「生命の進化は観念らしい観念にまとめることはできぬにしてもその意味はずっとはっきりしてくる。一切の経過から見たところは、あたかも意識のある大きな流れが意識のつねとしてけたはずれに多様な潜在力を相互透入の状態に担いながら物質に侵入してきたかのようである。物質はこの流れに引きずられて有機組織になったが、流れの運動は物質によって無限に遅らせられながら無限に分岐された。…生命、すなわち物質のただなかを走らせられている意識は、自分の運動かでなければ自分の通りすぎる物質に注意を固定した。意識はこうして直観の方向か知性の方向をとった。…
…意識が進化の運動原理としてあらわれてくるばかりでなく、さらに意識をもつ生物そのもののなかで人間が特権的な地位を占めることになる。動物と人間とのあいだにはもはや程度の差どころではない、本性の差がある」218-20頁
「新ダーウィン説は進化が個体から個体へよりはむしろ胚から胚へとおこなわれると主張するとき確かに正しいし、新ラマルク派も本能のみなもとには努力が(<知性的な>努力とはまるで別物と信じられるにしても)あるといいはじめたときやはり正しい。しかし前者は本能の進化を偶然な進化だとするとき、また後者は本能のみなもとにある努力を個体の努力と見るときたぶんあやまっている。ある種が本能を変様し自分もまた変様する努力ははるかに根ぶかいものでなければならない。それは環境だけにも個体だけにも依存しない。そのような努力は個体の協力がそこにあるにしても個体の発意にばかりたよるものではなく、偶然のそこに占める場処が大きいにしてもひたすら偶然的なわけでもない」206頁
「ふたつの仮説のうち、前者[新ダーウィン説]は本能の起こりを偶然な変様におき、これは個体が獲得したのではなく胚についたものだとするのであるから、重大な異議をまねかずに遺伝的な送達を語りうるという長所をもつ。そのかわり、これではほとんどの昆虫にあるあの怜悧な本能はまったく説明できない。…新ダーウィン派のような仮説では、進化は新しい部品がつぎつぎに僥倖によってなんとか旧い部品に嚙み合わせられながら追加されていって起こるほかなかろう。ところでほとんどの場合、ただ増加しただけで本能が完成されえなかったことは明らかである。実さい新しい部品が加わるごとに、一切をだめにしてしまわないために全体を完全に調整しなおすことが必要とされたのである。そのような調整のやりなおしがどうして偶然から期待されよう」204-5頁
「知性は本来の語義での<進化>すなわち純粋な動きともいえる連続変化をまるで考えるようにできていない。…知性は生成を<状態>の羅列として表象する。…私たちがいくら努力してはてしなく追加をすすめて生成の動きをうまく真似てみても仕方はないので、生成そのものは私たちがそれをつかまえたと信ずるとき指のあいだからすり抜けることであろう。 ほかでもない、知性はつねに構成しながら構成しなおそうとししかも与えられたもので構成しなおそうとするからこそ、歴史の各瞬間における<新奇な>ものをとり洩らすのである。知性は予見されぬものを許容しない。創造をことごとく斥ぞける。…私たちのたずさわっているのは既知のものとうまく嚙みあう既知のもの、要するにつねに繰りかえす旧いものである。…知性は根底からの生成と同様に完全な新しさというものもみとめない。…知性は生命の本質的な一面を、まるでそんな対象を考えるためにはできていないかのように取りにがす」197-200頁
「知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味での器官(オルガン)に変形することを目ざしている。生命は有機体(オルガニズム)を生みだすだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである。生命はそうしたつとめをまず知性に課する。それで知性は無生の物質に見とれてわれを忘れているかのような物腰をいまも相かわらずつづけているわけである。知性は外をみつめ自分自身にたいして外に立つ生命であり、原則どおりまず有機化されていない自然の歩みを採りいれて、それから事実上この歩みを導こうとする。…知性は何をするにせよともかく有機化されたものを非有機的なものに分解する。けだし、知性は自分に自然な方向をさかさにし自分自身に振りむかぬかぎり、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである」196頁
「生物が現実にはたす行為を取りかこんで可能的な行動あるいは潜勢的な活動の地帯があり、意識とはこの地帯に内在する光なのであろう。意識は躊躇ないしは選択を意味する。…<生物の意識とは潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義してよいであろう。意識は表象と行動とのあいだのへだたりの尺度である>。
そこで知性はどちらかといえば意識にむかい、本能は無意識にむかうと想定してよかろう。けだし、あつかう道具は自然が組立て、その適用の対象は自然がそなえ、獲られる結果も自然が要求しているところでは、選択には端役しかのこっていない。…本能の<不足額>が、行為を観念からへだてる距離が意識になるわけであろう。してみると意識はひとつの事故にすぎぬことになろう」177-8頁
「人間にいたってはじめて知性は自分を残りなくつかむ。そしてこの勝利を実証しているのがほかでもない、敵にたいし寒さや饑えにたいして身を守る手持ちの自然な手段が人間に乏しいことである。…正直のところ自然はやはりこの[本能と知性という]2通りの心的活動のあいだに迷わずにはいられなかった。一方は直ちに成功することは疑いないにしても効果にかぎりがあり、他方は一かばちかであるがもしうまく独立できればその版図はいくらでも拡がりえよう。とにかく最大の成功はここでもやはり最大の危険を冒したものになったのであった。<そのようなわけで、本能と知性とはたったひとつの同じ問題の方角はちがいながらもどちらもすっきりとした2通りの解を示しているのである>」175-6頁
「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁
社会学と誤用進化論😅を中心に読書記録をしてをります
(今はストーン『家族・性・結婚の社会史』1977年)
背景写真はボルネオのジャングルで見た野生のメガネザル
https://researchmap.jp/MasatoOnoue/