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ユニクロはサプライチェーンからウイグル強制労働に由来する製品の排除するよう求められた。ジャニーズ問題は、ジャニーズタレントをCMに起用するスポンサー企業のコンプライアンスに抵触することが、問題解決に向けて動いた大きな要因だ。企業におけるパワハラ、セクハラが問題視されるのも、「大きな人権問題を抱えた会社は、コンプライアンスに抵触するため他の企業から取引を切られる可能性がある」という側面が大きい。

日本はいま変な国になっている。前述したように政府の動きでは人権バックラッシュ(逆行)が激しい一方で、国際基準で動くビジネスの現場ではますます人権に配慮した経営が求められている。

日本の人権状況改善という課題の中で見れば、下手をすると司法や行政よりも、企業(残念ながら主に大企業に限られるが)の方が先進的、という構図が定着する可能性すらある。

(以上の投稿は、下記のBlueskyへの投稿を一部手直ししたものです)
bsky.app/profile/akiohoshi.bsk

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21世紀に入ってから、自民党政権は男女共同参画の骨抜き、子ども庁から子ども家庭庁への改名、夫婦別姓への反対、同性婚への反対、LGBT法骨抜き、共同親権の導入など、各分野で人権バックラッシュ(人権への逆行)をじわじわと進めている。

日本の司法も、伝統的に人権への態度はかなり消極的だ。日本国憲法が定める人権の規定は「企業対個人の私人間契約には適用されない」「外国人には適用されない」という最高裁判決が判例となり、その後の司法判断を消極的なものとし続けている。

2023年に来日した国連人権理事会ビジネスと人権作業部会は、ミッション終了報告の中で「日本の裁判官への人権研修を推奨する」と明記した。国際人権法の専門家らから見て「日本の司法はまずい」と認識された訳だ。

一方で、ビジネス分野は人権状況の改善が進んでいる。

ジャニーズ問題があれだけ大きくなったのは「ビジネスと人権」の枠組みのおかげだ。企業はサプライチェーン全体での人権状況改善が求められている。つまり特定の会社内に留まらず、取引先企業を含めた国際的なネットワーク全体で人権を守るよう求められている。これにより、企業に人権を守るよう求める圧力が国境を越えて作用する。
(続く

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以上に加えて、規範を市民に広めること、つまり「理性を持ち人権を守りましょう」というアイデアを市民に広めるやり方がある(いわば「新しい啓蒙」。いくつか派閥がある)。

アマルティア・センは規範の重要性を強調する。ザルの目を細かくし、なるべく多くの人権問題を拾い上げるには「目玉の数が多い」方が有利だ。

当たり前すぎて見過ごされがちなことだが、最もキャパが大きな人権擁護機関は各国の行政だ。その一方で、人々の人権を最も大規模に侵害している主体は各国の法執行機関(警察、入管、刑務所など)と治安維持部隊。これは大きな矛盾だ。

理屈の上では政権中枢が人権のアイデアを重視し、司法や行政の現場に人権のアイデアを浸透させることが最も効果が大きい。しかし……

日本国の場合、政権与党である自民党の中に堂々と「人権を撤廃したい」と唱える政治家がいる。政権与党に影響力を行使してきた統一教会や日本会議も人権が嫌いだ。統一教会系の論客は「人権を教えると家庭/教室が崩壊する」と堂々と主張する。そして自民党が憲法改正を進める狙いの一つが人権を無効化すること。
(続く

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「人権状況の改善」についての簡単なメモ。

我々を取りまく世界の人権状況を改善するやり方は複数ある。

(1)各国の憲法、法律に人権を組み込み、各国の司法・行政が法により人権を守る

(2a) 国際人権法(世界人権宣言、国際人権規約、各種人権条約)を根拠に、国連機関、NGO、欧州議会、米国国務省のような影響力ある団体が人権問題を言語化・文書化し、国境を越えて問題解決を促す

(2b) 国連機関、NGOなどの団体が、食料援助、選挙協力、難民キャンプ支援、その他インフラ支援(学校/病院の運営や井戸、上下水道の整備など)の形で国境を越えて人権状況を改善する直接的な活動をする。WHO、ユニセフ、ガザで注目集まるUNRWA、UNHCRなど。NGOではアムネスティ、ヒューマン・ライツ・ウォッチなど。

(3) 「ビジネスと人権に関する指導原則」やESGの指標の形で企業経営に人権を組み込む

(4) SDGsインパクト投資のような形で、投資家が人権状況を改善する方向に資金を流すよう影響力を行使する

あの手この手で、少しずつ人権状況改善の取り組みは強化されている。
レッシグによれば、人を動かす手段は法、規範、アーキテクチャ(コード)、市場の4つ。(1)は法、(2)は実質的に規範、(3)と(4)は規範&市場か。
(続く

無理筋の訴訟だが、ライバル企業を少しでも妨害&時間稼ぎができればよし、との判断と思われる。

マスク氏、オープンAIとアルトマンCEOを提訴 契約違反で
jp.reuters.com/business/techno

"訴状によると、マスク氏は2015年にOpen AIの設立を支援。その際、アルトマン氏は「人類のため」にAIを開発するオープンソースの非営利企業を設立するとマスク氏に説明した。マスク氏の弁護士は、マイクロソフトが出資するOpen AIが営利を追求しているのは契約違反だと主張している。"

ガザ地区 “支援物資待つ住民112人死亡 イスラエル軍攻撃で”, NHK, 2024年3月1日
www3.nhk.or.jp/news/html/20240

NHKニュースの「ハマスとイスラエルの戦闘により」といういつもの枕詞が消えた。住民の大量虐殺と言わざるを得ない状況。イスラエル軍は責任を認めず。

ガザ保健当局によれば北部にあるガザ市で食料などの支援物資を運ぶトラックを待っていた住民がイスラエル軍に攻撃され、112人が死亡し、760人が負傷。これまでの死者は3万35人。

国連のグテーレス事務総長は非難声明。国連安全保障理事会の緊急会合を29日夕方に開くと決める。イタリアのタヤーニ外相、トルコ外務省、NGOオックスファムが批判。バイデン米大統領は今回の事件で「戦闘休止の交渉が困難に」と認める。

感想:イスラエルでは、human animalといった"ことば"(つまりプロパガンダ)によりパレスチナの住民の非-人間化を進めた帰結として、イスラエルの世論や軍の行動が国際社会の基準から大きく乖離してしまった。正常化はますます困難になっている。(残念ながら)今後、長年にわたり禍根が残るだろう。

ここ1年ほど、SNS運用の比重をFedibirdとBlueskyに移してきました。

とりあえず書いたものはFedibirdとBlueskyに投稿。特に多くの人々に読んでほしい投稿はX/TwitterとThreadsにも投稿、みたいな運用です。
(細かくいうと、X/TwitterだけのRTや引用RT投稿はあったりする。ほかBlueskyだけに短い投稿をしたり、Fedibirdだけに長い投稿をする場合もあったりします)。

かなり前から「同じ投稿でも、"いいね/リブート"数を見るとX/TwitterよりもFedibirdの方が読まれてるな」的な感触があり、また招待制の廃止の後ではBlueskyの反応も良くなってきました。どちらもフォロワー数はX/Twitterより1ケタ少ないのですが、余計なアルゴリズム操作がないためでしょう。

X/Twitterはimp数の推移を見る限り挙動が不安定すぎます。使い方(投稿内容や他のユーザーとの絡み方)にもよるのでしょうが、私の使い方ではあまり信頼できない感じです。

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自分のここ1年のX/Twitterの感触

2023年2月頃からインプレッション数(imp)激減。1ツイート1万imp以上が普通だったのが1000imp程度に
→課金して認証マークを試す
→ややimp増えたがしょぼい
→認証マーク外す
→ある時期から、再びバズるようになる。1ツイート数万impもザラに
→imp数激減(パレスチナの現状を伝えるRTを多めにした直後から)
→今はボチボチ(1万imp未満)

「パレスチナ支持でシャドウバン」的な調整が随時かかっているような感触がありますね。 imp数やエンゲージメント数(いいね/RT数)を目指して活動すると、発言は偏っていくだろう、という感触があります。

「それって陰謀論じゃないですか?」闇の国家「ディープステート」を信じる著名人一人一人に会ってみたら…どうなった?, 共同通信, 2024/03/01
nordot.app/1132542349855686931

カルト/陰謀論者への直接取材は未熟な記者には危ういが、この記事はうまくいっている。陰謀論の話なので「ロジックの不明瞭さ」も記事の一部。

対面取材のDS陰謀論者4人。
- 原口一博(元総務相)
- 斉藤新緑(元・福井県議会議長、自民党県連幹事長)
- 末永啓(愛知県議)
- 村井大介(反ワクチン団体神真都(やまと)Q会代表)(刑務所内で面会)

加えて次の2名
- 谷本誠一(呉市、前市議)、談話は対面取材ではなく取材申込みで断られたやりとりか
- 馬渕睦夫(元ウクライナ大使)、取材拒否。著書の内容などを紹介。

コメントは
- 藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)
- 秦正樹(京都府立大准教授、著書に『陰謀論―民主主義を揺るがすメカニズム』)

感想:陰謀論はSNSで拡散し、実社会に確実に悪影響を及ぼす(例えばトランプ支持者の議会襲撃事件を思い出そう)。これはデジタル社会の負の側面で、SNS運営企業にも責任がある。見て見ぬフリをするのではなく、どうするべきなのかを真剣に考えるべき話題だ。

ローティのようにすべての抽象概念を「偶然性によるもの」として相対化するのは一つの哲学的態度ではあるだろう。しかしながら、このアプローチにはきりがない。「国家」「貨幣」「市場」「資本主義」「株式会社」「法律」などの概念も、言葉による抽象概念には違いない。これらも、「偶然性によるものであり再記述が可能なもの」としていったん保留、排除して考えた方がよい概念といえるだろうか。

「人権」(ここでは国際人権法の体系)は、「法律」の隣にある概念といえる。ローティを用いて言えば、国際人権法も「歴史的な偶然性による再記述可能な言葉」ではあるのかもしれないが、しかしそれは私たちの社会的合意(国連決議、各国の条約批准)に基づく明文化された決まり事である。人権を排除する立場を徹底するのであれば、例えば「民主主義」や「資本主義」や「アメリカ合衆国憲法」も同様に排除して、ゼロベースで考えなければならない、ということになってしまうだろう。

人権は大事な社会的資産だ。哲学的に批判することはもちろんあってよいが、それは悪用されないような言葉を選んで語られることが好ましいと考える。
(おしまい)

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以上の知見から、私は「人権批判は注意深く行わなければならない」と主張する。なぜなら、それは人権を弱め否定したい勢力に悪用されるおそれがあるからだ。

ローティの人権批判への私の反論は、以下のようになる。問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権という概念なのではない。そもそも、ひとりの人間が"共感"できる対象は、限られている(共感はコストが高い)。日本の入管に収容された外国人、性別違和感に苦しむトランスジェンダー、ヘイトスピーチを受けている在日外国人、ガザで虐殺される人々、ウクライナの占領地で殺害された一般市民たち、さらには歴史を遡り、広島・長崎の被害者たち、ホロコーストの被害者たち——すべてに"共感"していたのでは、とうてい1人の人間の容量には収まらない。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、国際人権法という明文化されたルールは非常に重要である。そして人権という概念はローティが唱える『分厚い物語による共感』『連帯のための言葉』となんら矛盾しない。
(続く

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朱喜哲さん解説の『100分de名著 ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 』のNHKテキストを非常に面白く読んだのだが、人権批判に関しては補足意見が必要と考え、以下に記す。

「言葉はすべて歴史的な偶然性による」 「言葉で本質に到達することはできない(形而上学の否定)」という立場から、ローティは「人権」という形而上学的な概念を強調することは、むしろ「非-人間化された人々の虐殺につながる言葉を生み出しかねない」と批判する。現実のジェノサイドの前には対象を言葉により非-人間化するプロセスが伴う。

ところで、このローティの講演が掲載されている書籍、『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』(みすず書房)には、哲学的な見地からの人権への再検討の講演が複数収録されている。この書籍そのものは哲学の専門書としてまともな本である。

しかし、私たちの社会には罠がある。『反「人権」宣言』( 八木 秀次、 ちくま新書 298)という本では、「人権はダメだ」という主張の権威付けとして、オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズの人権批判を(非常に乱暴な形で)紹介する。

この八木秀次氏は統一教会に親しい論客としてよく知られている。自民党の会合にもよく呼ばれている人物である。
(続く

記事には書かなかったのだけど、Apple Car撤退の判断の背後には

「もしApple Carが事故で人を死なせたら、Appleのブランドは後戻りできないダメージを受ける」

という思いがあったんじゃないかな。

例えば、イーロン・マスク率いるテスラ車の自動運転機能に由来する事故は多数起きており、死者も何人も出ている。だが、イーロンは時に気にしていないようだ。気にしないユーザー向けのクルマともいえる。

しかし、世界中に何億人もユーザーを抱えるAppleにとっては「Apple製品で人が死ぬ」ことのダメージはより深刻となる可能性がある。

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Appleが、10年続けた自動運転車への挑戦から撤退。背後には、完全自動運転技術の想像以上の難しさと、EV事業環境の悪化があります。

現状の情報を整理してお届けします。
newspicks.com/topics/tech-and-

妻が書いた記事。「解離性同一性障害(DID)」、いわゆる多重人格という珍しい病気に関する映画の記事です。もしご興味あるようでしたら、お読みください。

解離性同一性障害の現実を描く映画「Teamその子」監督インタビュー
otonasalone.jp/396086/

補足:本のタイトルにある「偶然性」「アイロニー」について

- 私たちの言語(ボキャブラリー、概念、ことばづかい)は歴史的な産物という意味において偶然的なもの
- 改訂に開かれた終極の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)
- 偶然性からの連帯の契機
- アイロニーは常識の対極にある。(1) 自分たちが使う終極の語彙を常に疑う。(2) この疑念は今使っている語彙を使う議論では解消できない。(3) 自分の語彙が他の語彙より実在に近いとはいえない。
- バザールとクラブのたとえ
- 私的なクラブはアイロニーを育む場
- 恐怖に対峙するリベラリズム=残酷さの最小化
- リベラル・アイアロニスト(残酷さを避けるチャンスが再記述で拡大されることだけを願う)と、リベラルな形而上学者(自己の本質を明らかにする再記述を求める)

ふたたび感想:
ローティは「本質になど到達できない」と形而上学を否定する懐疑論。

一方、カントの道徳哲学は、人の義務を形而上学的に基礎付けられた普遍的な原則と考える。対極にある。

私個人は、カント哲学は国連や国際人権の基礎であり人類全体の資産だと思っています。なので懐疑論には同意しない(米国の国連軽視の思想的根拠とすらいえるかもしれない)。それでもローティの議論は読む価値があります。

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哲学者は、こうした「実務レベル」の回答には満足しないだろう。ひとついえることは、人権とは国際社会が合意した国際法体系であり、そしてツールとしてすでに(限定的だが)機能し役立っている。「それは歴史的に構築され社会に組み込まれた言葉のツールである」「問題なのは誰かを非-人間化する言説であり、厳重な警戒が必要である(なので一部先進国ではヘイトスピーチ法制化が進んでいる)」としてひとまず納得してもらうのが現実解だと考える。

そして、人権は、本来は連帯のツールだ。なにしろ「すべての人の権利」のことなのだから。例えば人権を重視する集団Aと人権を軽視する集団Bがあったとして、人権をAとBを対立させる概念だと考えることは間違いだ。定義により集団Bの人々にも平等な人権があるのだから。

だから右派と左派の対立の図式で人権が話題になることは、実は不自然なこと。人権を連帯のツールとして使うための「言葉」を考えていきたい、というのが私の立場です。
(おしまい)

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奴隷解放に影響したといわれる「アンクル・トムの小屋」は19世紀の小説だ。だが、例えば20世紀の悲劇(例えば世界大戦、ジェノサイド、原爆)は共感できる文学作品の対象として巨大で複雑すぎる。それに世界中至る所に存在する膨大な数の人権問題を理解するのにいちいち共感を動かしているのでは追いつかない。

人権問題がそこにあるなら、実務的に理屈で対処しなければ追いつかない。国際人権法の体系は、長年の経験からの知見を取り込んでおり、大きな間違いが生じないように注意深く組み立てられている。それは哲学思想というより、各国の行政機関、国連、人権NGO、それに個人にとっての規範、判断基準だと考えればいい。

そして数ある人権問題の中で、分厚い物語の積み上げに触れてより深く共感した問題があるなら、その知識と共感に由来する情熱を用いてより有効な取り組みを模索するのがいい。もし既存の国際人権法の体系に過不足があることが分かれば、そこは修正していけばよいのだ。

例えば、デジタル技術の社会的影響と人権の関係は、2010年以降に議論や法整備が進んでいる段階だ。SNSの膨大なハラスメントやヘイトスピーチ事例を、いちいち共感して対処していたのでは間に合わない。国際人権法という基準に則って事務的に進めるのがベターなやり方だ。
(続く

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私の感想:
「理論家よりもジャーナリストが重要である」という部分は、私自身も居住まいを正して読んだ。ジャーナリズム=個別的具体的な物語の分厚い積み上げが重要であることには異論はない。

ローティの議論は、イギリス経験論、アメリカのプラグマティズムの伝統を汲む。「共感が大事」という発想はアダム・スミスの「道徳感情論」からの伝統。大陸の形而上学を否定する発想も英米系の哲学者の伝統といえる。

たしかに、人権の根拠は「すべての人が本質的に持つ不可侵、不可分な権利群」という抽象的で形而上学的なものだ。「人権は人の理性、尊厳に由来する普遍的な原則である」と考える点において、人権はカント倫理学の影響下にある(なおカントと人権の関係については議論が絶えない。逆にいえば、議論が絶えないほどの深い関係があるのだ)。

一方、ローティは、形而上学的で普遍的な真理・本質の追求を否定するところから出発しているので、カント倫理学も当然否定する形になる訳だ。

私の意見だが、もちろん共感できるなら共感した方がいいに決まっている。だが、"かわいそうな人達の物語"を読んで共感しなければ人権が守れないようではコストがかかりすぎる。そして発想が古い。(続く

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ローティの哲学は「アンチ形而上学」が特徴。そこで「人間が本質的に持つ権利=人権」という形而上学的な概念は、むしろ「言葉により非-人間化」された相手手に対してより残虐に振る舞うことになる結果につながりかねないと批判する。

ローティが推奨するのは、分厚い物語の積み上げ、エスノグラフィによって残酷さを理解できる「共感」を養うこと。これは哲学者のような理論家よりも、作家やジャーナリストが向く仕事である——。

私の反論:

人権に関するローティの主張をうんと短く言うなら、「"人間の本質"といった理屈の言葉に頼るのは非-人間化された対象への残酷さを肯定してしまいかねず、かえって危ない。むしろ残酷さを避けるための"共感"を生み出す物語が大事である」ということになる。

それに対する私の反論は「問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権ではない」「共感はコストが高い。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、人権という理屈はやはり重要である」。

ローティの「語り直し、言葉の再記述が、"われわれ"の拡張、異なる人々の連帯のために重要である」「物語が重要である」という主張には同意する。ただし、人権はこの主張に矛盾しないと私は考える。
(続く

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