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「集中化の原理は生物学領域でとりわけ重要である。前進的分離はしばしば前進的集中化と結びついており、その現われが主導的部分の時間的進化…である。同時にまた前進的集中化の原理は前進的個体化の原理でもある。『個体(不可分体)』とは集中化されたシステムであると定義できる。厳密にいうならばこれは生物学領域では、個体発生的および系統発生的にそこに近づくことのみできる一つの極限の場合であって、生物体は前進的集中化を通じていっそう統一的で『いっそう分かちがたい』ものに生長していくのである。
…生物学的な観点からは、前進的機械化と集中化を強調したい。初めの状態はシステムのふるまいが等能的な部分の相互作用の結果として生ずるような状態である。それが次第に、優勢な部分の指導下におかれるようになってくる。たとえば発生学では、これらの優勢な部分をオーガナイザーと呼ぶ(Spemann)。中枢神経系でも各部分は最初は下等動物の散在神経系におけるのと同じようにだいたい等能的である。しかし後になると神経系の主導中心に従うようになってくる」66頁→

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「進歩はただ、初め一つの全体的単位的であった作用をいくつかの特殊部分の作用に小さく分割することによってのみ可能である。けれどもこのことは同時に未決定状態でも力の弱まり、機能の喪失がありうることを意味する。より多数の部分が一定の仕方で特殊化されるほど、それらは交換不可能になって、部分の損耗がシステム全体の崩壊を導くことがある。アリストテレス流の言葉でいうと、あらゆる進化はいくつかの可能性を開くことによって他の多くの可能性の芽を摘みとってしまう。私たちはこのことを胚発生にも系統発生での特殊化にも科学や日常生活の専門化のなかでも見いだすことができよう。
 全体としてのふるまいと総和的なふるまい、全体的な考えと要素主義的な考えはふつう対立するものとみなされている。しかしそれらの間に対立がなく、全体としてのふるまいから総和的なふるまいへ次第に移行するようなことがしばしばある」65頁

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「生物学的、心理学的および社会学的進化での悲劇的緊張はいずれも、全体性と総和性とのこの対照のなかにある。進歩はただ、未分化の全体性の状態から部分の分化へと移行することによってのみ可能である。けれどもこのことは、部分がある一定の作用に固定されることを意味する。したがって前進的分離はまた前進的機械化をも意味する。ところが前進的機械化とは調節能力を失うことを意味する。システムが単位的な全体である限りは、ちょっとした攪乱があってもシステム内の相互作用によってふたたび新たな定常状態に達するであろう。システムは自己調節的なのだ。けれども、もしシステムが独立な因果連鎖に分割されてしまうと、調節能力は消失する。各部分の過程はたがいに無関係に進むことになる。これがたとえば胚発生のうちに見いだされるふるまいであって、決定は調節能力の減少と伴いあって進んでいく」64-5頁

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「けれども機械化は生物学的領域ではけっして完全なところまでは進まない。生物体は部分的には機械化されていても、それはまだやはり統一的な単位体としてのシステムなのだ。これが調節の基礎であり、環境の変化する要求と相互作用しあうことの基礎である。同様なことは社会的構造についてもいえる。原始社会ではどの構成員もめいめい、全体との関連で期待されることをほとんどなんでもやることができる。ところが高度に分化した社会になると、それぞれの構成員は特定の仕事もしくは仕事群をするように定められている。極端なのはある種の昆虫の社会の場合で、そこでの個体は、いわば特定の仕事のために決定された機械に変わりはてている」64頁

この辺り、どうも論理が混濁しているように思われますが

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「全体性を保った状態にあるときには、システムが攪乱をうけると新しい平衡状態が作られることになる。けれども、もしシステムが個々の因果連鎖に分割されていると、それらは他と独立に動いていくだろう。機械化の増加が意味するところは、要素が次第に自分自身にだけ依存して働くようになることで、その結果、全体としてのシステムでならば相互関係の存在にもとづいてひきつづき存在していたはずの調節能力が失なわれていく。相互作用係数が小さくなるほど、各Qi項が無視できるようになり、システムはより『機械に似た』もの——つまり相互に独立な部分の総和に似たものになる。
 この事実は『前進的機械化』と名づけてもよいと思うが、生物学で重要な役割を演ずる。最初のものは、システム内部の相互作用から生じるふるまいであろう。第二に、各要素はそれらのみに依存する作用に限定されてきて、全体としてのふるまいから総和的ふるまいへの移行がおこる」64頁

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「物理学的システムではあまりないことだが生物学的、心理学的、社会学的システムでは普通でかつ基本的なもののようにみえる場合がある。それは要素間の相互作用が時間とともに減少していく場合である。…
 この場合にはシステムが全体性をもった状態から各要素が相互に独立の状態へ移ってゆく。最初の状態は統一的なシステムのそれだがこれが次第にたがいに独立な因果連鎖に分裂してゆく。<前進的分離>と呼んでよいであろう。
 原則として、原子とか分子とか結晶とかの物理学的全体のオーガニゼーションは、以前から存在した要素の結合の結果としてできあがる。これに対して生物学的全体のオーガニゼーションは、もとの全体の分化によって作りあげられ、全体が部分に分裂していく。…
 生物界で分離化が優位を占めている理由は、下位の部分システムの分裂化がシステムの複雑性を増すことになるからであるようにみえる。そのようないっそう高度の秩序への移行にはエネルギーの供給が前提となり、エネルキーがシステムへとたえず渡されるのはそれが開放システムであってエネルギーを環境からとりこむときに限る」63-4頁

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「ラッセル卿の本…には『有機体の概念』の拒否を示すやや驚くべき言明を見いだす。…『どんな場合にでも作業仮説としては機械論的見解を採用するのが賢明であって、それに明らかに反するような証拠があるときにのみそれを棄てるのがよい。生物学的な現象についていえば、そのような証拠は、これまでのところまったくない』…
…だがまさしく基本的で第一義的な生物現象に関しては、ラッセルのいっていることは根底から誤っている。胚の発生、代謝、生長、神経系の働き、生物共同体など、どの生物現象の領域でもよいからとりあげてみれば、つねに見いだされるのは、システムの中にあるときと切り離されたときでは要素のふるまいが異なっていることだ。全体のふるまいをばらばらの部分からたし合わせて作ることはできないし、部分のふるまいを理解するにはいろいろな下位システムと上位にあるシステムの関係を考慮に入れなければならない。分析と人為的隔離は生物学的実験と推論の方法として有用である。しかしけっして十分ではない」62-3頁

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「総和性を定義すれば最初ばらばらな要素を次々につけ加えることによって複合体を作り上げることができるようなもの、といえよう。逆に、この複合体の特性はばらばらの要素のそれへと完全に分析できるようなものだといって定義できよう。…しかしドイツ語で『ゲシュタルト』と呼ばれるようなシステムには当てはまらない」62頁

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「『システム』といえば『全体』とか『統一体』を意味する。そうすると、全体に関してその部分間の競争というような概念を導入することは矛盾するように思われる。けれども実際には、この明らかに相反する命題はともにシステムの本質に根ざしている。あらゆる全体はその要素の競争を基礎としてその上になりたっており、『部分間の競争』(Roux)を前提としている。部分間の競争ということは、単純な物理ー化学システムにも生物や社会的単位にも見られるオーガニゼーションの一般原理であり、結局それは実在が示す<反対物の一致>の一表現なのである」61頁

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「ヴォルテラの方程式で興味ある結果は、同一資源をめぐる二種の生物の競争のほうが、ある意味では捕食者ー被食者関係(食う食われるの関係)——つまり他方の種による一方の種の部分的滅亡——よりもずっと致命的である点だ。競争は最終的には、生長能力が小さいほうの種の絶滅をもたらす。食う食われるの関係ならば、ただ関係する種の個体数が平均値を中心として周期的に振動するだけである。こうした関係は生物共同体のシステムについて述べたものだけれども、社会学的な意味も充分持つといえるのではなかろうか」60-1頁

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「システムとは相互に作用する要素の複合体と規定できる。相互作用とは要素pが関係Rにおいて存在すること、したがってRの中での一つの要素pのふるまいが別の関係R’の中でのそのふるまいと異なることを意味する。もしRとR’の中でのふるまいにちがいがなければ相互作用はなく、その要素は関係RおよびR’に関して独立にふるまう」51頁

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「いくぶん神秘的な表現で『全体は部分の総和以上のものだ』などというがその意味は要するに、構成的特性は、それゆえ、要素のそれと比べると『新しい』ものもしくは『創発的な』もののようにみえる。…総和というものは次第次第に作られていくものと考えることができるけれども、相互関係を有する部分の総体としてのシステムはいちどきに作られるものとしてみなければならないのだと。
 物理学などでは、こんなことをいってもはじまらないと思われるかもしれないが、生物学や心理学や社会学ではこれが問題となりうるし、概念の混乱をひきおこしてもいるのだ。それというのもまさしく機械論的な考え方、すなわち現象を独立の要素と因果連鎖に分解して相互関係は省みない傾向のもつ誤まりのゆえである」51頁

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「ある要素の総和的特性とは、複合体の内にあっても外にあっても同じであるような特性であるともいうことができる。したがってそれらはばらばらにしたとき知られる個々の要素の特性とふるまいを全部たし合わせることによって得られる。構成的特性とは、複合体内部での特定の関係に依存するようなものである。したがってそういう特性を理解するためには、部分だけでなく関係も知らなければならない」50頁

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(承前)「こうして私たちは還元主義と対照的な一つの概念、すなわち遠近法主義(perspectivism)とでも呼ぶべきものに達する。生物的、行動的、社会的レベルのものを最低次のレベルである物理学の構成と法則のレベルに還元することはできない。けれども個々のレベル内での構成と可能な法則を見いだすことはできる。世界はオルダス・ハクスリーがかつて指摘したように、ナポリ風アイスクリーム[三色アイス]のようなもので、チョコレート、イチゴ、バニラの層がそれぞれ、物理的、生物的、社会的および精神的レベルを現わしている。イチゴはチョコレートに還元できない——私たちがせいぜい言えることは、せんじつめていくとたぶんすべてはバニラであること、すべては心あるいは精神であるということだろう[😅]。統一原理は、私たちがすべてのレベルにオーガニゼーションを見いだすことである。…世界を大きなオーガニゼーションとみるモデルは、おそらく、最近数十年の血なまぐさい人類史のなかでほとんど見失われてしまった生命への尊敬の気持を回復するのに役立つことだろう」😅 45-6頁

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「これまで科学の統一といえば、あらゆる科学を物理学に還元すること、あらゆる現象を物理学的なものに最終的に分解することとみられてきた。私たちの見地からは、科学の統一はもっと現実味を帯びた視点を得ることができる。世界の統一的な理解の基礎は、あらゆるレベルの実在を物理学のレベルに最終的に還元するというおそらくむだであり明らかに行きすぎた望みにではなく、むしろいろいろな異なる分野での法則の同形性に求められるだろう。『形式的(formal)』とよばれてきたいい方でいえば、つまり、科学のもつ概念構造に眼をつけるならば、これは私たちが適用している図式の構造的な一様性ということを意味する。『物質的(material)』な言葉でいえば、それは、世界すなわち観察しうる事象の総体が構造的統一性を示し、異なったレベルあるいは領域で同形的な秩序の痕跡が現われていることを意味する」45頁→

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「オーガニゼーションも機械論の世界にとって異質のものであった。…現代物理学ではたしかに話がちがってきている。ホワイトヘッドがまちがいなく強調したように、原子も結晶も分子もオーガニゼーションなのだ。生物学では、生物体(organism, 有機体)は、定義からして、オーガナイズされたものである。…
 生きた生物体であれ社会であれ、オーガニゼーションの特性は全体性、生長、分化、階層的秩序、優位性、制御、競争、等々の概念である。このような概念は伝統物理学には現われてこない。システム理論はこうしたことがらをうまく扱える。このような概念はシステムの数学的モデルの範囲内で規定できるのだ」43-4頁

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「強調したいのは、特徴的な最終状態や目標に向かう目的論的な行動が自然科学の立入禁止区域ではないことだ。また、それ自体としては方向性をもたず偶然であるような過程をまちがって擬人的にとらえているものでもないことである。逆にむしろそれは科学的な言葉で十分定義できるし、その必要条件や可能な機構も示すことのできる行動の一形式なのだ」43頁

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(承前)「私たちは現代科学の特徴として、ばらばらな単位が一方むきの因果関係のもとに作用するというこの図式では不十分であることがわかったことをあげることができよう。つまり科学のあらゆる分野に、全体性、全体論、有機体的、ゲシュタルトなどの概念が現われてきたのであって、これらすべては、結局たがいに作用しあう要素からなるシステムという目でものを見なければならないことを意味している。
 同様に合目的性や目的指向性の概念も科学の枠外のものとされ、ふしぎな、超自然的な、あるいは擬人的ななにものかの活躍舞台となってきた。さもなければこうした概念は、科学とは本質的に無縁のにせの問題であり、無目的な法則によって支配される自然の上に、観察者の心をまちがって投射したものにすぎないとされた。しかしながらこうした側面はたしかに存在するものであり、適応性、合目的性、目標指向性その他類似の言葉でさまざまに、かなりいいかげんに呼ばれるものを考えにいれずには、行動や人間社会はいうまでもなく、生きた生物体を考えることも、できるものではない」42頁

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「<因果性と合目的性>
…19世紀の古典物理学から生じた機械論と呼ばれる世界観では、仮借ない因果法則で支配される原子の無目的なふるまいが、無生物、生物、心的なものを問わず世界のあらゆる現象を生みだしていた。目的指向性、秩序、目的などの入りこむ余地はなかった。生物の世界もランダムな突然変異と淘汰(選択)の無意味な行為のつみかさねによる偶然の産物と考えられた。心の世界は物質的なできごとへの奇妙でなにやらわけのわからない付帯現象とされた。
 科学の唯一の目標は分析することのように思われた。いいかえれば実在を限りなく小さな単位に分け、因果連鎖の個々の環をばらばらにしてみせることであった。こうして物理学的実在は質点や原子に分割され、生物体は細胞に、行動は反射に、知覚は時々刻々の感覚作用に、と分割された。それと対応して、因果関係は本質的に一方向的であった。…古典科学の基本概念を要約しようと試みたカントの有名な範疇表を思いだしてみるとよい。相互作用とオーガニゼーションの概念は埋め草にすぎないか、あるいはぜんぜん現われさえしないことがその特徴である」41-2頁→

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承前「けれども心にとめておかなければならないのは、フィードバック図式はむしろ特殊な性質をもったものであるということだ。…生物体での多くの調節は本質的にフィードバック式のものとは異なった性質をもっている。すなわち過程どうしの動的な絡みあいによって秩序が産みだされるようなものである。…生物システムでの<一次的>な調節、つまり胚発生においても進化においてもいちばん基本的で根元的なものは、動的な相互作用を本質とすることを示すことができる。これは生物体が、自らを定常状態に保ち、もしくは定常状態に近づこうとする一つの開放システムであるという事実にもとづいている。このようなものの上に重ね合わされて、私たちが<二次的>と呼ぶ調節がある。この二次的調節が、特にフィードバック型の固定した配置によって制御されているのだ。このような事情は、前進的機械化と呼んでもよいオーガニゼーションの一般原理の産物である。最初にはシステムは——それが生物学的なものであれ、神経学的、心理学的、社会学的なものであれ——その成分の動的な相互作用によって支配される。それからのちに、固定した配置と束縛条件が確立してきて、これによりシステムとその部分はいっそう効率的にはなるが、しかしその反面、その等可能性はだんだんと減じ、最後にはなくなってしまう」41頁

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