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ビュトールがミショーの詩を「SF文学」というタームを使いながらコメントしているのをみたことがあるんですが、原文ではどうなっているのかな。「SF小説」ではなく「SF文学」という呼称はついぞ見ないので。

リンゲルナッツの詩、味があって面白い。昆虫の世界がいきなり身近に感じられてくる。いわゆる「じわる」感触。

都立図書館を訪れる。メモしていた資料をもとにどんどん本を出してもらって、複写したり積み上げた雑誌をその場で読みふけったり。

『月街星物園』、「MONKEY」の翻訳家対談、「文學界」のピーター・バナードのエッセイ、1990年の「シティロード」、「小説現代」02年の筒井康隆×佐藤〇紀対談など。

勉強のための読書とは呼べないと思うけど、こういう日をつとめて作って養分を供給するのはかならず必要。

北宋社の「イメージの文学誌」ですが、堀切直人「本との出会い、人との遭遇」(右文書院)には監修者は名前だけで、作品はすべて堀切氏が選んだ、と書いてあります。真偽はまったくわかりませんが、『巨船ベラスレトラス』など読むにつけ、北宋社はちょっとどこまで信頼していいのか、というイメージ。久世光彦が推す『猫町の絵本』とか、面白そうな本はあるのですが。

【情報募集】辛島デヴィッド『文芸ピープル』によると、アメリカでは2019年、女性作家の作品がliterary fiction上位100位の売り上げのほぼ7割を占めた、とあります。2020年以降はどう推移しているか、ご存じの方はいらっしゃらないでしょうか。

きょうの気分で、わたしの大好きな紀行文。
岩崎力「ユルスナールを訪ねる」(『ヴァルボワまで』雪華社)
和田忠彦「ミラノ古本の旅」(『世界古本探しの旅』朝日新聞社)
四方田犬彦「一九七九年 ソウル」(『星とともに走る』七月堂)
蜂飼耳 アラン島についての文章(『空を引き寄せる石』白水社)
ボルヘス『アトラス』(現代思潮社)
パトリシア・ライトソン「アリガトウ」(「南半球評論」号数不明、1986年の号)

西成彦『イディッシュ』(作品社)読み中。ゴンブロヴィッチ『トランス=アトランティック』などで翻訳には触れていたけど、単著を手に取るのは初めて。ウクライナをはじめとする東欧の歴史について知りたくて読み始めたけど、すでにして刺激的な本の予感。

ブログでなく同人誌をやってみたい理由のひとつが、いろいろな国の日本文学翻訳家の方にインタビューを行いたい、もっといえば翻訳といういとなみや翻訳家という職業にもっと脚光が当たってほしいということだったりします。ただ、同人誌を編集した経験がなく、もう一押しふんぎりがつかない。

thebookerprizes.com/media-cent

近年は残雪が頻繁に候補に挙がる国際ブッカー賞のロングリスト、数え間違いでなければ2023年はアジアの作家の人数は減って2人か。この賞については、
トーキョーブックガールさんの記事が毎年参考になります。

air-tale.hateblo.jp/entry/2021
拙ブログ記事より。矢川澄子訳のノヴァーリス、多田智満子訳のシュペルヴィエル、佐藤弓生訳のユルスナールについて。なお、この中でシュペルヴィエル「ミノタウロス」は復刻させる価値のある傑作だと思います。

shimirubon.jp/reviews/1702342
海老原豊氏の松田青子『持続可能な魂の利用』書評。この小説における「おじさん」がパフォーマティブ(行為遂行的)な存在である、と指摘している箇所は示唆に富んでいると思う。

あるとき「大学の卒論で扱ったのはジェンダーSFだった」と人前でこぼしたら、「さまざまなSF小説にみられる女性像」を精査したのだと思われて、面白い誤解のされ方だなと感じたことがある。たとえば「海を見る人」「美亜へ贈る真珠」「たんぽぽ娘」といった作品における女性像は、素朴といえば素朴きわまりないだろう。ただそれと同時に、社会変革に向かって突き出す力をそなえたラディカルなジェンダーSFをも多く生み出してきた、ジャンル総体としての巨大さ、包摂性にはうたれる思いがする。

きょうは広尾~麻布十番エリアをロシアの知人と散策したのですが、National Azabuという世界の食材を取り揃えた高級スーパーがとても刺激的な場所でした。ヨーロッパ、中東、ラテンアメリカからの瓶詰食材などがすごい品ぞろえで、おみやげとして瓶に入ったイランのスープの素、ガーリックオイルサーディンを購入。商品のパッケージをみているだけでも楽しい!

「私は五十代に入って、仕事で外国に行くのをやめてしまったんです。三十代、四十代の頃は講演やらシンポジウムやら、客員研究員やら客員教授やらに呼ばれると、フランス、アメリカ、中国など、面白がってけっこう気軽にほいほいと出かけていたのですが、それをしばらくの間、禁欲しようと思った。吉田健一はケンブリッジ留学を切り上げて帰国する決心を固め、当地の恩師のG・ロウェス・ディッキンソンのところにそれを報告しに行ったとき、ディッキンソン先生から「或る種の仕事をするには自分の国の土が必要だ」という言葉でその決意を励まされたと回想しています(『交遊録』一九七四年)。聡明な、しかも温かな言葉ですよね。師というものは自分の学生にこういう言葉こそを投げかけるべしという、模範のような逸話です。私自身、長い歳月にわたった教員生活のなかで、こういう言葉を自分の学生に対してどれだけ発することができたかと省みると、忸怩たるものがありますが、ともあれ『明治の表象空間』の執筆中、このディッキンソンの言葉がずいぶん大きな支えになりました。」(松浦寿輝)

ある大規模な統計によると、インド料理では?と一瞬思いたくなるチキンティカマサラはなんでもフィッシュアンドチップス、サンデーローストについでイギリスの国民食3位にランクインしているらしい。この現象をこの本は、日本におけるカレーとラーメンの立ち位置とパラレルに見立てている。発祥はほかの国でも、アレンジしながら食べつけてきたからこれは自分たちの食文化なんだ!という自負。また、イギリスの中華料理は香港からの移民がベースを作り上げたから基本的には中華のなかでも広東料理である、など目からウロコの「物語」が満載。ネタバレはわるいので、詳しくはぜひ本を手に取ってどうぞ!

「イギリス料理はまずい」という言葉は、多くの人が聞いたことがあるにちがいない。そこで考え始めるのは、「もし自分がイギリスに生まれていたら、どういう世界像や経験を持っていたか」ということ。外国の人と話すたびに、いつも「イギリス料理ってマズいって言われるよね~」などといじられるとしたら(casual and slight racism?)、表面的には微笑んで受け流すかもしれないけれど、それはちょっとさびしいのではないだろうか。

石原孝哉・市川仁・宇野毅編『食文化からイギリスを知るための55章』(明石書店、2023)はイギリス料理の多様性と伝統の双方に目を向けさせてくれる。日本人が和食ばかり食べているのではないのと同様、イギリスにも世界中の食べものがたえず流れ込んでくる。1970年代、インド・パキスタン紛争、パキスタン・バングラデシュ紛争で祖国を捨てた大量のインド人がイギリスに移住し、インド料理が急速に広まった。中華料理の発展には香港返還をめぐる政治上の争いも大きなファクターとなっていて、そもそもイギリスの中華料理は香港からの移民がパイオニアの役割を担った。このあたりの近現代史と食の発展のリンクを詳細に書き込んだ章が圧倒的におもしろい。

英語圏では翻訳と感じさせない翻訳が好まれる傾向がある、とものの本には書いてある。でもわたしは、翻訳書を読んでいるときに、それぞれの翻訳家の体臭を眼と鼻と脳とで記憶し、次に同じにおいがいつ鼻孔をくすぐるのか、ノラ犬のように愉しみとしている。アイルランド文学者の栩木伸明は『琥珀捕り』において「思う」を「おもう」とひらくが、詩についての論考でも同じような表記をしていた。矢川澄子の随筆には「したたか」という言葉がずいぶんたくさん出てくるが、絵本の翻訳にだって登場する。翻訳家のクレジットがなくても、それが誰の手になるものか(ある種のお気に入りの本においては)当てられる自信がワタシにはある。

*たとえば秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)。

岡田恵美子、北原圭一、鈴木珠里編『イランを知るための65章』(明石書店)。テヘランの地下鉄には痴漢を防ぐための女性専用車両があり、全員がヘジャーブをつけているので遠くからだと車両いっぱいの鳥の群れのように見えるのだとか。これについてイランの人と話したところによると、女性専用車両は先頭車両といちばん後ろの計ふたつ、朝のラッシュアワーだけでなく、終日女性専用らしい。こんな話を聞くと、イラン社会における女性の地位についても知りたくなってくる。

イランの書道における書体の話も面白い。p105の図版を引用するが、この4つすべて、書かれている言葉が同じだとは。

私の大好きな台湾文学である朱天心『古都』ですが、「私が選ぶ国書刊行会の3冊」(40周年記念小冊子)で敬愛する蜂飼耳さんが挙げていて手に取りました。かなりの数の選者が幻想小説やその周辺書を択ぶなかで、この詩人にはまったく未知の文学について教示してもらったという深い感謝の念があります。

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