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von Bertalanffy, Ludwig. (1968) General System Theory: Foundations, Development, Applications, George Braziller.
=1973 長野敬・太田邦昌訳『一般システム理論——その基礎・発展・応用』みすず書房
fedibird.com/@9w9w9w9/10939198 [参照]

「システム理論は工学上の問題と要求をはるかに越えた広い見方であるということ、つまり科学一般でも、物理学、生物学から行動科学、社会科学、さらには哲学にいたるすべての領域でも必要になってきた1つの編成がえを示すということだ。…さらに、システム科学はコンピュータ工学、サイバネティクス、オートメーションおよびシステム工学の中心に位置して、システムの考えをもう1つ別の技術——そして実際に究極の技術——にする。それは人間と社会を、マンフォード…が歴史の中でその行く末を非常に興味深く描いたような『巨大機械』へとますます作りあげてゆく技術である」vii

「『システム科学』…今私たちは、要素の理解だけでなく要素間の相互関係の理解も同じように必要であることを知った。…このことは、私たちがまのあたりに見る世界の多くのシステムをそれ自身としてその特殊性において研究することを要求している。さらに各種『システム』に共通する一般的な側面と対応関係と同形性とがあることがわかってきた。これこそ<一般システム理論>の関与するところである。実際、その他の面ではまったく異なった『システム』の中にそのような並行性や同形性が現れているのだ——それはときに驚くほどのものである。こうして一般システム理論は、つい近頃まで形而上学的概念であり科学の境界を越えるとされていた『全体』とか『全体性』を科学的に研究するものであるということができる」xiii

「『システム哲学』…これは思考と世界観の改変であって、新しい科学的規範として(古典科学の分析的、機械論的、一方向因果関係的の規範に対して)『システム』を導入することから生じた結果である。展望をもった科学的理論はすべてそうだが、一般システム理論も『形而上学的』あるいは哲学的な側面をもっている。『システム』の概念はトーマス・クーンのいう新しい『パラダイム』、あるいは著者…の名づけた『新しい自然哲学』を構成するものであって、機械論的世界観のいう『自然の盲目的法則』とか阿呆が物語るシェクスピア劇のような世界過程に対するに『偉大なオーガニゼーションとしての世界』なる有機体論的展望をもってするものである」xv

「生態系や社会システムも、たとえば生態系が汚染によって乱されるとか社会が多くの未解決の問題をつきつけるなどのときにいや応なく経験するとおり、たしかに『実在』している。しかしこれらは五官あるいは直接観察の対象ではない。それらは概念的な構築物なのだ。同じことは日常世界の対象についてさえもいえる。それらは決して感覚のデータとか単純な知覚として単に『与えられる』のではなく、ゲシュタルト力学および学習過程から、実際に私たちが何を『見』るか何を感ずるかを大部分決めてしまう言語的、文化的要因にいたるまでの莫大な数の『心的』諸要因によって組上げられたものなのだ。すなわち観察から与えられる『実在の』対象およびシステムと、『概念上の』構築物およびシステムの区画線は、どんな常識的なやり方によっても引くことはできないものである」xv-xvi

「<システム認識論>の問題…これは、科学的な態度の点では共通しているとしても、論理実証主義や経験主義の認識論とはいちじるしく異なるものである。論理実証主義の認識論(および形而上学)は物理学主義と原子論と知識の『カメラ理論』によって決定されていた。これは現在の知識から見ると時代おくれのものだ。物理学主義および還元主義と対立して、生物科学や行動科学や社会科学の中で生じてくる問題と思考法はそれなりの同等な考察を必要としており、素粒子や在来の物理法則に単純に『還元』できるようには思われない。構成部分への分解と一方向的および直線的な因果性を基本的カテゴリーとする古典科学の分析的操作に対して、多数の変数から成るオーガナイズされた全体についての研究は、相互作用、超作用(transaction)、オーガニゼーション、目的論等々の新しいカテゴリーを要求しており、これはまた認識論と数学的モデルおよびその技法とについて多くの問題を生んでいる」xvi →

(承前)「さらにいえば、認知は『実在のもの』(その形而上学的な位置づけは何であれ)の反映ではないし、知識は単に『真理』や『実在』への近似ではない。それは知るものと知られるものの間の相互作用であり、これは生物的、心理的、文化的、言語的、等々の性質をもつ多数の要因に依存するものである。物理学者自身でさえ、観測者と独立に存在する粒子や波のごとき究極的な実体はないと語っている。このことから、『遠近法主義の』哲学が導かれるのであって、それによれば物理学自身とその連接諸分野の達成は十分に認めながらも、物理学だけが知識の専売特許ではない。還元主義と、実在は『何々にほかならない(nothing-but)』(物理学的粒子や遺伝子や反射や衝動やその他のものの塊り)と宣言するいろいろの理論とは反対に、私たちは科学を、生物的、文化的、言語的才能と足かせをもった人間が彼の『投げこまれた』世界、あるいはむしろ進化と歴史によってそこにうまく適応しているるその世界に対処していくために創りだした『いろいろな遠近画』の中の一つであると見るのである」xvi

「もし実在が、オーガナイズされた全体の階層構造物であるのならば、そこでの人間像は偶然の出来事で支配される物理学的粒子が究極的で唯一の『真なる』実在であるような世界におけるそれと異なったものになるだろう。むしろ、記号や価値や社会的なものや文化の世界こそきわめて『真なる』何ものかであるのだ。そしてこれが宇宙の階層秩序の中に埋め込まれているという事態は、C. P. スノーのいう『二つの文化』の対立、すなわち科学とヒューマニティ、技術と歴史、自然科学と社会科学、その他何にせよこうした図式に描くことのできる対立の間に橋をかけるのに好適な状況である。
 私の理解しているようなものとして一般システムに[?]理論がこのように人間主義的な関心をもつことは、機械論に傾斜したシステム理論家と違いのあるところであって、後者はもっぱら数学やフィードバックや工学の言葉でシステムを語り、システム理論とは実は人間を機械化し無価値化しテクノクラートの社会へ向かわせるための最終段階ではないかという恐れを生ぜしめるものである」xvi-xvii

「『分子』生物学によって到達された深い見通しにもかかわらず——いやまさしくそれだからこそ——著者がこの40年間ほど叫び続けてきたように、『有機体論的』生物学の必要性がますます明らかになってきている。生物学の仕事とすべき事柄は物理ー化学的あるいは分子的なレベルだけにあるのではなく、さらに生きもののオーガニゼーションの高いレベルにある」😅 4頁

「結局のところ歴史学とは作られていく途上の社会学、あるいは『縦方向への』社会の研究だということである。相手は同じ社会ー文化的実体なのであり、社会学はそれを現状において、歴史学はそれを生成において研究するのだ。
…むしろ私たちは『歴史の力』——これが何を意味するにせよ——の犠牲者であるようだ。事態は単に個人の決定と行為ではすまないそれ以上のものを含んでおり、より多く社会ー文化的『システム』によって決定されるもののように思われる」5-6頁

「システム的なアプローチの必要性と実行可能性はようやく最近になってはっきりしてきた。その必要性をもたらした事実としては、単独にとりだせる因果連鎖と分割的とり扱いという機械論の図式では、とくに生物社会科学での理論的問題や現代工学の提起する実際問題を扱うのに不充分なことがわかってきたという事実がある」9頁

「著者は1920年代の初め、生物学の実際研究と理論の明らかなギャップにとまどいをおぼえはじめた。当時広くゆきわたっていたのはちょうど今述べた機械論的アプローチで、それは生命現象における本質的なものを無視するかもしくは積極的に否定するようにみえた。著者は生物学での有機体論の概念を唱えたのだが、これは全体として、あるいはシステムとして生物を考察することを強調し、生物科学の主目標はそのいろいろなレベルでオーガニゼーションの諸原理を発見することにあるとするものであった。著者の最初の言明は1925-26年にさかのぼるが、他方1925年にホワイトヘッドの『有機体機構』の哲学が現れている。キャノンのホメオスタシスに関する仕事がでたのは1929年と1932年である。有機体論の概念はクロード・ベルナールをすぐれた先駆者とするが、彼の仕事はフランス以外ではほとんど知られないでいた。今でもまだ充分には評価されていない」9頁

「近年アメリカの指導的な生物学者たちによって『有機体論生物学』が再び強調されるようになったのに(Dubos, 1964, 1967; Dobzhansky, 1966; Commoner, 1961)、これらの人々は著者がずっと初期にやった仕事に触れることがなく、一方、ヨーロッパや社会主義国の文献の中では、著者の仕事が正当に認められている…
 哲学方面で著者の受けた教育は後にウィーン学団として知られるようになったモリッツ・シュリックのグループの新実証主義の伝統を汲むものであった。けれども著者はドイツ神秘主義やシュペングラーの歴史相対論や芸術史に興味があり、またこれと同様な非正統派的な態度から、良き実証主義者になるわけにはいかなかった。著者にとっては1920年代の『経験哲学協会』のベルリン・グループとの結びつきのほうが強かったのである。そこで特に目立つ存在は哲学者兼物理学者のハンス・ライエンバッハ、心理学者ヘルツベルグ、工学者パルセヴァル(飛行船の発明者)であった」10頁

ドブジャンスキーも?

「一方で代謝と生長についての実験研究、他方で有機体論のプログラムを具体化する努力と結びついて、開放システム(開放系)の理論が発展させられたが、それは生物体がたまたま開放システムであるのに、当時そういう理論が全然なかったというむしろ些細なことからきたものであった」10頁

「もっと一般化ができるように思われてきた。生物学でも行動科学や社会科学でも、多くの現象に数学的表現とモデルを使うことができる。数学的表現やモデルは明らかに物理学や化学だけのものでなく、この意味では『精密科学』の模範としての物理学を越えたものなのだ…異なった分野でのそうしたモデルの構造上の類似性と同形性が明らかになりはじめた。そして機械論的科学では計画的に排除されていた秩序、オーガニゼーション、全体性、目的論等々の問題がまさしく中心に現れてきた。これが、そのとき『一般システム理論』の考えになったのである」10-1頁

フランク「私たちは今日、生物や人間の大きな全体を扱えるような新しいアプローチと新しくより包括的な概念と方法とを求める探索をまのあたりに見ている。目的論的機構というものの概念は、いろいろ違った言葉で表されるにしても、そのいずれも今はもはや不充分になったようにみえる古い機械論的な公式から脱けだす試み、自己制御過程とか自己定位するシステムあるいは生物体とか自己志向する人格とかを研究するための新しくていっそう実りのある概念といっそう効果的な方法論を提供する試みと見ることができよう」14頁

「システム理論はまた、サイバネティクスや制御理論と同一視されることが多い。これも誤りである。サイバネティクスは技術や自然における制御機構の理論であり、情報とかフィードバックの概念をもとにしてたてられたものであって、システムの一般理論の一部分にすぎない。サイバネティックス的システムは、重要ではあるとしても、自己制御を示すシステムの特別な一例なのである」15頁

「システム問題とは本質的には科学における分析的な手法の限界の問題である。これはこれまでしばしば、たとえば創発的進化とか『全体は部分の総和以上のものである』とか、なかば形而上学的な言葉でいい表わされてきたけれども、はっきりした操作的な意味をもつ問題だ。『分析的な手法』の意味することは、研究するべきものをまず部分に分解せよ、しかるのち部品を一緒に組合わせて構成、あるいは再構成できる、ということだ。この手法は物質的、概念的のどちらの意味でも理解されている。これが『古典的』科学の基本原理であって、この枠はいろいろちがう仕方で描いてみせることができる。たとえば単独にとりだせる因果連鎖へとものごとを分解すること、科学のさまざまな分野で『原子的』単位がさがし求められること、等々はその例である」16頁

「分析的手法が適用できるには二つの条件がなくてはならない。第一は『部分』間の相互作用がまったく存在しないか、あるいは一定の研究目的にとって無視できるくらい十分に弱いことだ。この条件下でのみ、部分というものを実際的にも論理学的にも数学的にも『とりだして調べる』ことができ、それから『組みたてなおす』ことができる。第二の条件は、部分のふるまいを記述する関係が線形であることだ。そのときにのみ総和性の条件が満たされる。すなわち全体のふるまいを記述する方程式が部分のふるまいを記述する方程式と同じ形になり、部分過程をかさね合わせて全体過程を得ることができる、等のことがいえる」16頁

「システムと呼ばれるようなもの、すなわち『たがいに相互作用をしている』部分からなるものではこれらの条件は満たされない。こうしたものの記述の原型は一組の連立微分方程式で…それは一般の場合には非線形である。システムもしくは『オーガナイズされた複雑性』…は『強い相互作用』(Rapoport, 1966)あるいは『無視できない』相互作用(Simon, 1965)、すなわち非線形の相互作用の存在によって区別される。システム理論の方法論的な問題は、それゆえ、古典科学の分析的ー加算的な問題とくらべてずっと一般的な性質をもっている」16頁

「<サイバネティクス> これは制御システムの理論であって、システムと環境の間あるいはシステム内部での通信(情報の運搬)、また環境と関連してのシステムの働きの制御(フィードバック)に基礎をおいている。このモデルは広い応用範囲があるが『システム理論』全般と同一視すべきではなくて……生物学その他の基礎科学で、サイバネティック・モデルは制御機構の形式的構造を、たとえばブロック図と流れ図によって記述しようとする。このようにすると制御構造は、たとえその実際の機構が未知であり記述されておらず、システムが入力と出力のみで定義されているような『暗箱(black box)』であるときでも、認知することができる」19頁

「サイバネティクスは、技術ばかりでなく基礎科学にも衝撃をおよぼし、具体的な現象に対するモデルを与えるとともに目的論的現象——以前はタブーであったもの——を科学によって認めてもらえる問題の領域にもちこんだ。しかしそれはいっさいを包括するような説明もしくは大きな『世界観』を生みだすことはなく、機械論的見解と機械の理論にとってかわるのではなしに、それの拡張であった」20頁

けっこう批判的😅

「平衡、ホメオスタシス、適合、等々の概念とモデルはシステムの維持に対しては適当でも、変化、分化、進化、負エントロピー、生じにくい状態の出現、創造性、緊張の作りだし、自己認識、創発、等々の現象に対しては不充分であった。じっさいキャノンもホメオスタシスとは別に、後者の性質の現象を含んだ『ヘテロスタシス』というものを認めたとき、このことに気づいていたのだ」21頁

「日常言語によるモデルもシステム理論の中ではしかるべき位置を占める。システム的な考えはたとえ数学的に定式化されなくても価値を失わず、数学的説明としてでなくむしろ『その後の手引きとなる考え』として残るものである。たとえば私たちは社会学において満足できるシステム概念をもっていないかもしれない。しかし社会的実体が社会的原子の総和ではなくシステムであるとか、あるいは歴史というものは文明と称せられるシステム…からなりたっていてシステムに一般的な諸原理に従うものであるだとかの見通しだけでも、これらの分野の方向転換を意味することになる」22頁

「『システム・アプローチ』といわれるものの中にも機械論的な傾向やモデルもあれば有機体論的傾向やモデルもあって『分析』、『線形(循環を含む)因果性』、『オートマトン』によるか、あるいは『全体性』、『相互作用』、『動力学』によるかのどちらか(あるいは両者のちがいを明確にする他のどんな言葉を使ってもよいのだが)によってシステムを攻略しようとしているのだ。これらのモデルはたがいに他を排除するものではなく、同一の現象に対し異なったモデルによるアプローチをすることさえありうるのだが(たとえば『サイバネティクス的な』概念と『反応速度論的な』概念…)、その場合どちらの見方がより一班的また基本的であるかを問うことはできる」22頁

「生物学でも、機械論的なとらえ方では、生命現象を原子論的な実体と部分過程に分解してしまうのが目標であった。生きた生命体は細胞へと分解され、生物体の活動は生理学的な過程へ、さらに最終的には物理化学的な過程へと分解され、また生物の行動は無条件反射と条件反射へ、さらに遺伝の基礎は個別の粒子である遺伝子へ分解されるというふうであった。しかしこれと反対に現代生物学では有機体論的な考えが基礎となっている。部分や過程をばらばらに研究するだけでなく、それらを統一するオーガニゼーションと秩序のうちに見いだされる決定的諸問題を解くことも必要である。そうしたオーガニゼーションや秩序は、部分間の動的な相互作用の結果であり、部分を切り離して研究するときと全体の中に置いてみるときとで、それらのふるまいを異なるものにしている。…社会科学でも、社会を社会学的原子である個体の総和とみなす考え方、たとえば『経済人』のモデルが、社会や経済や国家をその部分の上に立つ全体と考える傾向に変わってきた。このことは計画経済や国家の神格化といった大きな問題をも意味するが、また新しい考え方を反映するものでもある」28-9頁

「現代科学にはもう一つ重要な問題がある。最近まで、自然法則の集成としての精密科学というと、ほとんどそれは理論物理学に等しかった。物理学以外の分野で精密な法則を記述しようとする少数の試みはほとんど認められなかった。けれども生物科学、行動科学および社会科学からの衝撃とそれらにおける進歩は、私たちの概念図式を拡張して物理学の適用では十分でなかったり適用が不可能な分野で一連の法則をたてさせることを必要としているように見える。
…生きた生物体は本質的に開放システムである。つまり、環境とのあいだで物質を交換しあうシステムである。伝統的な物理学と物理化学は閉鎖システムを扱うもので、近年やっと理論が拡張されて不可逆過程と開放システムと非平衡の状態も含まれてきた。けれども、もし開放システムのモデルを、たとえば動物の生長現象に適用しようとすると、自動的に理論を一般化して物理学的単位にではなく生物学的単位に使えるようにしなければならない。いいかえれば、私たちは一般化されたシステムを扱うことになる。同じことが過去数年の間に関心を呼びおこしたサイバネティクスや情報理論の分野にも当てはまる」30頁

「一般的なシステム特性が存在することの当然の結果の一つは、異なった分野に構造上の類似や同形性のみられることである。本質的にひどくかけへだたったものについても、そのふるまいを支配する原理に対応がある。…こうした対応は、そこで問題にされるものがいくつかの点で『システム』とみなせる、すなわち、交互作用しあう要素の複合体とみなせる、という事実によっている。…『システム』に関係しているという事実があれば、問題とする現象において条件が対応しあっているときには、一般原則さらには特殊法則にさえも対応がみられることになるのだ」30-1頁

「こんにち基本的な問題となっているのはオーガナイズされている複雑性の問題だ。オーガニゼーション、全体性、目標指向性、目的論、分化などの概念は伝統的物理学とは異質のものである。けれども、これらの概念は生物科学、行動科学、社会科学のいたるところでちょいちょい顔をだし、じっさい、生物体や社会的集団を扱うのになくてはならないものである。つまり現代科学に課せられた根本問題の一つはオーガニゼーションに関する一般理論なのだ。一般システム理論は、原理的にいって、そのような概念に正確な規定を与えることのできるもの、また、うまい場合には、それらを定量的な解析にもちこむことのできるはずのものである」32頁

「システム理論の発展において問題となるのは、周知の数式を応用するというようなことではない。むしろ、新しくて部分的には解決にほど遠い問題が課されてくるのだ。…古典的な考え方は、大きな数だが有限数の要素間あるいは過程間の相互作用を扱う場合にはうまくいかない。ここに、全体性とかオーガニゼーションなどの概念によって大づかみに指示される新しい数学的思考法を要求する諸問題が生じてくる」32頁

「現代科学のいろいろな分野で同じような一般的概念と観点が進化してきた。かつての科学では、観察される現象を、たがいに独立に調べることのできる要素的単位の相互作用に還元して説明しようとした。ところがこんにちの科学には、多少漠然と『全体性』と名づけられるようなものに関する諸概念が現われている。つまりそれはオーガニゼーションの問題、局部的な事象に分解できない現象、各部分を個々に離したときと高次の構造(configuration)をもたせたときとで部分の行動に差があることに明示される動的な相互作用等々であり、要するに、ばらばらに各部分を研究したのでは理解できないさまざまな秩序をもつ『システム』の概念である。研究対象が無生物か生物か社会現象かにかかわらず、科学のあらゆる分野にこのような性質をもつ概念と問題が現われてきた。それら個々の科学の発達はたがいに無関係で、たがいのことをほとんど知らず、かつ異なった事実と、抵触しあう考え方のもとになされたのだから、この一致はなおさら驚くべきである。これらの発展は科学研究での態度と考えとに一般的な変化が生じたことを示している」34頁

「いろいろの異なる分野に形式的に同一の、つまり同形(isomorphic)の法則が見いだされる。多くの場合、『システム』の一定のクラス(類)あるいは部分クラスに対して、そこに関与する実体の性質が何であるかにかかわらず、同形の法則がなりたつ。一定の型のシステムであれば、システムの特殊な性質と関与する要素の如何にかかわらずあてはまる一般的なシステム法則が存在するようにみえるのだ。
 このような考察から一般システム理論と呼ぶ科学の新しい分科が要請されてくる。その主題は、成分要素とそれらの間の関係あるいは『力』の本性が何であってもそれにかかわらず、『システム』全般についてなりたつ原理を設定することである。
 それゆえ一般システム理論は、これまでは空疎でぼんやりとしてなかば形而上学的な概念と考えられてきた『全体性』に関する一般的科学である。仕上がったあかつきの形は論理ー数学的な一個の学問となり、それ自体は純形式的なものだが個々の経験科学に応用できるものとなるだろう。このものが『オーガナイズされた全体』を扱う科学に対してもつ意味は、確率論が『偶然事象』を扱う科学に対してもつ意味と同じものであるだろう」34-5頁

「下記に一般システム理論のおもなねらいを示す。
 (1) 自然および社会諸科学に統合をめざす一般的な動きがある。
 (2) このような統合の中心はシステムの一般理論の中にあるように見える。
 (3) このような理論は非物理学分野の科学で精密な理論をめざすとき重要な手段になりそうだ。
 (4) 個々の科学の世界を『縦に』貫く統一原理を展開することにより、この理論は私たちを科学の統一の目標にさらに近づけてくれる。
 (5) これは科学教育できわめて必要とされる統合へと導く」35頁

「微分方程式は物理的科学、生物的科学、経済的科学、またおそらく行動科学においても、広い範囲を覆えるものなので、この事実は、微分方程式を、一般化されたシステムの研究へのよいアプローチの一手段としている」35-6頁

「システムのうちには、その本性と定義そのものからして閉鎖システムではないシステムもある。生きた生命体はどれも本質的に開放システムである。生物体は成分の流入と流出、生成と分解の中で自己を維持しており、生きているかぎりけっして化学的、動力学的平衡の状態にはなく、それとは違ういわゆる定常状態にある。これこそ代謝と呼ばれるあの生命の根本現象、すなわち生きている細胞内での化学過程の本質である。この場合にはどうなるか? 明らかに物理学の伝統的なやり方は、開放システムでありかつ定常状態にあるものとしての生物体には原理的に適用できない」36頁

「等結果性(equifinality)の原理…閉鎖システムでは、最終状態はかならず初期条件によって一義的に決められてしまう。…これが開放システムだとそうならない。開放システムの場合にはいろいろ異なった初期条件と異なった方法からも同一の最終状態に達する。これがいわゆる等結果性であり、生物学的調節の現象にとって重要な意味を持っている。生物学史に親しい人ならば、ドイツの生物学者ドリーシュを生気論に導いたのがまさしく等結果性であったことを思いだされるだろう。生気論とは、生命現象は自然科学の言葉を用いては説明できないとする教義であった。ドリーシュの主張は胚の初期発生についての実験にもとづくものであった。完全な卵からでも、半分に割った卵のそれぞれからでも、完全な卵を二つくっつけたものからでも、同じ最終結果、すなわちウニの正常な個体が一つできるのである。同じことは人間を含む他の多くの種にもあてはまり、一卵性双生児というのは一つの卵が割れた結果生まれる。等結果性はドリーシュによれば、物理学の法則にそむくものであり、正常な生物体を作りあげるという目標をめざして過程を支配する霊魂まがいの生気要因がなければ不可能だという」37頁

「エンテレキー」ですな😅

「もう一つ無生物的自然と生物的自然との間で一見して対照をなすのは、ときにロード・ケルヴィンの崩壊(degradation)とダーウィンの進化(evolution)の間のまっこうからの矛盾と称せられたもの、つまり物理学における消尽の法則と生物学における進化の法則との矛盾である。…熱力学の第二法則…ところがこれと反対に生物の世界で見られることは、胚発生でも進化でも、より高い秩序と異質性とオーガニゼーションへと向かう推移である。しかし開放システムの理論をもとにすれば、エントロピーと進化のみかけの矛盾もなくなる。…閉鎖システム中のエントロピー変化はつねに正である。つまり秩序はたえず崩される。ところが開放システム中では、不可逆過程によるエントロピー生成ばかりでなく、負と称してもよいようなエントロピーのとりこみがある。自由エネルギーの高い複雑な分子をとりこんでいる生きた生物体中でおこっているのはこれである。つまり自らを定常状態に保っている生物システムは、エントロピー増加を避けることができるし、高度の秩序とオーガニゼーションの状態へ向かって進むことさえできる」37-8頁

「生物内自然において物理学法則が破られると考えられていた多くの例は実際には存在しない、というよりむしろ物理学理論の一般化とともに消えうせることがわかった…一般的にいえば、開放システムの概念は非物理学的なレベルに使うことができる」38頁

「工学でも生物界でもきわめて多種多様なシステムがフィードバックの図式に従っている。そうしてこういう現象を取扱うために、サイバネティクスと呼ばれる新しい学問が、ノバート・ウィーナーによって導入されたことはよく知られている。この理論は、人工機械でも生物体でも社会的システムにおいてフィードバックの性質をもった機構が目的論的あるいは目的指向的ふるまいの基礎になっていることを示そうとするものである」40頁→

フォロー

「システムとは相互に作用する要素の複合体と規定できる。相互作用とは要素pが関係Rにおいて存在すること、したがってRの中での一つの要素pのふるまいが別の関係R’の中でのそのふるまいと異なることを意味する。もしRとR’の中でのふるまいにちがいがなければ相互作用はなく、その要素は関係RおよびR’に関して独立にふるまう」51頁

「ヴォルテラの方程式で興味ある結果は、同一資源をめぐる二種の生物の競争のほうが、ある意味では捕食者ー被食者関係(食う食われるの関係)——つまり他方の種による一方の種の部分的滅亡——よりもずっと致命的である点だ。競争は最終的には、生長能力が小さいほうの種の絶滅をもたらす。食う食われるの関係ならば、ただ関係する種の個体数が平均値を中心として周期的に振動するだけである。こうした関係は生物共同体のシステムについて述べたものだけれども、社会学的な意味も充分持つといえるのではなかろうか」60-1頁

「『システム』といえば『全体』とか『統一体』を意味する。そうすると、全体に関してその部分間の競争というような概念を導入することは矛盾するように思われる。けれども実際には、この明らかに相反する命題はともにシステムの本質に根ざしている。あらゆる全体はその要素の競争を基礎としてその上になりたっており、『部分間の競争』(Roux)を前提としている。部分間の競争ということは、単純な物理ー化学システムにも生物や社会的単位にも見られるオーガニゼーションの一般原理であり、結局それは実在が示す<反対物の一致>の一表現なのである」61頁

「総和性を定義すれば最初ばらばらな要素を次々につけ加えることによって複合体を作り上げることができるようなもの、といえよう。逆に、この複合体の特性はばらばらの要素のそれへと完全に分析できるようなものだといって定義できよう。…しかしドイツ語で『ゲシュタルト』と呼ばれるようなシステムには当てはまらない」62頁

「ラッセル卿の本…には『有機体の概念』の拒否を示すやや驚くべき言明を見いだす。…『どんな場合にでも作業仮説としては機械論的見解を採用するのが賢明であって、それに明らかに反するような証拠があるときにのみそれを棄てるのがよい。生物学的な現象についていえば、そのような証拠は、これまでのところまったくない』…
…だがまさしく基本的で第一義的な生物現象に関しては、ラッセルのいっていることは根底から誤っている。胚の発生、代謝、生長、神経系の働き、生物共同体など、どの生物現象の領域でもよいからとりあげてみれば、つねに見いだされるのは、システムの中にあるときと切り離されたときでは要素のふるまいが異なっていることだ。全体のふるまいをばらばらの部分からたし合わせて作ることはできないし、部分のふるまいを理解するにはいろいろな下位システムと上位にあるシステムの関係を考慮に入れなければならない。分析と人為的隔離は生物学的実験と推論の方法として有用である。しかしけっして十分ではない」62-3頁

「物理学的システムではあまりないことだが生物学的、心理学的、社会学的システムでは普通でかつ基本的なもののようにみえる場合がある。それは要素間の相互作用が時間とともに減少していく場合である。…
 この場合にはシステムが全体性をもった状態から各要素が相互に独立の状態へ移ってゆく。最初の状態は統一的なシステムのそれだがこれが次第にたがいに独立な因果連鎖に分裂してゆく。<前進的分離>と呼んでよいであろう。
 原則として、原子とか分子とか結晶とかの物理学的全体のオーガニゼーションは、以前から存在した要素の結合の結果としてできあがる。これに対して生物学的全体のオーガニゼーションは、もとの全体の分化によって作りあげられ、全体が部分に分裂していく。…
 生物界で分離化が優位を占めている理由は、下位の部分システムの分裂化がシステムの複雑性を増すことになるからであるようにみえる。そのようないっそう高度の秩序への移行にはエネルギーの供給が前提となり、エネルキーがシステムへとたえず渡されるのはそれが開放システムであってエネルギーを環境からとりこむときに限る」63-4頁

「全体性を保った状態にあるときには、システムが攪乱をうけると新しい平衡状態が作られることになる。けれども、もしシステムが個々の因果連鎖に分割されていると、それらは他と独立に動いていくだろう。機械化の増加が意味するところは、要素が次第に自分自身にだけ依存して働くようになることで、その結果、全体としてのシステムでならば相互関係の存在にもとづいてひきつづき存在していたはずの調節能力が失なわれていく。相互作用係数が小さくなるほど、各Qi項が無視できるようになり、システムはより『機械に似た』もの——つまり相互に独立な部分の総和に似たものになる。
 この事実は『前進的機械化』と名づけてもよいと思うが、生物学で重要な役割を演ずる。最初のものは、システム内部の相互作用から生じるふるまいであろう。第二に、各要素はそれらのみに依存する作用に限定されてきて、全体としてのふるまいから総和的ふるまいへの移行がおこる」64頁

「けれども機械化は生物学的領域ではけっして完全なところまでは進まない。生物体は部分的には機械化されていても、それはまだやはり統一的な単位体としてのシステムなのだ。これが調節の基礎であり、環境の変化する要求と相互作用しあうことの基礎である。同様なことは社会的構造についてもいえる。原始社会ではどの構成員もめいめい、全体との関連で期待されることをほとんどなんでもやることができる。ところが高度に分化した社会になると、それぞれの構成員は特定の仕事もしくは仕事群をするように定められている。極端なのはある種の昆虫の社会の場合で、そこでの個体は、いわば特定の仕事のために決定された機械に変わりはてている」64頁

この辺り、どうも論理が混濁しているように思われますが

「生物学的、心理学的および社会学的進化での悲劇的緊張はいずれも、全体性と総和性とのこの対照のなかにある。進歩はただ、未分化の全体性の状態から部分の分化へと移行することによってのみ可能である。けれどもこのことは、部分がある一定の作用に固定されることを意味する。したがって前進的分離はまた前進的機械化をも意味する。ところが前進的機械化とは調節能力を失うことを意味する。システムが単位的な全体である限りは、ちょっとした攪乱があってもシステム内の相互作用によってふたたび新たな定常状態に達するであろう。システムは自己調節的なのだ。けれども、もしシステムが独立な因果連鎖に分割されてしまうと、調節能力は消失する。各部分の過程はたがいに無関係に進むことになる。これがたとえば胚発生のうちに見いだされるふるまいであって、決定は調節能力の減少と伴いあって進んでいく」64-5頁

「進歩はただ、初め一つの全体的単位的であった作用をいくつかの特殊部分の作用に小さく分割することによってのみ可能である。けれどもこのことは同時に未決定状態でも力の弱まり、機能の喪失がありうることを意味する。より多数の部分が一定の仕方で特殊化されるほど、それらは交換不可能になって、部分の損耗がシステム全体の崩壊を導くことがある。アリストテレス流の言葉でいうと、あらゆる進化はいくつかの可能性を開くことによって他の多くの可能性の芽を摘みとってしまう。私たちはこのことを胚発生にも系統発生での特殊化にも科学や日常生活の専門化のなかでも見いだすことができよう。
 全体としてのふるまいと総和的なふるまい、全体的な考えと要素主義的な考えはふつう対立するものとみなされている。しかしそれらの間に対立がなく、全体としてのふるまいから総和的なふるまいへ次第に移行するようなことがしばしばある」65頁

「集中化の原理は生物学領域でとりわけ重要である。前進的分離はしばしば前進的集中化と結びついており、その現われが主導的部分の時間的進化…である。同時にまた前進的集中化の原理は前進的個体化の原理でもある。『個体(不可分体)』とは集中化されたシステムであると定義できる。厳密にいうならばこれは生物学領域では、個体発生的および系統発生的にそこに近づくことのみできる一つの極限の場合であって、生物体は前進的集中化を通じていっそう統一的で『いっそう分かちがたい』ものに生長していくのである。
…生物学的な観点からは、前進的機械化と集中化を強調したい。初めの状態はシステムのふるまいが等能的な部分の相互作用の結果として生ずるような状態である。それが次第に、優勢な部分の指導下におかれるようになってくる。たとえば発生学では、これらの優勢な部分をオーガナイザーと呼ぶ(Spemann)。中枢神経系でも各部分は最初は下等動物の散在神経系におけるのと同じようにだいたい等能的である。しかし後になると神経系の主導中心に従うようになってくる」66頁→

「このようにして、前進的機械化と同様に前進的集中化の原理が生物学の中に見いだされ、これを象徴するのは、主導部分が時間とともに形成されてゆくこと…である。この見方は、重要だが簡単には定義できない個体の概念に光を当てる。『個体(individual)』とは『分けられぬもの』の意味である。…進化の尺度を登っていくと集中化の増大が見られる。行動は同等な位階(ランク)にある部分的機構が合成されたものではなくなり、神経系の最高中心中枢によって統一支配される…
 こうしてみると厳密にいえば生物学的個体性などというものはなくて、ただ進化と発生における前進的個体化のみがあり、これは前進的集中化、すなわち一定の部分が主導的な役割を得て全体のふるまいを決定するということからくるものなのだ。かくして前進的集中化の原理は<前進的個体化>をも含んでいる。個体とは一つの集中システムとして定義されるべきものであり、これは実は発生と進化の中で生物体が次第に統一的な『不可分』なも[ママ]になっていく道程の一つの極限である。…同じことは社会学の領域にもあてはまる。ただの群衆の集まりには『個体性』がない。一つの社会構造が他と区別されるためには、一定の個体のまわりでのグループ形成が必要である」66-7頁

「前進的機械化と前進的集中化の原理を無視することからしばしばにせの問題がたてられてきた。それは、独立で総和的な要素という極限の場合か、さもなければ等価な要素の完全な相互作用しか認めず、生物学的に重要な中間の状態を無視してしまうからである。このことは『遺伝子』と『神経中枢』の問題と関連して重要である。古典遺伝学は(近代遺伝学はいざしらず)遺伝物質を個々の形質や器官を決定する微粒子単位の総和と考える傾向があった。巨大分子の総和では生物体の有機化された全体性を作りだせないという反対は当然である。正しい答は全体してのゲノムが全体としての生物体を作りだし、しかもなお一定の遺伝子が一定の形質の発達の方向を決定すること——いいかえれば『主導部分』として働くことである。このことは、どの一個の遺伝形質も多くの遺伝子、おそらくすべての遺伝子の協同の働きで決まる、そうしてどの一個の遺伝子も単一の形質ではなく多くの形質、おそらく生物体全体に影響を与えるという洞察の中に表現される(形質の多遺伝子性(polygeny)および遺伝子の多表現性(polypheny))」68頁

「生物学者はしばしば、こういう[目的論的な]公式を何かいかがわしいものとみなす。それは隠れた生気論を恐れるせいか、あるいはこういう目的論や目的指向性を生気論の『証拠』と考えるからであった。それというのも無生物的自然ではそうでもないが生物的自然に関しては、目的論的過程と、人間が目標を予見することを私たちは比較しがちなのだ」71頁

「生物的調節には[ホメオスタシスとは]もう一つ別の基礎がある。それは等結果性、すなわち異なった初期条件と異なった仕方から同一の最終状態に達しうるということだ。このことは開放システムならば定常状態に達するものであるかぎり、すべてに見られることである。生物的システムの根本的な調節可能性は等結果性にもとづくもののようである——つまり、あらかじめ決定された構造や機構にもとづくのてはなく、むしろ逆にそういう機構を排除するような、そしてそれがため生気論の論拠となったような調節はすべてそのようにみることができる」73頁

「生物的構造の適応…はおそらくランダムな突然変異と自然淘汰の因果的働きによって説明できよう。けれども、この説明はあのきわめて複雑な生物的機構とフィードバック・システム…の起源に関してはよほど疑わしい。生気論は要するに、生物の目標指向性…を到達点の予見の知恵…によって説明しようとの試みである。これは、方法論として自然科学の枠を越えたところにでてしまい、経験的にも正当化できないものだ。…等結果性やアナモルフォジスのように『生気論の証拠』とされた現象の重要な部分は、開放システムとしての生物体の特徴的な状態からくる当然の結果であって、したがって科学的な解釈と理論で扱えるはずのものである」73-4頁

「一般システム理論はさらに科学での重要な調整の道具となるべきものだ。異なる分野に同一の構造をもつ法則が在存[ママ]すれば、複雑な扱いがたい現象に対して、より簡単あるいはよりよくわかっているモデルを使うことが可能になる。したがって一般システム理論は、方法論的にいって、異なる分野間で原理の受け渡しを制御したり促したりするのに重要な手段となるべきものであって、これによってたがいに孤立した各分野で同一の原理の発見を二重にも三重にも繰りかえす必要がもはやなくなるであろう」74頁

「共通の起源から出発して独立に発展していく並行進化の現象の中には興味深い類似性があることを知る——ある場合にはそれは民族の言語の独立の進化であったり、ある場合には哺乳動物の一定の綱の中のグループの独立の進化であったりする」75頁
文化進化論の先駆みたいな…

「純粋に形式的な『システム』の定義から、いろいろな科学分野でよく知られた法則に一部分表現されていたり、また一部分はこれまで擬人的だとか生気論的だとかされてきた概念に関する多くの性質が導きだされてくる。したがって、いろいろな分野での一般的概念の並行性やさらに特殊法則の並行性さえも、これらが『システム』に関連しているということと、ある種の一般原理はどんな性質のシステムにもその本性の如何にかかわらず適用できるということからくる当然の結果であることになる。かくして全体性と総和、機械化、階層的秩序、定常状態への接近、等結果性などの原理がまったく異なった分野に現われる場合がある。異なった領域に見いだされる同形性は、一般的なシステムの諸原理の存在、多少とも十分に発達した『一般システム理論』の存在にもとづくものである」77-8頁

「当面の考究の関心は論理的相同にある。私たちはこれを次のようにいい表わすことができよう。もし対象が一つのシステムであるならば、それは他の点ではどんなものであるにもせよその如何にかかわらず、一定の一般的なシステム特性はもたねばならない。論理的相同は科学における同形性を可能とするだけでなく、概念モデルとして現象の正しい考察と最終的な説明のための道具を与える力をもっている」78頁

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