新しいものを表示

air-tale.hateblo.jp/entry/2021
拙ブログ記事より。矢川澄子訳のノヴァーリス、多田智満子訳のシュペルヴィエル、佐藤弓生訳のユルスナールについて。なお、この中でシュペルヴィエル「ミノタウロス」は復刻させる価値のある傑作だと思います。

shimirubon.jp/reviews/1702342
海老原豊氏の松田青子『持続可能な魂の利用』書評。この小説における「おじさん」がパフォーマティブ(行為遂行的)な存在である、と指摘している箇所は示唆に富んでいると思う。

あるとき「大学の卒論で扱ったのはジェンダーSFだった」と人前でこぼしたら、「さまざまなSF小説にみられる女性像」を精査したのだと思われて、面白い誤解のされ方だなと感じたことがある。たとえば「海を見る人」「美亜へ贈る真珠」「たんぽぽ娘」といった作品における女性像は、素朴といえば素朴きわまりないだろう。ただそれと同時に、社会変革に向かって突き出す力をそなえたラディカルなジェンダーSFをも多く生み出してきた、ジャンル総体としての巨大さ、包摂性にはうたれる思いがする。

きょうは広尾~麻布十番エリアをロシアの知人と散策したのですが、National Azabuという世界の食材を取り揃えた高級スーパーがとても刺激的な場所でした。ヨーロッパ、中東、ラテンアメリカからの瓶詰食材などがすごい品ぞろえで、おみやげとして瓶に入ったイランのスープの素、ガーリックオイルサーディンを購入。商品のパッケージをみているだけでも楽しい!

「私は五十代に入って、仕事で外国に行くのをやめてしまったんです。三十代、四十代の頃は講演やらシンポジウムやら、客員研究員やら客員教授やらに呼ばれると、フランス、アメリカ、中国など、面白がってけっこう気軽にほいほいと出かけていたのですが、それをしばらくの間、禁欲しようと思った。吉田健一はケンブリッジ留学を切り上げて帰国する決心を固め、当地の恩師のG・ロウェス・ディッキンソンのところにそれを報告しに行ったとき、ディッキンソン先生から「或る種の仕事をするには自分の国の土が必要だ」という言葉でその決意を励まされたと回想しています(『交遊録』一九七四年)。聡明な、しかも温かな言葉ですよね。師というものは自分の学生にこういう言葉こそを投げかけるべしという、模範のような逸話です。私自身、長い歳月にわたった教員生活のなかで、こういう言葉を自分の学生に対してどれだけ発することができたかと省みると、忸怩たるものがありますが、ともあれ『明治の表象空間』の執筆中、このディッキンソンの言葉がずいぶん大きな支えになりました。」(松浦寿輝)

ある大規模な統計によると、インド料理では?と一瞬思いたくなるチキンティカマサラはなんでもフィッシュアンドチップス、サンデーローストについでイギリスの国民食3位にランクインしているらしい。この現象をこの本は、日本におけるカレーとラーメンの立ち位置とパラレルに見立てている。発祥はほかの国でも、アレンジしながら食べつけてきたからこれは自分たちの食文化なんだ!という自負。また、イギリスの中華料理は香港からの移民がベースを作り上げたから基本的には中華のなかでも広東料理である、など目からウロコの「物語」が満載。ネタバレはわるいので、詳しくはぜひ本を手に取ってどうぞ!

「イギリス料理はまずい」という言葉は、多くの人が聞いたことがあるにちがいない。そこで考え始めるのは、「もし自分がイギリスに生まれていたら、どういう世界像や経験を持っていたか」ということ。外国の人と話すたびに、いつも「イギリス料理ってマズいって言われるよね~」などといじられるとしたら(casual and slight racism?)、表面的には微笑んで受け流すかもしれないけれど、それはちょっとさびしいのではないだろうか。

石原孝哉・市川仁・宇野毅編『食文化からイギリスを知るための55章』(明石書店、2023)はイギリス料理の多様性と伝統の双方に目を向けさせてくれる。日本人が和食ばかり食べているのではないのと同様、イギリスにも世界中の食べものがたえず流れ込んでくる。1970年代、インド・パキスタン紛争、パキスタン・バングラデシュ紛争で祖国を捨てた大量のインド人がイギリスに移住し、インド料理が急速に広まった。中華料理の発展には香港返還をめぐる政治上の争いも大きなファクターとなっていて、そもそもイギリスの中華料理は香港からの移民がパイオニアの役割を担った。このあたりの近現代史と食の発展のリンクを詳細に書き込んだ章が圧倒的におもしろい。

英語圏では翻訳と感じさせない翻訳が好まれる傾向がある、とものの本には書いてある。でもわたしは、翻訳書を読んでいるときに、それぞれの翻訳家の体臭を眼と鼻と脳とで記憶し、次に同じにおいがいつ鼻孔をくすぐるのか、ノラ犬のように愉しみとしている。アイルランド文学者の栩木伸明は『琥珀捕り』において「思う」を「おもう」とひらくが、詩についての論考でも同じような表記をしていた。矢川澄子の随筆には「したたか」という言葉がずいぶんたくさん出てくるが、絵本の翻訳にだって登場する。翻訳家のクレジットがなくても、それが誰の手になるものか(ある種のお気に入りの本においては)当てられる自信がワタシにはある。

*たとえば秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)。

岡田恵美子、北原圭一、鈴木珠里編『イランを知るための65章』(明石書店)。テヘランの地下鉄には痴漢を防ぐための女性専用車両があり、全員がヘジャーブをつけているので遠くからだと車両いっぱいの鳥の群れのように見えるのだとか。これについてイランの人と話したところによると、女性専用車両は先頭車両といちばん後ろの計ふたつ、朝のラッシュアワーだけでなく、終日女性専用らしい。こんな話を聞くと、イラン社会における女性の地位についても知りたくなってくる。

イランの書道における書体の話も面白い。p105の図版を引用するが、この4つすべて、書かれている言葉が同じだとは。

私の大好きな台湾文学である朱天心『古都』ですが、「私が選ぶ国書刊行会の3冊」(40周年記念小冊子)で敬愛する蜂飼耳さんが挙げていて手に取りました。かなりの数の選者が幻想小説やその周辺書を択ぶなかで、この詩人にはまったく未知の文学について教示してもらったという深い感謝の念があります。

藤野可織における「時間ある?」(ジニー竹森訳で「GRANTA」にも訳出)のような植物幻想の作品の切れ味の鋭さは、キット・リード「ぶどうの木」に肉薄しているような気がする。科学性が希薄でも年刊SF傑作選に収録するとアンソロジーが引き締まるような感じ、とか。

@araragiumi すごい、最新のSFマガジンの大学生アンケート結果、もう中国語になっているんですね。木海さんがつくられたのですか?(^-^)

キム・チョヨプ「マリのダンス」(「SFマガジン」23年10月号)。キム・ウォニョンとの共著『サイボーグになる』9章で語っている内容を「小説で」書き直したように自分にはみえてしまって、フィクションならではの震動を感じ取ることが残念ながら今回はできなかった。著者のnon-judgmentalな姿勢、弱者への優しいまなざしについてはこれからも注視していきたい。

日本文化・日本文学の研究書やイベント情報だと、文学通信(出版社の名前です)のメルマガはかなり有用かと思います。ジェフリー・アングルスさんとか、日本文学英訳者のトークイベントの情報とかも掲載されていたりします。

90年代(?)のInterzoneっていい意味での規範からの逸脱というか、尖った作品が多そうな予感がしているのですが、時期が絞り込めず、「この編集者の時代が」とか「〇年頃から〇年頃まで」とかあればご教示願えないでしょうか。

自分は森開社の『左川ちか全詩集』で左川ちかを読んだのですが、岩波文庫に入るとは感慨深いです。海外詩好きとしては、白鳥友彦編『月と奇人』が講談社文芸文庫「現代日本の翻訳」に収められる日のことを夢見します。

自分も、一生のうちに一回くらい同人誌なるものを作ってみたい。知人に言ったら「そんなの作ろうと思えばすぐ作れちゃいますよ」と笑われちゃったけど。

レメディオス・バロ、いやしの本棚さんの紹介で購入したRemedios Varo: The Mexican Years(Rm Verlag)がとても充実した画集で「ねえねえこの絵!」と誰かに開いて見せたいけれど今のところその機会には恵まれていない。でも宝物だぞ。

ここ1,2ヶ月でも言語学系の研究者の方数人にお話を聞きにいっているけど、文芸とはまた別に、とにかく学問的な話をする場に飢えている自分がいるのに気づく。こういう場合、場に飛び込むか、自分で場をつくるかのどちらかだろう。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。