「高死亡率は、工業化よりもむしろ都市化の結果であったということの方が、たぶんずっと正確だろう。死亡率がそのように非常に高いのは、ヨリ大きな都市においてであった。これらの大都市の多くは新しい工業に非常に深く携わっていたわけではなく、行政・商業の中心地であった」190頁
「高出生率が幼児の死亡率低下を伴いながら続いたことにより、ヴィクトリア朝の家族をうみ出した。それは伝説によれば大家族であり(もちろんフランスを除く)、事実、何世紀もの間のヨーロッパの家族よりもだいぶ大きかったであろう。しかし増加したのは、人口学的意味における完全家族規模(つまり、ある年齢で結婚した女性がその出産可能期間の終了までに産んだ、死産を含まない子供の数)よりも、むしろ同居家族と呼びうるもの、すなわち1つの家族単位内で両親と同居する子供の数であった。子供があまり死ななくなり、片親の早死によって結婚が中断されることが少なくなり、そしてある地域では出生率もまた増大することによって、子供たちは大勢の兄弟のなかで育っていくようになった。また非常に若いうちに子供たちを奉公に出すという慣習がすたれていったという可能性があり、そういう場合には。同居家族の規模を大きくさせる傾向をもたらすようになっただろう」199-200頁
「産業革命は、ほとんどの人びとのポケットに、はるかにたくさんの貨幣を入れてくれただけでなく、彼らに生活水準の永続的上昇の期待を、したがって、たいていの家族に入手可能な消費財の範囲と質との永続的な改良への期待をも生みだしたのであった。このことは、子供の数が少ないことの有利性に対するはるかにはっきりとした高い評価と子供数の制限方法が広がりうる、ヨリ順応性に富んだ社会的環境との双方を確固たるものにした。この議論はトックヴィルの革命勃発についての古典的分析との間に、ある種の類似性をもっている。父親よりやや富裕であり、さらによくなるという期待に目ざめてきた者は、生活水準が突然に悪くなった場合に、彼らだけがいっそうの進歩の喜びをはっきり認識しているのだから、反逆しがちなのである。同じように、実質所得の増加を経験し、そのもたらす利益を享受したことのある者だけが子供の数を減らすことに伴う有利さに十分敏感で、積極的に子供数を制限しようとするのである…このことは、なぜ最も貧しい者がそれをほとんどやらず、また最後にやるのかということの説明に役だつだろう」206-7頁
「多くの前工業化時代の人口においては、出生率をペースメイカーと考えるのは、ある意味で正当である。…他方、産業革命以後は、死亡率がペースメイカーだったと言ってもよいだろう。生産は人口よりももっと早く増加し、その結果、死亡率はもはや、マルサス的上限によって出生率に近いところにとどまらされることはなかった。もちろん、出生率はつねづね死亡率と相並んで低下したわけではないが、死亡率の着実な低下は、出生率もまた絶対数を縮小させずに低下できるような状況を生みだした」196頁