシンポジウムやら、客員研究員やら客員教授やらに呼ばれると、フランス、アメリカ、中国など、面白がってけっこう気軽にほいほいと出かけていたのですが、それをしばらくの間、禁欲しようと思った。吉田健一はケンブリッジ留学を切り上げて帰国する決心を固め、当地の恩師のG・ロウェス・ディッキンソンのところにそれを報告しに行ったとき、ディッキンソン先生から「或る種の仕事をするには自分の国の土が必要だ」という言葉でその決意を励まされたと回想しています(『交遊録』一九七四年)。聡明な、しかも温かな言葉ですよね。師というものは自分の学生にこういう言葉こそを投げかけるべしという、模範のような逸話です。私自身、長い歳月にわたった教員生活のなかで、こういう言葉を自分の学生に対してどれだけ発することができたかと省みると、忸怩たるものがありますが、ともあれ『明治の表象空間』の執筆中、このディッキンソンの言葉がずいぶん大きな支えになりました。」(松浦寿輝)
「イギリス料理はまずい」という言葉は、多くの人が聞いたことがあるにちがいない。そこで考え始めるのは、「もし自分がイギリスに生まれていたら、どういう世界像や経験を持っていたか」ということ。外国の人と話すたびに、いつも「イギリス料理ってマズいって言われるよね~」などといじられるとしたら(casual and slight racism?)、表面的には微笑んで受け流すかもしれないけれど、それはちょっとさびしいのではないだろうか。
石原孝哉・市川仁・宇野毅編『食文化からイギリスを知るための55章』(明石書店、2023)はイギリス料理の多様性と伝統の双方に目を向けさせてくれる。日本人が和食ばかり食べているのではないのと同様、イギリスにも世界中の食べものがたえず流れ込んでくる。1970年代、インド・パキスタン紛争、パキスタン・バングラデシュ紛争で祖国を捨てた大量のインド人がイギリスに移住し、インド料理が急速に広まった。中華料理の発展には香港返還をめぐる政治上の争いも大きなファクターとなっていて、そもそもイギリスの中華料理は香港からの移民がパイオニアの役割を担った。このあたりの近現代史と食の発展のリンクを詳細に書き込んだ章が圧倒的におもしろい。
英語圏では翻訳と感じさせない翻訳が好まれる傾向がある、とものの本には書いてある。でもわたしは、翻訳書を読んでいるときに、それぞれの翻訳家の体臭を眼と鼻と脳とで記憶し、次に同じにおいがいつ鼻孔をくすぐるのか、ノラ犬のように愉しみとしている。アイルランド文学者の栩木伸明は『琥珀捕り』において「思う」を「おもう」とひらくが、詩についての論考でも同じような表記をしていた。矢川澄子の随筆には「したたか」という言葉がずいぶんたくさん出てくるが、絵本の翻訳にだって登場する。翻訳家のクレジットがなくても、それが誰の手になるものか(ある種のお気に入りの本においては)当てられる自信がワタシにはある。
*たとえば秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)。
https://air-tale.hateblo.jp/entry/2020/02/17/000000
拙ブログでの『古都』の感想です。
本好き、旅行好き。 海外詩/翻訳文化論/日本文学普及/社会言語学etc.文章のアップはSNSよりも主にブログのほうで行っています。よろしくお願いします。https://air-tale.hateblo.jp/