@funa1g ありがとうございます!そうですね、以前のペンネームは使わなくなってひさしいのですが、これからもどうぞよろしくお願いします。京大SF研の方で私のことを知っているかたには、ペンネームが変わったことを伝えていただいてけっこうです。
同じころ、言語学習系のSNSでやりとりをしていたファンタジー小説好きのロシア人から、「外科室」の感想が送られてきた。「私が知る限りこの作家の唯一のロシア語訳なのですが」*、という文言とともに、筋――と同時に書かれてはいないもの――を理解していなければ到底出てこないような興奮のことばがそこには綴られていた。
言語教育という観点から考えたとき、文豪の作品や国内の古典を日本の若い世代が現代語訳で読むことを批判することはたやすい。活字離れによる嘆くべき学力低下と単純化して、いくらでも攻撃できる。一方で、たとえば英語圏では20代半ばで鏡花を訳し、その後日夏耿之介の研究にさえ本格的に取りかかっている、ピーター・バナードのような俊英さえ登場している。さてふたたび、ここで「海外の優秀な人々に比べていまの若いのは日本語もできない」などと言いつのるのもたやすい。しかし、彗星のようなエリートが彗星のように出現することに託すよりも、全体の底上げを意識することのほうが、文学という森の入り口を灯火で照らすことにはつながると思えてならない。国内の高校や大学での教育に寄せすぎる必要はないのだけど、大学の文学部で原書の小説をどう読んでもらうか、という話にもこの話題はスライドしうると思う。
「言文一致styleのグロテスク」というまさにグロテスクな表現をかつて用いたのは松浦寿輝だったと思う。学生時代、『高野聖』や『春昼・春昼後刻』に人生を変えられた自分は、「現代語訳泉鏡花」なんてものがいつか刊行されたらそれこそグロテスクだな、などと思っていたものだった。言語、そして文化の衰微としてそうした未来を捉えていたのだ。
こうした認識に変化が訪れたのは、あるとき、ジェフリー・アングルスが『泉鏡花〈怪異・幻想〉傑作選 本当にさらさら読める!現代語訳版』(KADOKAWA)という本を自身のSNSで紹介していたからだった。日本の外で泉鏡花は川端や三島の十分の一の読者も獲得していないかもしれない。しかしそこにはもちろん、明治の日本語そして作家独自の表現が現代の日本語と大きく隔たっているという事情がある。このとき、現代語訳が刊行されていれば、国外の研究者や翻訳家にとって大きな助けとなりうる。それは、英語学習者が英米の古典をretold版で読むのにも似てエッセンスには触知しえないかもしれないが、必要とするひとにとっては錯綜のラビリンスにおいて眺望を得るための貴重な梯子として現れる可能性がある。もっと言えば、単純にオプションのひとつとして、こういうものがあってもいいのではないか。
谷崎由衣『鏡のなかのアジア』(集英社文庫)
90年代、川上弘美が頭角を現したときに福田和也は書いた。「その世界はなかなかチャーミングだが、またあまりにも強い規範性に、若干将来性への不安を抱かないではない」。現時点での谷崎由衣の小説のいくつかは、ひょっとしたらさらに一層規範的であるかもしれない。それでも、旅行中に携えたこの薄い文庫本から、日々考えていることについて少なくないインスピレーションを受けることができた。
集中では最新・最長かつ巻末に配置された「天蓋歩行」(クアラルンプールほか)をベストに推す読者が多いとみている。けれど自分は、「国際友誼」(京都)にとくべつな愛着を抱く。作者のほかの本やエッセイ、インタビューで、京都で大学生活を過ごしたこと、異言語に揺れる生活をしていること、本文で言及されている作家を作者自身も好きであることなどをすでに知っていたという事情も手伝って、特異で野蛮な私小説として味読してしまった。〈私〉という長方形の一枚の紙をzig zaguに鋏で切り進め、ごわあとしていびつな一本の長い長い帯にする。ありったけの力を込めて、遠くへ飛ばす。紙だからたとえ限度があるにしても、元の長方形よりははるかに複雑な形状をしているのは間違いない。(つづく)
菅野昭正による伊良子清白についての文章。
https://www.shinchosha.co.jp/book/463201/
伊良子清白『孔雀船』、最愛の詩集のひとつだけど、日夏耿之介が熱愛していたというのは先日会った知人が教えてくれるまで知らなかった。自分が読んだのが、日夏の序文つきの版だった可能性そのものはあるけど。日夏訳「サロメ」や矢野目訳シュオッブ、泉鏡花などが好きな方には『孔雀船』、強く強くおすすめです。
実質的に薦めてもらった(と僕が勝手に思っている)本――ラッセル・ホーバンTurtle Diary(ヨーロッパを旅行しながら読んでいた、と感懐を込めて言っていた)、国書刊行会〈文学の冒険〉シリーズで刊行予定がありながら未訳のままのジョルジュ・マンガネッリ『センチュリア』(イタリアの作家だが英訳で読んだそう)、ヘンリー・ミラー『わが読書』、カール・ヴァン・ヴェクテンの書評、トマス・ディッシュの書評、コジンスキー『異端の鳥』、ピーター・S・ビーグル『風のガリア―ド』、ノーマン・スピンラッドBug Jack Barron、イエイツの詩など。これと別に強く薦めてもらった本があるのだけど、生きているうちに読めるかな、せめて読んでから死にたい。洋書である。
本好き、旅行好き。 海外詩/翻訳文化論/日本文学普及/社会言語学etc.文章のアップはSNSよりも主にブログのほうで行っています。よろしくお願いします。https://air-tale.hateblo.jp/