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incurably coy and irresoluteな人間ではあるけど、今後、作家さんにインタビューするとか、ウェビナーとかやっていきたい…。

みんな英語のスピーキングはどう練習されているんだろう。自分の場合、客観的な指標としてはIELTSのspreakingのセクションで7.5、英検1級を取得しており、italkiでディスカッションをしたり休日に海外の友達とちょこちょこ遊んでいたりする。それでも、母語の方が話せるなあというトピックはやはりある。ウェブ上の記事などを教材にすることもあるけど、お気に入りの教材などある方がいましたらぜひ教えてほしいです。

これ、本当に雑誌完成したとしたら、手伝ってくれた方に一生頭が上がらないと思う。

アンナ・ゼーガース「死んだ少女たちの遠足」。吐き気を催したくなるくらいの傑作。ドイツで実際に起きてしまった二十世紀最大の悲劇について、「真正面から間接的に描く」という本来ならそれは語義矛盾であってぱっくりと二つに裂けてしまうはずのものが、文学という限定されたことばの使用が許されるこの領域では特別に成立が許される。感想を書く時間がないのが残念だけど(いま書いているこの文章は感想ではないので)、自分にとっては忘れないだろう体験になった。

実は、「高校生にも役立つようなわかりやすい自由英作文の参考書」を書くのが人生の夢のひとつだったりします。

「言葉の階段を上がってゆく。言葉がひとりでにくり返される。かなしみという言葉の上を歩いていた、かなしみ かなしみ かなしみ かなしみ かなしみ。一歩一歩、言葉をひとつずつ踏みしめながら歩く。が、やがてわたしは、自分が歩いていないのに気づく。同じ言葉が続くのは、言葉が動いていないからだし、わたしの足も動いてはいない。言葉は死んだ。その言葉の死を嘆いて、その言葉の中に息づいていた感情の死を嘆いて、苦しみがやってきた。まわりの景色は変わらず、曲がり角にも行き当たらない。道が、世にも不思議な力でわたしを引きよせ、おかげでわたしはいつ右や左に曲がったのか、まったくわからなくなっていた。わたしは言葉の妄想の上を、はだしで歩いていた。(中略)言葉のエスカレーターが足もとを、川のようにさらさらと流れてゆく。自分が起こしてきたいくつもの反乱、その上をわたしは歩いていた。足の下で小石がぽんぽん破裂する。いちばん大きな破片の飛んだ方向に歩いてゆけば、戻れるのかもしれない。けれどいつだってわたしにはわかっていた。行ってみてもきっとそこにあるのは、野ざらしの白い骨、砂にとける亡骸、腐りかけた笑顔だけだし、そして目玉には冷えた溶岩のように、無数の穴が空いているのだろう。」
(アナイス・ニン「迷宮」『ガラスの鐘の下で』)

E2746 – スペインにおける読書習慣と書籍購入(2023)の概要║カレントアウェアネス・ポータル
current.ndl.go.jp/e2746

目覚めたら、イラストレーターさんが雑誌の表紙のために寄せてくれたとても素敵な絵がメールボックスに届いていた。ああ、自分で絵が描けなくてよかった。そこに予期せぬ出会いがあるんだもの。

高校2年の頃は一日最低5時間インターネットをするという不思議な生活で、おかげで授業はほとんどぐっすり寝ていた。ブラウザの履歴はもう残っていないけれど、そのころに読んでいた本やマンガはどのサイトを通して手に取ったのか鮮明に思い出せるものがかなり多い。「徳川夢声戦争日記」←唐沢俊一のウェブ日記、「孤独のグルメ」←sawadaspecial.com、清水義範「発言者たち」←「B館」、倉阪鬼一郎「内宇宙への旅」←「見下げ果てた日々の企て」、「闇の左手」←「猫を起こさないように」などなど。いましろたかしや黒田硫黄にはかり知れないショックを受けて、「OHP」の「強くオススメ」漫画はどれも読むつもりでいた。

自分の場合、20代前半でもう読書という行為を諦めている。万巻の書物を読破する、どころか一冊読めば九九九九冊の読めない本が行く手に現れる。そして渡邉一考が書くように、「それは突然に断ち切られる」、つまり読書家にとって死というかたちで読書の個人史は不意打ちのように途絶する。平凡さというおのが運命を受け入れたうえで、それでも大事にしている、いや大事にしたいのは凡庸かつ稀少な「縁」というもので、そのときどきにつきあっている知人に縁のある本は「呼ばれた」のだと思って優先的に手に取る。そばにいる魚を素手で掴み損ねたように取れないことも多いのだが、手に取れた本は不思議なくらいに読んでみてよかったと思えるものが多い。

It has turned out that I am far from good at proofreading. I cannot help but shout, say, “うおー”, “うわー” or “吸い込まれるー!” when I am thoroughly absorbed in a story or an article. How on earth could it be that such an expressive and emotional person is wary enough to detect typos, misspellings, grammatical errors and so forth?(I’m writing this in a half-jest way!) 😂

作ることに心血を注いでいますが、宣伝方法をあまり考えられていません……。宣伝というもの一般にたいする苦手意識があるかも。

編集中の雑誌の創刊号、もう少しで目次を公開できます!心から素晴らしいと思える原稿ばかりです。

【情報募集】間の抜けた質問で申し訳ないのですが、
1.雑誌で「長編」「長篇」「短篇」「短編」ってすべて統一させるほうがいいと思いますか。それとも各寄稿者の表記そのままで行けばいいのか。各原稿のなかでは統一させるほうがいいでしょうけれども、自分は「短篇」と表記することもありますが、『J・G・バラード短編全集』は「短編」……。
2.一般に叢書名の表記って、《新編 日本幻想文学集成》と〈新編 日本幻想文学集成〉どちらが一般的なのでしょう……?

【情報募集】自分でおこなう予定が現在あるわけではないのですが、出版系の企画でクラウドファンディングをする際に参考になる書籍などご存じないでしょうか…?

こま切れの時間に、国会図書館デジタルコレクションを利用して1920~30年代生まれの海外文学者の批評を読んでいます。小沢書店の本が大量にあるのがうれしくて、篠田一士の多くの本が読めます。清水徹『廃墟について』(河出書房新社)も素晴らしいし、川村二郎の文芸批評や時評は群を抜いていると思います。文芸誌の(国内)文芸時評の第一回冒頭でエリアーデ『ムントゥリャサ通りで』を扱って、それが小説における「わからなさ」を軽んじるなというメタメッセージになっていたりする。

同じ一年に大滝和子の既刊全歌集と雪舟えま『地球の恋人たちの朝食』が出る時点で、惑星直列だし、とても流星群だとおもう(さらに誤つたコトバを索めて)

天沢退二郎、文芸批評集もう数冊くらい出てほしい……。

基本的には誰だっていいのだが、「死」から遠いところで仕事をする作家と、「死」のすぐ近所で書く作家と、「死」のちょうどそこのところ、あるいは「死」のじつは中心部でものを書く作家とにわけられるとして、最後のものの典型が他ならぬブランショであり、そのようなブランショは不可触である(略)。(天沢退二郎『幻想の解読』)

魔女といえば、垂野創一郎さんのブログで紹介されている『魔王 第二号 魔女のいる文学史』はつよくオススメです。わたしのイチ推しの女性シュルレアリスト、ネリー・カプランの短篇が数篇翻訳されています(訳者の宮川尚理はウニカ・チュルン『メゾン・ブランシュでの休暇—ウニカ・チュルン遺稿集』も訳されています)。垂野さんいわく、「どの記事も驚くほどレベルが高い」「ベレンの翻訳も期待を裏切らないすばらしいものだった」「願わくはこれを訳された宮川尚理氏の手によってベレン(ネリー・カプラン)の翻訳が単行本としていつか出んことを」。そして、この「たまに連れだって古本どらねこ堂に行くK氏」とは実はわたしのことです(え!)。
puhipuhi.hatenablog.com/entry/

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