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Appleが、10年続けた自動運転車への挑戦から撤退。背後には、完全自動運転技術の想像以上の難しさと、EV事業環境の悪化があります。

現状の情報を整理してお届けします。
newspicks.com/topics/tech-and-

妻が書いた記事。「解離性同一性障害(DID)」、いわゆる多重人格という珍しい病気に関する映画の記事です。もしご興味あるようでしたら、お読みください。

解離性同一性障害の現実を描く映画「Teamその子」監督インタビュー
otonasalone.jp/396086/

補足:本のタイトルにある「偶然性」「アイロニー」について

- 私たちの言語(ボキャブラリー、概念、ことばづかい)は歴史的な産物という意味において偶然的なもの
- 改訂に開かれた終極の語彙(ファイナル・ボキャブラリー)
- 偶然性からの連帯の契機
- アイロニーは常識の対極にある。(1) 自分たちが使う終極の語彙を常に疑う。(2) この疑念は今使っている語彙を使う議論では解消できない。(3) 自分の語彙が他の語彙より実在に近いとはいえない。
- バザールとクラブのたとえ
- 私的なクラブはアイロニーを育む場
- 恐怖に対峙するリベラリズム=残酷さの最小化
- リベラル・アイアロニスト(残酷さを避けるチャンスが再記述で拡大されることだけを願う)と、リベラルな形而上学者(自己の本質を明らかにする再記述を求める)

ふたたび感想:
ローティは「本質になど到達できない」と形而上学を否定する懐疑論。

一方、カントの道徳哲学は、人の義務を形而上学的に基礎付けられた普遍的な原則と考える。対極にある。

私個人は、カント哲学は国連や国際人権の基礎であり人類全体の資産だと思っています。なので懐疑論には同意しない(米国の国連軽視の思想的根拠とすらいえるかもしれない)。それでもローティの議論は読む価値があります。

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哲学者は、こうした「実務レベル」の回答には満足しないだろう。ひとついえることは、人権とは国際社会が合意した国際法体系であり、そしてツールとしてすでに(限定的だが)機能し役立っている。「それは歴史的に構築され社会に組み込まれた言葉のツールである」「問題なのは誰かを非-人間化する言説であり、厳重な警戒が必要である(なので一部先進国ではヘイトスピーチ法制化が進んでいる)」としてひとまず納得してもらうのが現実解だと考える。

そして、人権は、本来は連帯のツールだ。なにしろ「すべての人の権利」のことなのだから。例えば人権を重視する集団Aと人権を軽視する集団Bがあったとして、人権をAとBを対立させる概念だと考えることは間違いだ。定義により集団Bの人々にも平等な人権があるのだから。

だから右派と左派の対立の図式で人権が話題になることは、実は不自然なこと。人権を連帯のツールとして使うための「言葉」を考えていきたい、というのが私の立場です。
(おしまい)

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奴隷解放に影響したといわれる「アンクル・トムの小屋」は19世紀の小説だ。だが、例えば20世紀の悲劇(例えば世界大戦、ジェノサイド、原爆)は共感できる文学作品の対象として巨大で複雑すぎる。それに世界中至る所に存在する膨大な数の人権問題を理解するのにいちいち共感を動かしているのでは追いつかない。

人権問題がそこにあるなら、実務的に理屈で対処しなければ追いつかない。国際人権法の体系は、長年の経験からの知見を取り込んでおり、大きな間違いが生じないように注意深く組み立てられている。それは哲学思想というより、各国の行政機関、国連、人権NGO、それに個人にとっての規範、判断基準だと考えればいい。

そして数ある人権問題の中で、分厚い物語の積み上げに触れてより深く共感した問題があるなら、その知識と共感に由来する情熱を用いてより有効な取り組みを模索するのがいい。もし既存の国際人権法の体系に過不足があることが分かれば、そこは修正していけばよいのだ。

例えば、デジタル技術の社会的影響と人権の関係は、2010年以降に議論や法整備が進んでいる段階だ。SNSの膨大なハラスメントやヘイトスピーチ事例を、いちいち共感して対処していたのでは間に合わない。国際人権法という基準に則って事務的に進めるのがベターなやり方だ。
(続く

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私の感想:
「理論家よりもジャーナリストが重要である」という部分は、私自身も居住まいを正して読んだ。ジャーナリズム=個別的具体的な物語の分厚い積み上げが重要であることには異論はない。

ローティの議論は、イギリス経験論、アメリカのプラグマティズムの伝統を汲む。「共感が大事」という発想はアダム・スミスの「道徳感情論」からの伝統。大陸の形而上学を否定する発想も英米系の哲学者の伝統といえる。

たしかに、人権の根拠は「すべての人が本質的に持つ不可侵、不可分な権利群」という抽象的で形而上学的なものだ。「人権は人の理性、尊厳に由来する普遍的な原則である」と考える点において、人権はカント倫理学の影響下にある(なおカントと人権の関係については議論が絶えない。逆にいえば、議論が絶えないほどの深い関係があるのだ)。

一方、ローティは、形而上学的で普遍的な真理・本質の追求を否定するところから出発しているので、カント倫理学も当然否定する形になる訳だ。

私の意見だが、もちろん共感できるなら共感した方がいいに決まっている。だが、"かわいそうな人達の物語"を読んで共感しなければ人権が守れないようではコストがかかりすぎる。そして発想が古い。(続く

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ローティの哲学は「アンチ形而上学」が特徴。そこで「人間が本質的に持つ権利=人権」という形而上学的な概念は、むしろ「言葉により非-人間化」された相手手に対してより残虐に振る舞うことになる結果につながりかねないと批判する。

ローティが推奨するのは、分厚い物語の積み上げ、エスノグラフィによって残酷さを理解できる「共感」を養うこと。これは哲学者のような理論家よりも、作家やジャーナリストが向く仕事である——。

私の反論:

人権に関するローティの主張をうんと短く言うなら、「"人間の本質"といった理屈の言葉に頼るのは非-人間化された対象への残酷さを肯定してしまいかねず、かえって危ない。むしろ残酷さを避けるための"共感"を生み出す物語が大事である」ということになる。

それに対する私の反論は「問題なのは誰かを非-人間化する言説なのであり、人権ではない」「共感はコストが高い。人の判断コストを下げ処理容量を増やす上で、人権という理屈はやはり重要である」。

ローティの「語り直し、言葉の再記述が、"われわれ"の拡張、異なる人々の連帯のために重要である」「物語が重要である」という主張には同意する。ただし、人権はこの主張に矛盾しないと私は考える。
(続く

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NHK番組テキスト「NHK 100分 de 名著 ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年 2月」が自分の問題意識にちょうど刺さって非常に面白く、一気読み。特に、人権批判のくだりは居住まいを正して読む。
nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/

ローティの議論(大意):
ローティは、哲学の役割は、本質や真理を追究するのではなく(なぜなら、それは「会話を終わらせてしまう」からだ)、終わりなき会話を成り立たせ、異なる人々を「連帯」できるようにするための再記述のやり方を提供し、"文化政治"をすることだ——と提案する。これは、本質や真理を追究する伝統的な哲学に対するアンチ哲学といえる。

言葉は私たちを創造している。人や社会は、形になった(受肉した)「言葉」である。言葉は常に異議申し立てや「再記述(語り直し)」に開かれている。

だが、「再記述」の可能性とは、他者を非-人間化して虐殺する言葉を作り出す可能性にも開かれているということでもある。ルワンダのジェノサイドでは、「言葉」の使い方が大きな役割を果たした。だから、言葉の使い方=文化政治に対して私たちは注意深くある必要がある。
(続き

資料:記事の要旨

- 2020年代はデジタル中世、暗黒時代の始まり
- 根拠のない作り話しが台頭。これは啓蒙主義の正反対、危険な道だ
- "Woke"(政治的に"正しすぎる"文化)への反発と、経済的不平等への反発が周縁のアイデアを勢いづかせている。反フェミニズム、反LGBT、反ワクチンなど。
- 右派は政治的に正しくないジョークをミームとして使いこなす。だが、左派が人権を守った洗練されたジョークを作り広めることは、より難しい
- Telegramは、いまや誤った情報や陰謀論、過激主義者のコンテンツを広めるための信じられないほど強力な手段
- 大手SNSには大きな責任がある。陰謀論やフェイクニュースをアルゴリズムで拡散しない工夫が必要
- 戦争や病気に加え、こんにち起こっているのは、ハイテクノロジーによる混乱。こうした複合的な要因の組み合わせは、これまでに私たちが経験したことがないもの

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ユリア・エブナー「現代は“デジタル中世”、このままでは非常に危険だ」
courrier.jp/news/archives/3344

感想:
反フェミニズム、反トランスジェンダー、反ワクチン、Qアノン……(日本だと「暇アノン」も)。これらの陰謀論や偏った思想は、Woke(政治的に正しすぎる文化)への反発だけでなく、経済的不平等の不満のはけ口にもなっている。

陰謀論など「周縁」のアイデアの拡散を、大手SNSやTelegramも支援してしまっている。テクノロジーが作り出す暗黒時代、それが「デジタル中世」の意味だ。

何回か書いた話だが、人には「理解する苦痛を避ける」傾向がある。「政治的正しさ」とは、つまり脱家父長制、脱植民地主義、脱差別を認めること。多くの男性にとって、白人にとって、富豪にとって、これは「自分が搾取する側、差別する側にいる」と理解する苦痛を伴う。これが「Wokeへの反発」の正体だ。

私は、「苦痛は必要だ」と思っている。それは注射の針の痛みのようなもので、必要な痛みだ。みんなで注射を打ちましょう。
(続く

なぜ理解できないかというと、理解することには苦痛が伴うからだ——ボールドウィンは、そのように喝破する(なお、これは映画ではなく、本の中の言葉)。

もっと近い時代の別のお話。

トマ・ピケティは『21世紀の資本』で、膨大なデータに基づき「純粋で完全な競争は不等式r>gを変えられない」と立証した(意味は「民間資本収益率rが所得と産出の成長率gを長期的に上回る」「つまり資本家は常に労働者に勝つ」)。

その後に出たスティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』は、「経済全体は大きくなっている。不平等は問題ではない」「クズネッツ曲線に従い格差も解消される(これはまさにピケティが大著を費やして否定した学説)」と、ピケティをまったく理解しないままに批判する。そして「楽観的に、理性的になろう」とさとす。

テック富豪ビル・ゲイツは同書を絶賛する。

この絶望感。彼らはピケティを理解することを意図的に拒絶した訳だ。それは痛みを伴い、行動原理の変容を求めているからだ。

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極端な悲観論が、終末論に結びついて人々の希望を奪ってしまう懸念はある程度理解する。ただ、人々は「理解することの苦痛」を避けて通るものだ(だから「マスクを外そう」が「コロナ禍は終わった」になってしまう)。メッセージは注意深くある必要がある。

インタビューに答えるハンナ・リッチー氏は、気候変動や貧困、飢餓について「大きすぎて解決できない問題だと無力感を覚えていた」と語る。そこに希望を与えてくれたのが、ハンス・ロスリングのデータ分析だった。
そもそも、人は大きすぎる問題をうまく思考できない。だからこそ思考のフレームワークが必要だ。楽観といえば聞こえがいいが、それは「思考する苦痛を避けて通る」ことに非常に近い。

以下、記事から離れた話を少し。

「人は理解する苦痛を避ける」。豊かな側、権力がある側の人ほど。
映画『私はあなたのニグロではない』で、白人の学者が黒人の作家ボールドウィンに「なぜ黒人差別ばかりを強調するのか。黒人の暮らしも良くなっている。前向きに世の中に貢献してはどうか」とお説教する場面を思い出す。

もちろんボールドウィンは反論する。多くのアメリカ人は黒人差別の構造そのものを認めていない。それが多くの黒人を暴力と死に追いやっているのだと。しかし、白人の学者はぜんぜん理解できない。
(続く

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以下の記事を元に、「人の認知の偏り」について考えた。

「世界の終わりではない」気鋭のデータ科学者は地球の未来を楽観する
mainichi.jp/articles/20240124/

有料部分も含めて記事を読んだが、感想は「うーん、そうかな〜?」。

短くいうと、
「気候危機を避けがたい破局だと思いこみ絶望することは、かえってよくない。ハンス・ロスリング(『Factfulness』)を見習って、未来への希望を持ち、持続的な未来に向けて脱炭素を進めていこう」
というお話。

しかし、世の中の多くの人々は「楽観」というところだけを見て安心して「何もしない」道を選択しそうな気もする。日本では「マスクを外そう」という政府のメッセージが、「コロナ禍は終わった」と受け止められた。
この記事で本当に重要なメッセージは、(1) 1.5度目標は絶望的であること。(2) それでも、わずかでも温暖化を避けるための努力は続けるべきであること。なぜなら"わずか0・1度の違いが地球全体への影響や人間の生命を左右するのだから。"

気候変動は、人間を含む多くの生き物の生き死にに関わる問題だ。そこはちゃんと伝わっているだろうか?
(続く

星 暁雄 (Akio Hoshi) さんがブースト

こちらが元講演の動画のようです。目を見開かされています。youtube.com/watch?v=ieAacjnjdy

「あまりにも巨大な問題を前に、人はうまく思考できない」。Brexit投票の際にそれを痛感しました。大きなBBCはさまざまな討論番組や解説番組をしていましたが、目をつぶって象をさわるアレで、結果的に感情論の闘いになって終わりました。

京都大学で2/13に開かれた公開セミナー「人文学の死――ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」発の記事。インタビューではなく学術イベントの概要なので、非常に読み応えがある。このような長文で掘り下げた記事はありがたい。

ドイツ言論の硬直化、バイアスを鋭く批判。歪曲も無視もせずに歴史と「向き合う」ことは難しいが、それを避けて通ることは「人文学の死」を意味する。

藤原氏は「シオニズムは、西欧植民地主義が結晶化したもの」と述べる。これはごく自然な議論に見えるのだが、今のドイツの状況ではこのような発言は強い非難に晒されるだろう。(同様に、私たちの側にも、カテキズム=思考の硬直化とバイアスはきっとある)

記事から離れた感想だが「あまりも巨大な問題を前に、人はうまく思考できない」ことを20世紀の偉大な哲学者らは繰り返し警告してきた(戸谷洋志『原子力の哲学』、集英社新書)。例えばジェノサイドや核兵器、原子力災害への思考はまだ足りていない。そこでハンス・ヨナスは「新しい倫理学が必要だ」と述べている。

ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景 京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史, 長周新聞, 2024年2月23日
chosyu-journal.jp/heiwa/29293

メモ。
2/22、BlueskyはATプロトコルのフェデレーション(連合)機能を公開した。
bsky.social/about/blog/02-22-2

ATプロトコルは、Mastodon/ActivityPubとは設計思想が大きく異なる(なので互換性はない)。ユーザーから見た最大の特徴は、ユーザー体験に影響を与えずに「ホストの引っ越し」ができること。既存の投稿、「いいね!」、フォローを失うことなく、他のプロバイダーにデータを移動できる。

モデレーション機能として、ブロックリスト、ミュートリストは各ホストPDSで共通に使える。ここもMastodonと違うところ。

PDSのアーリーアクセスは、現状では10アカウントまで、1時間1500イベント、1日1万イベントまでの制限あり。今後も頻繁な変更が予想される。
docs.bsky.app/blog/self-host-f

感想:予告されていたATプロトコルの機能が公開された。今のBlueskyは「ATプロトコルのホスト(PDS)の一つ」の位置づけになる。Twitterのように、投稿内容やフォロワーを「人質」にとられる心配がなくなる。

一方、Mastodonはサーバーごとにユーザー体験が異なる。この特徴を好ましく思うユーザーもいるだろう。

Neuralink社の脳インプラントを埋め込まれた患者が「マウスを操作できるようになった」。イーロン・マスクがX/TwitterのSpacesで明らかに。詳細は不明。

感想:この情報だけでは、侵襲性がある「脳インプラントでなければできないこと」が何なのかが不明だ。

私の出身研究室では、1980年代に(侵襲性がない)脳波検出だけで(ゆっくりと)文字入力をする技術を実現していた。原理は、画面に表示した文字群の明滅周期と脳波との相関を取ること。同じやり方でゆっくりマウスを動かすことはできる。

脳インプラントならではの優位性は何か。
reuters.com/business/healthcar

日独GDP逆転の背景

- 日本のGDPは2Q連続マイナス成長。ここ3年で円安が30%進む
- 2000年→2023年でドイツ経済は1.95倍に。日本経済は10%増に留まる
- ドイツ企業は賃上げ圧を受け生産性向上に力を注いだ。日本企業は低金利と賃金抑制に甘んじ、設備投資、研究開発を怠った。
nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/49

EUは、TikTokを運営するByteDanceを調査する。透明性と未成年者を保護する義務違反の疑い。欧州委員ティエリ・ブルトンが明らかにした。

DSA(デジタルサービス法)に基づくテック企業への取り締まりは、X/Twitterに続き2社目。
twitter.com/ThierryBreton/stat

第2次世界大戦の惨禍を繰り返さないため、国際社会は世界人権宣言を採択。この明文化された理念に基づき国際人権法は詳細・堅牢に構築され続けてきた。

世界人権宣言は、地球上の「すべての人」が平等に不可侵・不可分の権利群を持つと宣言する。よりよく生きる権利。不当に自由を奪われない権利。公平な労働条件で尊厳ある収入を得る権利——

現実の世界は、人権侵害に満ちている。

それでも、世界を(たとえ少しずつでも)明文化された理想に向けて改善し続ける。逆行には抵抗する。その根拠が人権。

人々は長い間、世界を改善し続けてきた。これからも改善し続けるだろう。
unic.or.jp/activities/humanrig

fedibird.com/@AkioHoshi/111957 [参照]

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