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ZINE「tanec」1号で知った四谷のチェコ料理屋さん「だあしゑんか」、絶版の文学、絵本まで含めた中東欧関係の書籍の充実ぶりがすごいです。イスクラ『OSTMODERN』、国書刊行会の〈文学の冒険〉シリーズ、『ベルリンうわの空』なども。探しているサイフェルトの詩集とかまであってびっくり。

宮川尚理氏が論文で紹介しているウニカ・チュルンの詩。cir.nii.ac.jp/crid/10500013373
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子供の遊びは厳禁

道化者はうんざりして暗い雨の中をさまよう。
がらくたの山にうんざりして。ヴァイオリンかき鳴らし
庭の中を凝視する。楽しみは虎の接吻でそこなわれてしまった。子供たち,跳躍を救って! 小声で唱えて,「米,砂……」と。星の精霊に助けを求めてはだめ! 狂った時間が嘆いている
「子供の遊びは厳禁」と。」
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これについて宮川氏が「ウニカ・チュルンが最初期に試みたアナグラムのひとつが「子供の遊びは厳禁」といった抑圧そのものであるようなテクストから出発していることは暗示的である。抑圧にさらされている日常の中から,チュルンはアナグラム操作によって《もうひとつの現実》を導き出そうとする。」書いているのは面白い。ただ、邦訳の『魔女文書』はテキスト量ほんとうに少ないです。手元にありませんが、500字もないくらいだったような。

アンナ・カヴァンのJeremy Reedによる伝記、A Stranger on Earth: The Life And Work of Anna KavanのAmazon商品ページに行ったら、「最後にこの商品を購入したのは2006年9月23日です。」と出てきた(発売日は2006/9/15と記されている)。当時は英語から逃げ回っていたけど、ほんとうに読みたいと思った本は買っていたことを急に強烈に思い出した。

「文藝」の最新号で知ったジョージア映画祭、アレクサンドレ・レフヴィアシヴィリ監督「19世紀ジョージアの記録」。「深い森を舞台に謎めいた陰謀が描かれる。モノクロームの夢幻的ともいえる詩的で象徴的な映像、迷宮のような世界に政治体制への思いが込められた伝説的作品。権力による暴力が超現実的な虚構空間で寓意的に表現され、時代を超えた内容である。」映画祭の公式サイトによる紹介文に惹かれてこの作品を選んだけど、独自の美学の感じられる印象的な作品だった。

エンドロールの幕が上がったあと、この映画祭の企画を務めている方が「60分の映画でお金を取ったら悪いから」と言って、作品とジョージアの現代史との関係をマイク片手にアドリブでレクチャーしてくれたのに熱意を感じた。帰宅してすぐ、(ほとんどジョージア文化を知るためだけに以前レッスンを受けていた)オンライン英会話のジョージアの先生にきょうのことを送った。こうした親密さもあるのだ。

ZINEの作業をはじめてとてもうれしいのは、「どの本に載っているかもわからないし、検索しても出てこないし、誰に聞いたらいいかもわからない」、そういうことがらについて幾つも知ることができていることだと思う。それを誌面にかならずしも反映させることができるとはかぎらないけど、それだけではじめた意味があったと心から思える。

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お手紙出したこといけない
汽車に乗ったこといけない
私のしたことみないけない

苦しい時には
外へ出てはいけません
立派な御本をおよみなさい
立派な御本をおよみなさい

けれど私は疲れはてて
いつも眠ってしまうのです
---山本沖子『花の木の椅子』(彌生書房)

9/1か9/2の午後、「ジョージア映画祭」の映画を観に行く予定なのですが、フォロワーさん(ただし面識ある方か、リプライかメッセージで一度はやりとりしたことがある方)でもし関心ある方いましたらご一緒しませんか…?でも、ほんとうに映画だけ観て解散です。

極近視眼的なことその2、柘榴について。そのパキスタンの作品にも柘榴が出てきた。佐々木あや乃氏の文章によると、ペルシア文学にも頻出するらしい。

「柘榴はペルシア語では「アナール」と呼ばれ、省略形の「ナール」は「火」という意味も含む。目にも鮮やかな真紅の柘榴は真っ赤に燃え盛る火とも通ずるところがあるためであろうか。ペルシア文学では宝石箱やルビーは言わずもがな、麗人の唇や胸、血の涙(号泣して涙を流し尽くしたさまをこう表現する)、人が微笑むさままでも柘榴に喩える。」(佐々木あや乃「色彩豊かな宝石箱でおもてなし」沼野恭子編『世界を食べよう! 東京外国語大学の世界料理』東京外国語大学出版会)

あるウェブサイトには、地中海西岸から中東のイラン、南アジアにかけての広い地域に柘榴は植生すると書いてある。一般に異文化理解を考えるとき、アナロジーや相同性でなにかを視ようとする(見出し過ぎる)のには慎重になるほうがいいのだけど、この作品を読んだことでモチーフとしての柘榴にさらに興味がわいてきた。

KAGUYAの翻訳短篇をこれまで読んだかぎりでは、ひとつの極から真逆の極へとゆく振り子のように人間関係が反転するような作品がいくつもある印象を受ける。それは現在の地球人の性が二分法で理解されることが多いことと関係はあるのだろうか。自分がいままさに殺さんとする未知の存在が(読者の主観時間で)瞬間的に恋人へと切り替わるなどという場面は、実社会では稀だろう。そこにファンタジーではなく、手法としてのSF性があるのだと思う。あるいは瞬間的なネガの反転ではなく、登場人物のときに微かなこころのゆれ動きを捉えようとできるところに言語芸術としての文学性があるのだと思う。

極近視眼的なことその1、ジンについて。南チロルのジェニー・カッツォーラ「パーティートーク」にもジンが出てきたし、少し前に読んだパキスタンの未訳SFFにもジンが出てきた。ただ、女性のジン(ジンニーエ)にははじめて出会った。(つづく)

ソニア・スライマーン「ムニーラと月」(「KAGUYA Planet」No.2)。パレスチナの名が冠されていることも手伝い、作品単独での感想はまったくまとまらない。ただ、自分が普段考えていることと照らすと、そこから(不可避的に)思考が拡がる箇所がいくつもあって興味ぶかかった。

これはメルヘンではないのか、あるいは、ここになんらかの点でのパレスチナ性はあるのか、と脱力する読者もいるのかもしれない。ただ気になった部分は、物語比較的序盤の「人間を地上から拐って恋人にしてしまう男のジンの話はたくさんあるけれど、女性のジン(ジンニーエ)の恋人になった女性の話なんて聞いたことある?」を含むパッセージ。ファンタジー的な意匠を纏っていても、この箇所は社会における束縛しようとする男性とか、異性愛を規範からの逸脱として斥ける態度へのちいさな声による異議申し立てとしてある。ただ、自分自身が男性読者なので、なにか根本的な思いちがいをしているかもしれない。(つづく)

津原泰水、まえに読んだ『綺譚集』という作品集がとても濃密だったのですが、『バレエ・メカニック』は気になりつつ読めておりません。面白そう、吸引力がすごそうな予感があります。

1991年6月25日のNHK教育テレビ、「現代ジャーナル 私の見つけた美しい日本語・翼あることば」では多田智満子が神戸の自宅で詩について語り、ボルヘス「王宮の寓話」などにも言及しています。ボルヘスがテレビで語られるのは多くないのでは。

(Mastodonだけの投稿)loneliness booksと(TT) pressが共同で運営する、東中野の書店兼スペースplatform3に行ってきました。ZINEの品揃えが豊富といわれる韓国の書店YOUR-MINDのサイトを通してたまたま(TT) pressの刊行物を知り、行ってみたらきょうがオープン初日とのことでした。クィア、ジェンダー、アジア系の書籍がすっごくたくさんあります。『結晶するプリズム』なども置いていました。

で、自分が購入したのは、ブローチ作家bangkok_broochさんがパンチニードルでひとつひとつ手作りしたキンパのブローチです。あまりにもかわいくて…。

災害時用に備えるもの、たしかに考えどころですよね……。自分も選択がいいものであるという自信があるわけではまったくないのですが、ここを下にスクロールした「おかず」の項には、スープ類はいろいろあります。
izameshi.com/lineup/

【はらぺこ時閲覧注意】早起きして、乃木神社で風鈴回廊→ウエスト青山ガーデン→六本木21_21 DESIGN SIGHTにて展覧会「未来のかけら 科学とデザインの実験室」。人気のウエスト青山ガーデン、友人がケーキセットを頼んだらその日あるケーキを一挙に店員さんが見せてくれて、緑色のケーキはなんとキウイクリームのケーキなんだそう!自分が頼んだのは名物のまんまるパンケーキだったのだけど、キウイクリームってどんな味なのか一度試してみたい気がする。ロシア人の友人は、メニューになぜかボルシチ(つけあわせはフランスパン)があるのを発見していたく面白がっていた。

頭を使う活動とバランスをとるためにときおり水泳をしていますが、やはり気持ちいい。子どもの頃はスイミングスクールから泣いて逃げ出していましたが、通わせてくれた親にいまは感謝……。

フォロワーさん何人かが話題にしていてアンナ・ゼーガースに興味を持ったのですが(自分はひと文字も読んでいません)、巽孝之、沼野充義、立原透耶、新島進、識名章喜による座談会「世界SFの透視図」を読みなおしていたら(「三田文学」2019年春号)話題になっていました。SF作品も書いているのか…。なお、前川道介も何度か書いていることですが、ドイツ文学研究者の識名氏によると、ドイツでは純文学と大衆文学の区別は「日本以上に明確に分ける」とのことです。

好きな映画として、ぱっと思いつくもの。とにかくジョージア映画祭が楽しみ…。

2001年宇宙の旅(アメリカ)
ミツバチのささやき(スペイン)
はちどり(韓国)
牯嶺街少年殺人事件(台湾)
冬冬の夏休み(台湾)
アンダーグラウンド(フランス・ドイツ・ハンガリー合作)
サラゴサの写本(ポーランド)
奇跡(カール・ドライヤーの)(デンマーク)
8 1/2(イタリア)
沙羅双樹(日本)
エロス+虐殺 (日本)
ぐるりのこと (日本)
サンライズ(アメリカ)
タンポポ (日本)
風立ちぬ (日本)
千年女優 (日本)
イノセンス(日本)
ざくろの色 (アルメニア)
去年マリエンバートで (フランス)
勝手にしやがれ (フランス)
欲望の翼(香港)
カイロの紫のバラ (アメリカ)
処女の泉(スウェーデン)
盗まれた飛行船(チェコ)
水玉の幻想(チェコ)
ホーリー・マウンテン(メキシコ)
おこんじょうるり (日本)
少年と子だぬき (日本)
おたまじゃくしが母さんを探す(中国)
マヤ・デレン作品集
ビフォア・サンライズ (アメリカ)
田園に死す (日本)
リンダ・リンダ・リンダ (日本)
月とキャベツ (日本)
アヴェティック(アルメニア)

オーストラリア・ニュージーランド文学会の「南半球評論」、ある時期までは創作の翻訳を意欲的に載せていて、パトリシア・ライトソン、モーリス・ジー、ピーター・ケアリー、マーガレット・マーヒーらの(おそらくここでしか読めない)作品が訳されています。わたしがこのなかで実際に読んだのはライトソンだけですが、大傑作だと思います。モーリス・ジーは気になっているのですが、読みたい作品が電子で出ていない…。

短歌批評のコンテクストで「文語警察」という語を目にしたことがあります。あやまったコトバ遣いをしていたらとりしまるぞ、という感じでしょうか。

Courseraで聴講できるWesleyan Universityのcreative writingの授業では、創作志望者が不必要なまでに副詞を多用する傾向にふれて、先生がたが「あんまり副詞が多いとうちらがassassinateしちゃうよ」みたいにジョークめかしていう場面があります。こういうのはadverb assassinとでも呼ぶのでしょうか。コスチュームは伊賀の密偵という感じでしょうか(妄想力ゆたか…)。

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