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「ひとりの思想家が立ちあがって進化説をとなえて、そこでは物質が知覚性へすすむ動きと精神が合理性にむかう歩みをともどもに辿りなおすことができるとしたとき、外と内の対応が複雑化するさまを一段一段と追ってゆくことができるとしたとき、つまり変化こそものの実質そのものだとしたとき、万人の注視はそのひとに向けられた。スペンサの進化論が当代の思考をつよく惹きつけたゆえんであった。スペンサはいかにもカントから遠のいてみえるし、もともとカント主義に無知であったにもかかわらず、生物の諸科学に接したそもそものはじめから、哲学はどちらの方向に進んだらカント的批判を計算にいれながら歩みつづけることができるかをやはり感じとっていた。
 ただしスペンサはこの道をすこし行ったばかりで引きかえした。発生をありのままに辿ることを約束しながら、なしとげたのはつぎのとおり全く別のことであった。スペンサの理説はなるほど進化論の名を冠していた。宇宙的生成の流れをのぼり下りするつもりだとそれは称していた。真相は、そこでは生成も進化も問題になっていなかった。
…スペンサ哲学を立ちいって吟味はできない。ただこれだけをいうなら、<スペンサの方法がいつももちいる技巧は、進化しとげたものをくだいた細片でもって進化をもとどおり構成することである>」423-4頁

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「アリストテレスのばあい、生物体のエンテレケイアとしてのpsychē(霊魂)が私たちの『霊魂』ほどに精神的でないとすれば、それはアリストテレスのsoma(身体)がすでにイデアをしみ込ませていて私たちの『身体』ほどに物体的ではないからである。つまり両項の分裂はまだ取返しがつかなくはなかったのである。それが取返しのつかぬものとなった」408頁

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「私たちがほかの物体を全体のなかから裁断するのも生物体のためである。ところで生命は進化である。生命進化の一時期を私たちは安定した眺めに集中して、それを形態とよぶ」354頁

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「私の観点にたつと生命は大づかみにひとつの巨大な波となってあらわれる。その波はひとつの中心から輪をひろげてゆき、そのほぼ全円周上で進化をやめておなじ場処での振動にかわる。ただひとつの点で障害が押しきられて、衝力は自由に通りぬけたのであった。人間の形態にはこの自由が書きとめられている」314頁

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「ごく特殊な意味で、人間は進化の『終端』かつ『目的』をなしている。…生命は他のカテゴリーをこえるように目的性もこえる。生命は本質的に流れであり、物質をつらぬいて走らせられながら出来るだけのものをそこから引きだしてゆく」313頁

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「意識は人間において、人間においてのみ自己を解放する。生命の歴史はそれまでは一貫して意識が物質をもちあげようとした努力の歴史であり、また物質が意識のうえに再落下してこれを多少とも完全におし潰したことの歴史であった」312頁

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「生命の進化が分化と連合の二重方向にすすむことのなかにはすこしの附随的なところもない。それは生命の本質そのものに根ざす」308頁

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「生命は物質に触れているあいだは衝力ないしははずみにくらべられるけれども、生命そのものとして見るならば測りしれない潜在力であり、幾百幾千の傾向の相互蚕食となる」305頁

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「生命というものの本質的なねらいが利用可能なエネルギをつかまえて爆発的な行動についやすことにあるとすると、ちょうど地球上でもそうしているとおりに、生命はそれぞれの太陽系内それぞれの惑星上で自分に課せられた環境にあって自分ののぞんだ結果にいたるための最適な手段を択ぶにちがいない」303頁

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「はずみは有限であり、しかも一度で全部あたえられたきりであった。それはあらゆる障害を乗りこえることはできない。生命のはずみの刻みつける運動はあるときは逸れあるときは分裂し、つねに反抗を受けている。そして有機的世界の進化とはこの戦いの展開にほかならない。…種はどれもこれも生命の一般運動が自分を通りぬけないであたかもそこに停止しているかのように振舞う。種は自分のことばかり考え、自分のためにしか生きない。そこから数しれぬ戦いが自然の舞台で演じられることになる。そこから目を蔽いたくなるようにどぎつい不調和もうまれる」301-2頁

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「私が<生命のはずみ>[Élan vitale]というのはつまり創造の要求のことである。生命のはずみは絶対的には創造しえない。物質に、すなわち自分のとは逆の運動にまともにぶつかるからである。しかし生命はそうした必然そのものとしての物質をわが物にして、そこにできるだけ多量の不確定と自由を導入しようとつとめる」297-8頁

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「ありのままには、生命は運動であり物質性はそれと逆の運動であって、そしてどちらの運動も単一である。世界を形づくる物質が不可分な流れなら、物質をつらぬきながらそこに生物を切りとる生命もまた不可分なのである。ふたつの流れのうち物質は生命に逆らうが、逆らわれながらも生命は物質からなにかを取得する。そこから両者のあいだにある生存方式modus vivendiが生じ、これは有機組織にほかならぬ。…はずみはひとつしかなく、それが世代をつらぬいて個体を個体に種を種にむすびつけながら生物の全継列を茫漠たる大河として物質上をながれさせている」296頁

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「その世界の内部で現存種のおこなう進化は…原噴流のはじめの方向が一部分そのまま保たれたもの、物質性と逆の方向にはたらきつづける衝力の残されたものを現わす。…<自己解体しながら創造する動作>というイメージ…私たちは生命活動をみて、そこに逆むきの運動のなかにいくらか残続しているもとのじかな運動を、<解体するものをつらぬいて出来あがってゆく事象>をとらえることであろう」293-4頁

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「死につつある世界とならんで、生れつつある世界もたしかにある。他方また有機化された世界では個体の死は『生命一般』の減少とも、生命がいやいや従わされる必然ともみえはしない。再三ひとも指摘してきたように、生命はほかにはあれほど多くの点であれほど巧みに努力しているのに、個体の生存をどこまでも延ばす努力はけっしてしなかった。一切の経過からいって、個体の死は生命一般の最大の進歩のために欲求されたか、あるいは少なくとも甘受された<かのように>みえる」293頁

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「生命には物質のくだる坂をさかのぼろうとする努力がある。…生命は有機体に釘づけにされ、有機体は生命を無生な物質の一般法則にしたがわせる。たしかにそうだとしてもやはり一切の経緯からいって、生命はそうした法則からのがれようと全力をつくしているかのようにみえる。生命には物理変化をカルノの原理できまる方向から逆転させる力はない。しかし少なくとも絶対的には、生命の振舞いかたはある力がひとり歩きをゆるされて逆の方向にはたらくときの様子に似ている。生命は物質変化の歩みを<とめる>ことはできないけれども、それを<遅らせる>ところまではゆける。実さい…生命の進化ははじめの衝力を伝えつづける。…こんにち私たちの目の前にあらわれたままの生命はそれにやどる相補的な諸傾向が分裂したためにここまで導かれてきたのであって、そこでは生命は植物の葉緑素機能にことごとく依存している。つまり生命をそもそもの分裂以前のはじめの衝力として見るならば、それは何かを貯蔵所にたくわえる傾向だった、ということになる」291-2頁

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「混同のもとは、『生命』の秩序は本質的に創造であるのに、私たちにたいしてそれは本質そのままよりはむしろそのいくつかの附随性において現われるところにある。それらの附随性は物理や幾何の秩序を<まねる>もので、物理や幾何の秩序なみの繰りかえしを私たちに現じてみせて、その繰りかえしが類化一般化を可能にする。…生命は総体としては疑いもなく進化であり、すなわち不断の変形であろう。しかし生命が進行するためには生物を仲介にたてて、これに生命を預かってもらうほかない。幾千幾万ものほぼ相似な生物が時間空間中をつぎつぎに繰りかえしあらわれるからこそ、新しさというものがそれらの生物によって丹精されながら成長し成熟してゆく。…おなじ種の成員はあらわれる地点がちがい時刻がちがえばどこかで相違している。遺伝は形質をつたえるばかりでなく、形質の変様をおこす<はずみ>までもつたえる。そしてこのはずみこそは生命性そのものなのである。…繰りかえしは私たちが類化一般化するための土台として物質秩序に本質的でも、生命の秩序では附随的になる。物理秩序は『自動的』な秩序であり、生命の秩序は意志的なといわないまでも『意志された』秩序に類比されるものである」274-5頁

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「生命をひとまとめに創造進化としてながめたものもどこかそれに類している。目的性というものをあらかじめ思念されたあるいは思念されうる理想の実現と解するなら、生命は目的性をこえる。つまり目的性の枠は総体としての生命にはせますぎる。反対に生命を個別的にみたばあいは、そのあれこれの発現形態にたいして目的性の枠はしばしば広すぎる。…第1類の秩序は<生きもの>ないし<意志されたもの>の秩序であり、それは第2類の<無生>と<自動>との秩序に対立する」267頁

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「無生と生きものとの境界線を引くことからはじめてみよう。無生はおのずから知性の枠にはまりこむこと、生きものは手を加えなければ枠にあわぬことがわかろう。したがって生きものにたいしては特殊な態度をとって、実証科学とはちがう目でそれを精査する必要のあることもわかってこよう。…
…知性は無生の物質を本領とする。…生きものにたいしてはその反対で、科学がそこでも生の物質のばあいに似た手がかりをつかむのは僥倖といおうか暗合といおうか、とにかく付随的にそうなるのである。知性の枠の適用はそこでもはや自然でなくなる」238頁

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「知性は有機化されていない物質を前にするとき、とくに気楽に感じるものである。知性は機械を発明してそのような物質からいよいよ多くの利益を引きだすし、また物質を機械的に思考するにつれて機械の発明は知性にとってますますたやすくなる。…知性は無生の物質に調子をあわされていて、生の物質の物理とそれの形而上学とがいかにも近しいわけもそこにある。そこでいま生命の研究にとりかかるさいにも、知性はどうしても生きものを無生物なみにあつかい、このあたらしい対象に以前とおなじ形式をあてはめ、もとの領域でみごとに成功した手口をそのまま新領域に持ちこむことになる」235頁

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「結局、人間はこの地上で生命がおこなう有機化全体の存在理由だということになる」222頁

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