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「傑作」の類義語で面白いものってどういうものがあるんだろう。荒俣宏はシュペルヴィエル『火山を運ぶ男』を「神品」とか。これは社会言語学的には流行語になった「神ってる」と比較しうるかも。倉阪鬼一郎は泉鏡花の選集について、「この巻も病気作が目白押し」とか(ややうろ覚え)。terrificやinsaneをいい意味で使うような感じか…?😅

矢川澄子や岡崎京子が推しているとある映画をこっそり観てきました。

Russell HobanのThe Lion of Boaz-Jachin and Jachin-Boazが好き過ぎて生きるのが辛い…(「生きるのが辛い」のスペシャル用法)。

作家になるのにいったい文学史の試験が必要か、という点については大きく議論がわかれるところだろう。特につよい主張が自分にあるわけではない。が、Ursula K. Le Guinの、ワークショップを疑似的に体験させてくれるスリムで濃密な書物Steering the Craftを想うとき、いろいろな本への言及がうれしかったこと、そのうれしさがもう一度、いつでも返ってくる。

辛島デイヴィッド『文芸ピープル』におけるイースト・アングリア大学の文芸創作プログラムについて触れた箇所に、「イギリスではまだ他に文芸創作のプログラムがない時代(引用者註: 1984~1985年のこと)で、内容も伝統的な英文学のカリキュラムに近く、文学史や文学理論に関する試験もあった」。という記述がある。これを読んではじめて、「ということは少なくともいまはこの大学においては(あるいはほかの多くの大学でも?)創作科では文学史の試験などは課されないということか」などとぼんやり思ったものだった。実情は知らない。

さて最近、カナダ生まれだがアメリカの大学を卒業し、在学中に詩の創作の授業を受けていたという青年と話す機会があった。十数人の少人数授業、受講生同士でフィードバックをおこなうという点などはよく聞くこの種の授業の進めかたと変わらないと思ったのだけど、プロの詩人の作品はなにひとつ読まなかったという。先生によって授業のスタイルはことなる、とも言っていた。自分がCourseraで聴講しているcreative writingの授業でも、プロの作家の実作についてどれくらいの数、どれくらい踏み込んで語るかは先生によってことなる。(つづく)

コンコ堂、水中書店、熊本の汽水社なども音羽館のスタッフが開いたお店だそうですね。すべては行っていませんが…。

短文では意を尽くせないのではないか、というモヤモヤした気持ちがあってtwitterはほとんど見ないので、橋本さんがマストドンにいらっしゃるのはありがたいです。RSSリーダー、なにを使われているのでしょうか…。大昔にははてなアンテナを使っていましたが、いまはもう少しいいものがありそうで。

海外に向けて稲垣足穂、吉岡実、塚本邦雄について紹介するときに、三島由紀夫の名を出す、ということもおそらくは「あり」なのではないだろうか。なお、三島は自分が採ったそれぞれの作家について、序文で簡潔に触れてもいる。

洋書を所蔵する図書館でみつけて「こんな本あるのか!」と驚いたのが、三島由紀夫と Geoffrey Bownasという方が共編したNew writing in Japanというアンソロジー(1972、Penguin)。目次には、稲垣足穂、高橋睦郎、吉岡実、塚本邦雄といった面々の名が(も)並ぶ。知人に話を伺うと、海外の編集者の依頼を受けて、三島がセレクトして交渉し最晩年に編集した本であるとのこと(ただ、Geoffrey Bownasの意見がどれだけ反映されているかはわからないとも)。

高橋睦郎はすでに多くの国で読まれているが、稲垣足穂、吉岡実、塚本邦雄らはどうだろうか。たとえば吉岡実の初の英訳書Lilac Gardenを手がけた佐藤紘彰は、『アメリカ翻訳武者修行』(丸善ライブラリー、1993)において「本は売れず、出版社が出版対象を変えたためもあって訳者に相談なくゾッキ本としてしまった」と書いているし、その後詩集『静かな家』の英訳も刊行されているようだが、Goodreadsを見る限り少なくとも一般読者にまともに読まれているようにはみえない。

日本語学校に通っているルーマニアの方とメールをしているんだけど、きょうもらった返信で
エリアーデの「ジプシー女たちへ」と「マイトレイ」の少なくとも二作(恥ずかしながら私はどちらも未読)を国語の授業で読んだ、と書いてある。他国の「国語」の授業のようすを聞くのが面白いのはまちがいない。

泉鏡花をひさしぶりに読んでいる。いままで一度も出会ったことのない語彙や語法にみちているのに、告白すれば文法さえ不明な箇所も多いのに、彫琢され燦然とかがやく世界へ引き摺り込まれて先へ先へとページを繰りたくなるのが不思議で仕方ない。現代人がこの作家を読むとき、脳の中ではいったいなにが起きているのだろう。

天沢退二郎がわざわざインタビューをしに出かけ、宮崎駿もあるイベントで好意的に言及していたというオーストラリアの児童文学作家パトリシア・ライトソンが、児童書について「南半球評論」という雑誌でこんなことを言っていたのを思い出す。「構成が優れていれば、語彙の難しさは問題にはなりません」。これは大人になりきっていない「子ども」の読書を想定しての話だが、現代人が明治の文豪を読む際に起きるなにがしかの現象と相同に考えることはできるのだろうか?本当は、未知の語彙や文化背景、いまは廃用になった文法項目について、少しずつ調べながら読み進めるほうが、テキストのより深い理解には到達できるはずだ(調べる手だてを探すのも苦労だろうが)。ただ、『高野聖』や『春昼・春昼後刻』を読んだときと同様、手を止めながら読むということが、一度書物を持ち上げてしまったが最後、快楽をまえに困難になってしまうのだ。

【募集】名古屋駅周辺(電車を使う場合は5駅くらいまで)で、夕方から夜の時間に過ごせるおすすめの場所、古書店、および朝食をとるいい場所があれば教えてくださらないでしょうか。きょうチェックしていたのはコーヒーハウス かこ 花車本店、ハセ珈琲店、本棚探偵など…。

きょうは髪をピンクに染めました。この色ははじめてです。

東大の現代文芸論の公式サイト、Internet Archiveを使えば去年以前のシラバス、つまり各科目の授業紹介をこっそりみることができる。多和田葉子の授業、「現代文学と多言語世界—精読と創作」の内容説明。

「1.小説の細部に身体ごと入り込んで、宇宙を旅する練習をする。たった一つの文章、たった一つの単語、時にはたった一つの文字が大切。細部にこだわることで、別の時代、別の言語、別のジャンルに視線をつなげていけるようにする。
2.たった一つの言語の中に隠されている多数の言語を見つける練習をする。」

「小説の細部に身体ごと入り込んで、宇宙を旅する練習をする。」なんて力強い言葉!少なくとも21世紀初頭の時点で宇宙旅行の練習を学生に、しかも教室でさせてくれる授業というのは世界を見回してもそうそうないのではないだろうか。

このところ読んでいる小説、たまたま台湾を舞台にした作品が連続していてなんだかよろこばしい偶然を感じる。谷崎由衣さんの寓話的短篇も良いですが、佐藤春夫「女誡扇綺譚」滅茶苦茶に面白い…!

四ツ谷の国際交流基金のライブラリー、所蔵方針に合うものであれば洋書でもリクエストすれば購入を検討してくれるとのこと。先日訪れた際は、黒田藩プレスのSpeculative Japanのシリーズとか、ほかにも日本怪奇小説の英訳アンソロジーなど、ジャンルフィクションも少しですが所蔵はしていました。

『サイボーグになる』には、これまでの欧米のSFはバイアスのかかった作品が少なくなかった、というような記述があるのですが(いま正確な引用ができないのですが…)、キム・チョヨプさんって、ヴァーリイ「残像」のような作品はどう読む(読んだ)んだろうか。来日されるそうなので、都合つけばイベント行きたいくらい。

日本語で書かれたミウォシュについての文章で最上のもの、と沼野充義が呼ぶものがミウォシュ『ポーランド文学史』(未知谷)の巻末に付された関口時正の解説らしいので、図書館で読んでくる予定。

来月は、言語学テーマの大学の公開講座を受けるためだけに新幹線で名古屋まで行く。すごく楽しみ。

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