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ここひと月ほどの読書&鑑賞、堀田季何『人類の午後』、エミール・クストリッツァ「アンダーグラウンド」、小松理虔『新復興論』と鼻血がいつまで経っても止まってくれません。「意識高い系」と嘲笑されようと、社会や歴史という題材に真正面から取り組むテクストに惹かれます。

シドニーにおいてショーン・タンと馴染み深い博物館が、the Sydney Powerhouse Museum。自分がこの博物館を訪れたときに販売されていたTHE OOPSATOREUMという本(あ、買い忘れている!)も、ショーン・タンがこの博物館の展示にインスパイアされて作成したものであったはず。

川上弘美『龍宮』の英訳がニューヨーカーのBest Books of 2023のうちの一冊に選ばれたようです。Monkeyに抄訳された澁澤龍彦『高丘親王航海記』も英訳単行本が出るし、日本の幻想小説は躍進を続けていますね。

台湾のアーティストA ee miさんのマンガ、『Platonic Love』が批評精神にあふれたあまりにも素晴らしいジェンダーSFなので、鈴木賢『台湾同性婚法の誕生 アジアLGBTQ+燈台への歴程』(日本評論社、2022)も取り寄せる予定。この作品については時間をみつけて紹介記事を書きたい。

今年の国書税、ほかに買いたい本は無限にあれど、垂野創一郎さん訳のジェイムズ・ブランチ・キャベル『イヴのことを少し』を注文しました~。

深夜叢書社の本で、という括りでなく、「過去の自分がこれを読んでいなかったら今の自分が死んでしまう」という詩集が橋本真理『幽明婚』。

中央公論新社から出ている本で気になる本の割合が増えている。

ここ数年で購入し文字通り至宝だと思えるものは、大名力『英語の綴りのルール』とそこから遡って知った竹林滋『ライトハウス つづり字と発音の基礎』(1991、絶版)。強勢の位置さえわかれば、すさまじい数の英単語がそのつづりを見ただけで発音記号がわかるという驚異的な本。数年かけて少しずつ咀嚼している。

京フェス、「橋本輝幸×鯨井久志 海外SF紹介者という仕事」のパネルだけでも拝聴したいけどお仕事と、すでに欠かせない用事が入っており……参加できる方がうらやましいです。

「作家の読書道」って読み始めた瞬間に自分の脳内で快楽物質が出始めるのがわかる。たとえそれが自分が読んだことのない作家さんの場合であってさえ。

「これを紹介するまでは死ねない」みたいなのが少しだけ出てきた。というか、自分より英語ができる方にやっぱり読んでもらいたい…。

「ふつうは、切り捨ててしまったものに対して、テクスト自体は痛みを感じないのに、連作短編は、隙間だらけなんだけど、それをつなぎ合わせてみると、その隙間まで読み手の目が届く。そういう点では、やはり長編よりは言えることが多いと思うんです。」柴田元幸との対談における和田忠彦による目を洗われるような発言。連作長編をも含めた小説の形式について考えるための啓示が降りてくる。筒井康隆作品におけるラゴスの旅は、だから長編よりも長いのか。蓮實重彦『反=日本語論』はだからエクソフォニーである以前にポリフォニーなのか。あるいは、カルヴィーノ宇宙における冬の夜のひとりの旅人は?

@funa1g ありがとうございます!そうですね、以前のペンネームは使わなくなってひさしいのですが、これからもどうぞよろしくお願いします。京大SF研の方で私のことを知っているかたには、ペンネームが変わったことを伝えていただいてけっこうです。

翻訳といういとなみを考えるためにもっと読みたい書き手。和田忠彦、ヴァレリー・ラルボー、岩崎力、秋草俊一郎、Sato Hiroaki、阿部大樹。クリシェから距離を置くための視座を、少しでも手に入れたい。

海の向こうでは現在進行形で殺戮がおこなわれるなか、数年前と異なり、休日に映画館や美術館にも足をのばせる、そんな日常。「普段は気がつかないものだが、人間にとってもっとも大切なのは自由なのだ(イ・ソンチャン)」。しかし、ほんとうにこんなことをしていていいのか、他にやるべきことがあるのではないかという疑念に襲われる。早く停戦が訪れてほしい。

酉島伝法を読んでいるのだけど、評論で「90年代に頭角を現した作家」という表現を見ただけでその作家から蝸牛のように角が生えてきたり、日本語教授用の教材で「鶴首して待つ」という言い方を見ただけでヒトの首がろくろっ首のように厭な曲線を描いて伸長する光景を幻視したり、日常生活に支障が生じてきた。なんて悪い作家なんだ。

「宇宙飛行士とジプシー」「ぼくと犬の物語」「胎動」そして『時のほかに敵なし』。ぼくにとってマイクル・ビショップは、魂の救済という問題について誠実に向かい合ってくれた稀有な作家です。中短篇集が出たらぜったい購入します。

追記
日夏耿之介といえば、とある古書店の店主が最近おすすめしてくれて購入したのが『日本の詩歌 (12) 木下杢太郎 日夏耿之介 野口米次郎 西脇順三郎』(中公文庫)。日夏をはじめとする詩作品に、すごい量のグロッサリーがついているのだ。難度の高い語彙が、平易な現代語にあられもなく(!)言いかえられている。

*自分が以前調べた限りでも、ロシア語訳はこの一篇のみ。英語圏では『春昼・春昼後刻』「化鳥」なども訳されている。

同じころ、言語学習系のSNSでやりとりをしていたファンタジー小説好きのロシア人から、「外科室」の感想が送られてきた。「私が知る限りこの作家の唯一のロシア語訳なのですが」*、という文言とともに、筋――と同時に書かれてはいないもの――を理解していなければ到底出てこないような興奮のことばがそこには綴られていた。

言語教育という観点から考えたとき、文豪の作品や国内の古典を日本の若い世代が現代語訳で読むことを批判することはたやすい。活字離れによる嘆くべき学力低下と単純化して、いくらでも攻撃できる。一方で、たとえば英語圏では20代半ばで鏡花を訳し、その後日夏耿之介の研究にさえ本格的に取りかかっている、ピーター・バナードのような俊英さえ登場している。さてふたたび、ここで「海外の優秀な人々に比べていまの若いのは日本語もできない」などと言いつのるのもたやすい。しかし、彗星のようなエリートが彗星のように出現することに託すよりも、全体の底上げを意識することのほうが、文学という森の入り口を灯火で照らすことにはつながると思えてならない。国内の高校や大学での教育に寄せすぎる必要はないのだけど、大学の文学部で原書の小説をどう読んでもらうか、という話にもこの話題はスライドしうると思う。

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