辛島デイヴィッド『文芸ピープル』におけるイースト・アングリア大学の文芸創作プログラムについて触れた箇所に、「イギリスではまだ他に文芸創作のプログラムがない時代(引用者註: 1984~1985年のこと)で、内容も伝統的な英文学のカリキュラムに近く、文学史や文学理論に関する試験もあった」。という記述がある。これを読んではじめて、「ということは少なくともいまはこの大学においては(あるいはほかの多くの大学でも?)創作科では文学史の試験などは課されないということか」などとぼんやり思ったものだった。実情は知らない。
さて最近、カナダ生まれだがアメリカの大学を卒業し、在学中に詩の創作の授業を受けていたという青年と話す機会があった。十数人の少人数授業、受講生同士でフィードバックをおこなうという点などはよく聞くこの種の授業の進めかたと変わらないと思ったのだけど、プロの詩人の作品はなにひとつ読まなかったという。先生によって授業のスタイルはことなる、とも言っていた。自分がCourseraで聴講しているcreative writingの授業でも、プロの作家の実作についてどれくらいの数、どれくらい踏み込んで語るかは先生によってことなる。(つづく)
洋書を所蔵する図書館でみつけて「こんな本あるのか!」と驚いたのが、三島由紀夫と Geoffrey Bownasという方が共編したNew writing in Japanというアンソロジー(1972、Penguin)。目次には、稲垣足穂、高橋睦郎、吉岡実、塚本邦雄といった面々の名が(も)並ぶ。知人に話を伺うと、海外の編集者の依頼を受けて、三島がセレクトして交渉し最晩年に編集した本であるとのこと(ただ、Geoffrey Bownasの意見がどれだけ反映されているかはわからないとも)。
高橋睦郎はすでに多くの国で読まれているが、稲垣足穂、吉岡実、塚本邦雄らはどうだろうか。たとえば吉岡実の初の英訳書Lilac Gardenを手がけた佐藤紘彰は、『アメリカ翻訳武者修行』(丸善ライブラリー、1993)において「本は売れず、出版社が出版対象を変えたためもあって訳者に相談なくゾッキ本としてしまった」と書いているし、その後詩集『静かな家』の英訳も刊行されているようだが、Goodreadsを見る限り少なくとも一般読者にまともに読まれているようにはみえない。
泉鏡花をひさしぶりに読んでいる。いままで一度も出会ったことのない語彙や語法にみちているのに、告白すれば文法さえ不明な箇所も多いのに、彫琢され燦然とかがやく世界へ引き摺り込まれて先へ先へとページを繰りたくなるのが不思議で仕方ない。現代人がこの作家を読むとき、脳の中ではいったいなにが起きているのだろう。
天沢退二郎がわざわざインタビューをしに出かけ、宮崎駿もあるイベントで好意的に言及していたというオーストラリアの児童文学作家パトリシア・ライトソンが、児童書について「南半球評論」という雑誌でこんなことを言っていたのを思い出す。「構成が優れていれば、語彙の難しさは問題にはなりません」。これは大人になりきっていない「子ども」の読書を想定しての話だが、現代人が明治の文豪を読む際に起きるなにがしかの現象と相同に考えることはできるのだろうか?本当は、未知の語彙や文化背景、いまは廃用になった文法項目について、少しずつ調べながら読み進めるほうが、テキストのより深い理解には到達できるはずだ(調べる手だてを探すのも苦労だろうが)。ただ、『高野聖』や『春昼・春昼後刻』を読んだときと同様、手を止めながら読むということが、一度書物を持ち上げてしまったが最後、快楽をまえに困難になってしまうのだ。
東大の現代文芸論の公式サイト、Internet Archiveを使えば去年以前のシラバス、つまり各科目の授業紹介をこっそりみることができる。多和田葉子の授業、「現代文学と多言語世界—精読と創作」の内容説明。
「1.小説の細部に身体ごと入り込んで、宇宙を旅する練習をする。たった一つの文章、たった一つの単語、時にはたった一つの文字が大切。細部にこだわることで、別の時代、別の言語、別のジャンルに視線をつなげていけるようにする。
2.たった一つの言語の中に隠されている多数の言語を見つける練習をする。」
「小説の細部に身体ごと入り込んで、宇宙を旅する練習をする。」なんて力強い言葉!少なくとも21世紀初頭の時点で宇宙旅行の練習を学生に、しかも教室でさせてくれる授業というのは世界を見回してもそうそうないのではないだろうか。
これはまるで神話のように聞こえるが、もしかしたら、魂の文学とはそういう神話に他ならないのかもしれない。それは不断に消え失せては、不断に現れる伝説であり、人間の中の永遠に治癒することのない痛みでもある。個人についていえば、魂の書き手の苦痛は、おのれの苦痛を証明できないことにある。彼は一篇また一篇の作品によってその苦痛を刷新するしかなく、それが彼の唯一の証明なのだ。こういう奇妙な方式のせいで、永遠に破られることのない憂鬱が彼ら共通の特徴となっているが、その黒く重い憂鬱こそ、まさに芸術史の長い河を流れる活水の源なのである。たゆみない個体がこうして内へ掘り進む仕事に励むとき、彼らの成果は例外なく、あの永遠の生命の河へと合流する。なぜなら歴史はもともと彼ら自身のものであったし、彼らがいたからこそ、歴史が存在し得たのだ。教科書の上の歴史と並行するこういう魂の歴史は、もっとも鋭敏な少数の個人によって書かれる。だが、その歴史との疎通し、通い合いは、すべての普通の人に起こりうる。これはもっとも普遍性を備えた歴史であって、読み手は身分、地位、人種の制限を受けない。必要なのはただ、魂の渇きだけである。」
残雪「精神の階層」近藤直子訳
「魂の文学の書き手は、後へは退けない「内へ内へ」の筆遣いで、あの神秘の王国の階層を一層また一層と開示し、人の感覚を牽引して、あの美しい見事な構造へ、あの古い混沌の内核へとわけ入り、底知れない人間性の本質目指して休みなく突進していく。およそ認識されたことは、均しく精緻な対称構造を呈するが、それはもう一度混沌を目指して突撃するためでしかない。精神に死がないように、その過程にも終わりはない。書くことも、読むことも同様である。必要なのは、解放された生命力である。人類の精神の領域に、最下層の冥府の所に、たしかにそういう長い歴史の河が存在している。深みに隠れているせいで、人が気づくのは難しいけれど。それが真の歴史となったのは、無数の先輩たちの努力が一度また一度とその河水をかきたて、何年たっても変わらずに静かに流れ続けるようにしてくれたおかげだ。(引用続く)
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