「高出生率が幼児の死亡率低下を伴いながら続いたことにより、ヴィクトリア朝の家族をうみ出した。それは伝説によれば大家族であり(もちろんフランスを除く)、事実、何世紀もの間のヨーロッパの家族よりもだいぶ大きかったであろう。しかし増加したのは、人口学的意味における完全家族規模(つまり、ある年齢で結婚した女性がその出産可能期間の終了までに産んだ、死産を含まない子供の数)よりも、むしろ同居家族と呼びうるもの、すなわち1つの家族単位内で両親と同居する子供の数であった。子供があまり死ななくなり、片親の早死によって結婚が中断されることが少なくなり、そしてある地域では出生率もまた増大することによって、子供たちは大勢の兄弟のなかで育っていくようになった。また非常に若いうちに子供たちを奉公に出すという慣習がすたれていったという可能性があり、そういう場合には。同居家族の規模を大きくさせる傾向をもたらすようになっただろう」199-200頁
「産業革命前には多くの社会が出生率を制限するような制裁手段を、たとえば早婚に対して発展させてきたようにみえるのに対し、産業革命後には社会的制裁手段がだんだんと姿を消したが、家族内の制裁手段が現われてきたのである」207頁
「フランスにおける、そしてイングランドにおけるヨリ以前の子供数の制限の歴史は、おそらくすべての国民、またその諸階層が、結婚生活において諸条件が必要とするときにはいつでも出生率を制限する能力をいわば内蔵しているということを示す。子供数の制限が以前には常に社会の下層よりも上層の間で見いだされる、と独断的に主張することは早計である。…性交中断がおもな技術として使われているかぎり、避妊をし、子供の数を制限しようという決定は男の特権だということを覚えておくべきである」216-7頁