「今日では、マジャール人の家族構造が、単純に外婚制の共同体家族だとは考えてはいない。中央ヨーロッパの直系型と東ヨーロッパの共同体型が接する境界線であるこの地域には、人類学的な形態のかなり複雑な混合型が存在するのだ。しかし、共産主義に対してハンガリーが結んできた関係そのものが両義的であったことを考慮に入れれば、この変更が解釈上の問題によるものではないことを理解することができるだろう。なぜならこの国は、半世紀足らずの間に、1919年の共産主義革命と、1956年の反共産主義革命を経験した唯一の国だからである。『新ヨーロッパ大全』では、ベルギー、ライン河流域、ヴェネチア地方の特徴を描くために、不完全な直系型という概念を導入して、直系家族の描写にニュアンスをつけている」16頁
「新たな歴史的な文脈のなかで、共同体型の価値は、逆に資本主義社会、あるいは伝統的にリベラリズムの社会と今日もなお懸け離れたこれらの国々[ロシア、中国、セルビア]の再編の行方に様々な困難をすでに創り出しているのではないだろうか。コミュニズムからの離脱が単純に進んでいるところは、人類学的基底が核家族型であるポーランドや直系型であったチェコのように、コミュニズムが押しつけられたものであった国々に限られているようである。その他の地域では、共同体家族の直接的な拡張形態である集団やマフィアが数多く台頭し、ナショナリズムの全体主義的な諸形態が隆盛を極めている一方で、経済機構の方は競争原理による市場とは正反対の、脱貨幣化により近づいている様相を呈している。現在では、人類学的な多様性は、都市化と伝統的な農村家族の消滅にもかかわらず生き延びるものだと私は考えている」18頁
「ローラン・サガールは、私の家族システムの類型の地図が、偶然できた配置などではなく、類型の起源とその論理についての何か単純で明解なものを表している、ということを私に気付かせてくれたのだ。『辺境地域の保存特性』という言語学的な原則が、東ヨーロッパからベトナムに至り、またモンゴルからアラブ世界に及ぶ——内婚制であれ外婚制であれ——『ひと続き』になっている共同体型地帯の存在を説明してくれるのである。さらには、この共同体型地帯の両端に存在するドイツや日本の直系型の地域、またその辺境地域に、イギリスやフィリピンの核家族型が存在するという配置を説明してくれるのである。このような配置は、ひとつの同質システムのなかに或る時点で生起した新しい形式が、その中心的な地域を基点にして広がり始めたあと、別の時点ではまだそれがそのシステムの辺境地域には到達していないという状態を想起するものである、というのだ。…共同体家族の諸類型は、そのほとんどのケースが父親と結婚した息子たちを集団の組織の中核に据える父権制の構造物である。したがって共同体型の伝播は、父権原理と男性優位の伝播をも意味しているのである」26頁→
(承前)「このような解釈は、父権制の段階に先行する母権制の存在についての強力で、ときには逸脱した考察である『母権制』のなかで、1861年にバッハオーフェンによって開かれた古典的な人類学上の論争につながるものである。私が、ローラン・サガールとともに行なったこの分析は、他の多くの研究がすでに示唆しているように、かなり古いある時代に、女性に与えられていた高い地位(しかしバッハオーフェンが考えていたような支配的な地位ではない)が低下するという経験をしたという仮説の信憑性を確認するものとなっている。このような解釈は、個人主義的な核家族と近代とを結びつける古典的な社会学諸理論に馴染んでいる人々には驚愕すべき認識に至りつくことになる。中心部における変化として発生した共同体型家族の伝播という仮説は、核家族の諸類型を、反対に、原初的なものとして定義するにいたるのである。
共同体型家族システムの起源に関するこの『伝播理論』による仮説は、哲学的には極めて私の好むところのものである。なぜならば、それは家族の類型によって分断されている<人類の一体性を回復するもの>だからである」26-7頁
「[ル=プレにおいては]父親と息子たちとの関係が自由あるいは自由の否定を定義するのである。そして兄弟たちの関係が平等あるいは不平等の理念を定義するのである。
<自由>。仮に子供が結婚後も親たちとともに生活を続け、拡張された家族集団のなかで縦の繋がりを形成しているとすれば、その子は家族関係の権威主義的なモデルのひとつに適応しているのである。逆に、仮に子供が思春期を終えたところで結婚というかたちで独立した家族を築くために元の家を出るとしたら、彼は、個人の独立を重んじる自由主義的なモデルを実行していることになる。
<平等>。相続は2つのやり方で行なわれ得る。仮に親の財産が分割されるようであれば、その相続は兄弟間の平等な関係を示している。だがもし相続のシステムが財産の分割不可能性を前提にし、ひとりを残してその他が相続から排除されるとしたら、その相続は不平等理念を受け入れていることになる。
…家族システムは次のような4つのタイプであり得るのだ。
——自由主義で不平等主義(タイプ1)。
——自由主義で平等主義(タイプ2)。
——権威主義で不平等主義(タイプ3)。
——権威主義で平等主義(タイプ4)。
ところが、ル=プレの類型学ではタイプ234だけが採用されているのである」42-3頁
「フランス革命の原理を悪魔的なものと認識するとともに、その原理を否定する異なる家族構造の存在に気が付いたフレデリック・ル=プレではあったが、政治が社会を創るのでありその逆ではないとする革命哲学の大いなる幻想にやがて屈するのである。彼は改革者たちの意識的な行動が家族構造を変えることができると考えた。彼は民法が遺産を解体し、父の権力を根底からくつがえし、共同体家族と権威主義家族(彼の用語では家長制家族と直系家族)を破壊すると批判した。彼は遺産を分割しない反平等主義的原理の再建を提案した。家族の研究に一生を捧げたこの人物は、家族制度の堅固さを信じなかった。彼は家族が本質的に可塑的なものと考えており、もっとも重要な基礎となる社会学的現象とは認識していなかったのである。
ル=プレは家族関係上の概念と政治的イデオロギーや宗教的イデオロギーの概念の間に反映的な関係があることを感じていた。しかし暗黙のうちに彼はイデオロギーを現実の現象と見なし、家族をその忠実だが脆いイメージと考えていた」48頁
「忘れられた兄弟
精神分析的な議論の大きな弱点は、ただひとつの不変的な家族構造しか存在しないという前提に立っているため、唯一の家族構造が一体どのようにして人間の想像力からこれほど異なる特徴をもつ様々なイデオロギーを生み出すことができるのかを説明できないという点にある。…
フロイトとその継承者たちは、縦の関係——父と息子、父と娘、母と娘——と同じ程度に無意識の領野を定義する兄(弟)たちと姉(妹)たちの関係を特に無視する道を選んだ。なぜだろうか。これは単純に、精神分析の思想が誕生した人類学的な場所であるドイツの家族システムが、兄弟姉妹の連帯という理念に敵対的だったからである。…平等と兄弟の相互扶助の理想が支配的である他の地域—— ロシア、中国、そして殊にイスラムの地——では、対抗性を持つ精神システムを捉えることができずにフロイトの思想は上滑りするのである」49頁
「家族の自動再生産
イデオロギー・システムとは別に、人類学的システムは自動的に継続する。家族とは定義上、人と価値を再生産するメカニズムである。それぞれの世代は親たちと子供たち、兄と弟、兄(弟)と姉(妹)、姉と妹、夫と妻といった基本的な人間関係を定義する親たちの諸価値を、無意識のうちに深く内在化するのである。この再生産メカニズムま強みは、意識的てな言葉によるいかなる公理化も必要としないという点にある。このメカニズムは自動的にはたらき、論理以前のところで機能するのである。…
実際には、家族の坩堝のなかで基礎となる価値が形づくられているために、それぞれの世代は思春期がやってくると社会空間のなかで支配的なイデオロギーを強制されたり教育されたりしなくとも再び発明することができるのである。そんな時そのイデオロギーは、当人たちの目には正当であるばかりか、なによりも自然なものと映るのである。
…平等は…経済的観念ではなく、ジャガイモの量と同様に感情領域にも適用可能な直観的な数学的観念なのだ」50-1頁
「イデオロギーの領野は、どこでも家族システムを知的な形式に転写したものであり、基礎的な人間関係を統御している根本的な価値——例えば、自由、平等、そしてその反対物——を社会的レベルに転換したものである。各家族タイプには、ひとつのイデオロギーだけが対応している。
…定義された家族形態のそれぞれには、イデオロギー・システムはひとつだけ対応し、そのイデオロギー・システムが、世界中で他の家族形態が支配的である地域では確認されていないこと(数学用語では家族タイプの集合が政治的タイプの集合と<1対1対応>していること)…
補足的な制約条件として、所定の人類学タイプが内包する家族形態の二次的な変種には、対応するイデオロギー・タイプが内包する政治的もしくは宗教的形態の二次的な変種が対応していなければならない」56-7頁
「核家族と近親相姦の禁止の緩和——アノミー型
近親相姦への恐怖が和らぐと、核家族は別用に徹底した結果を獲得するようになる。両親と子供たちの分離という理想の上に築かれた核家族は、結婚による血族の分離という原則が緩むと構造体として耐えることができない。
実は外婚制規制というのは核家族が拠って立つ目に見えない無意識的な土台なのである。ふたりの兄弟の子供たちの結婚を禁止しているのも、彼らの分離の原則を論理的に補足するものなのである。…
…<構造の不在>そのものがひとつの特殊なタイプの構造となったのである。私はこの不規則な核家族モデルを、エミール・デュルケームへの賛辞をこめて<アノミー家族>と呼ぶ。
このタイプが存在するということは、核家族のヨーロッパ・モデルをよく理解するためにきわめて重要である。ヨーロッパ・モデルの方は人類学的には統御は弱くない。核家族が実現するためには、特に外婚制という明確な人類学的規範が厳格に適用される必要があるのだ」65頁
「アフリカ——家族集団の不安定性
…家族集団の歴史は、ここでは他の地域のようにいくつかの重要な節目——誕生、結婚、他界——に要約できない。無数のアフリカ・モデルのなかでは、人々は子供たちも、女たちも、男たちもひとつの人生のなかで、論理的には家族とは呼ぶことができないいくつもの家族形態を倦むことなく作っては解体する循環のなかにいるのである。基本的な人間関係のこのような流動性の象徴が結婚なのだが、アフリカではその根本的な構造的特徴が夫と妻の絆の脆弱さにある。
…ブラック・アフリカでは一夫多妻は規範であり、統計上しっかりと実現されているひとつの理想なのである。その結果として出現するのが離婚であり、その頻度は世界の他の地域では未知の水準に達している。
…アフリカでは一夫多妻と離婚が規範なのである。…その多くが明確に外婚制であり、近新婚の禁止を遵守している。…
しかしながらアフリカは<ひとつ>の家族タイプではなく、複数の個人の相互関係の不安定性という新しい基準によって産出される複数のタイプの<総体>なのである。したがって私は不安定なシステムという言い方をすることにしよう。家族という用語は安定した家族グループに取っておくことにする」67-8頁
「共産主義はまず特定の人類学的構造[外婚制共同体家族]によって産出され、次いでその躍進は壁にぶつかり止まった。それ以降の歴史は軍事的なものである。赤軍によって共産主義が外から強制されたところでは、人類学的組成が常に激しく反発し、しばしば奇妙な反応をみせた。いくつもの折衷的な政治形態が出現した。…これらの変異のひとつひとつが共産主義の移植に対する拒絶の現象であり、家族的土壌の性質に応じてその形態は変化したのである。ポーランドでは平等主機的家族、北朝鮮では権威主義家族、アフガニスタンでは内婚制共同体家族、カンボジアではアノミー家族の土壌に移植が行なわれたのである」75-6頁
ここの説明はかなり苦しいように思うなあ
「一般的にいって、自殺は、その家族システムの密度が高く、縦型で、両親と子供たちの相互依存を強いる国であればあるほどより頻繁に発生する。ここでは父と息子の関係の潜在的に病理的な性格についてのフロイトの直観が正しかったことを統計によって確認することができる。権威主義家族と外婚制共同体家族が核家族のモデルよりも明らかに不安発生要因をより多く孕んでいる。したがってより高い自己破壊の頻度を生み出している。
しかし家族関係が縦型であるということが自殺の唯一の要因ではない。夫と妻の関係の平等と安定の度合いは、同じくらい重要なもうひとつの要因である。…自殺の動機における男女の関係の重要さが、なぜ外婚制システムが内婚制システムよりもはっきりと地球規模で高い自殺率を生み出すのかを説明している。…
…最も高い自殺率はその家族システムが、<外婚制で、同時に強い縦型の要素を内包し、男女の平等な関係を有し、高い離婚率>をもつ国々で観察されるのである。…
言語学的な見せかけにもかかわらず、[自殺率が高い]キューバは共同体家族の国なのだ、という単純な仮説を立てる必要があるのである」87・89頁
若気の至りなのか、けっこう無茶な議論してるなあ
「主要な問題は、家族の理想が具現化されることで、2組または3組の婚姻カップル(核家族集団の場合は1組だけ)からなる目に見える具体的な家族集団の姿が実現されるためには、家族の価値だけではなく、さまざまな状況や物質的な条件が必要となるということなのである。だから稠密で複合的な家族は都市部では、常に農村部よりも少ないのである。しかしそれは決して家族の価値が弱体化していることをア・プリオリに意味しているのではない。都市部では、それらの価値が複数の成人の同居や共同の労働というかたちとは異なるやり方で表現されるのである。家族は単に可視的な組織であることをやめたということに過ぎない。農村の生活に結晶化している家族の価値は、都市では非物質的な心的構造の状態に移行するのである」89-90頁
反証不可能な議論に思えるが…
「徹底した父方内婚制を実践していたアラブ世界によって生み出されたイスラム教は、外婚制規制が弱いか皆無の隣接地域全体に広がった。イスラム教は内婚制システムを生み出したわけではない。ただもっとも極端な近親相姦の形態を禁止するかたちで内婚制を組織立て調整したのである。つまり古代エジプトの兄弟・姉妹間の結婚、ゾロアスター教のイランの兄弟姉妹間の婚姻、古代パレスチナの異父母兄弟・異父母姉妹の婚姻を禁止したのである」208頁
「イブン・ハルドゥーンは血族と国家を区別しない。イブン=ハルドゥーンは政治権力の強さは、一定の時代に4世紀以上は続くことがないある血族の活力に基づいていると考えている。彼にとっては、血縁の概念は衰退という概念を含んでいる。『ひとつの家族の威光は4世代で絶える』、息子は『父に値しない』。ここに政治的なイスラムの歴史を作り出す王朝の繁栄と衰退が由来する。
国家の弱さはイスラム世界を政治的な分裂へと導く。イスラム世界は、ローマ、中国あるいはロシアのような帝国として存在することができなかった。…兄弟の連帯という観念は、世界の他のどの文化よりも統一への熱望と分裂の能力を併せもっているイスラム文化の根本的な矛盾を理解させてくれる。
…イデオロギーのレベルではなく家族のレベルでは、内婚制的な閉鎖性を生み出し、イスラム社会が個人からなる共同体ではなく、家族が並立することで成り立っているという様相を醸し出す。イスラム教徒共同体(ウンマ umma)の構造がそれであり、家族ではなく個人の集合である国民というヨーロッパ的な観念と対立する」220頁
「血縁結婚の内分けの変化…都市化プロセスが親族システムに<母系的な偏向>を引き起こしている。内婚制モデルが維持されながらも、変容が起こり、都市層での妻と母の重要性の増大を示すようになる。イスラムの地においてさえ、近代化のプロセスは、女性の権力の増大を引き起こしているのである。そこからイスラム教徒でありイラン人である男性たちの不安が生まれたのである。彼らがホメイニとともにすすめた闘いは、幾分はシャーに対抗するものであったが、しかし多くはチャドール(女性のスカーフ)のため、つまりはシャーが薦めた女性解放に反対するものであった」227頁
一種のバックラッシュか…今のイラン情勢を見るに含蓄深い分析だなあ
「この亜大陸における言語、儀式、慣習の驚くべき多様性にもかかわらず、ひとつの人類学的な形式がインド全体に共通している。それは核となる家族構造が共同体家族であり、男性集団を外婚制が貫いていることである。2つのヴァリアントがインドの空間を二分しながら、この外婚制共同体家族という一貫した形式を補っているのである。
北部では、外婚制は父系、母系の両方に及び、結婚の禁止は母方の家族にも適用される。
南部では、外婚制は部分的であり、母方の親族とのイトコ婚を奨励するシステムと組み合わされている。この非対称的な内婚制のモデルが断ち切られると、インド南部の家族は単純な外婚制共同体家族に変容することになる。…このようなシステムの解体が共産主義の強力な浸透を極めて順調に推し進めたのだ」245-6頁
「村落のレベルで行なわれたいくつかの調査によれば、王侯たちの内婚モデルに類似した現象が常に大衆層のなかにも確認できることが示されている。エルマンやランケのようなもっとも信頼できるエジプト学者は、農民と職人からなる古代エジプトでは兄弟と姉妹の結婚はありふれたことであった、と考えている。カンボジアの或る農村で実施された研究では、王侯の家族で許されている異父(母)兄弟と異父(母)姉妹の結婚は、より慎ましい階層である底辺の水稲耕作者たちにも同じく受け入れられていたことが示されている。インカの問題も比較的新しい民族学的な資料に当たれば解決することができる。『南米インディオのハンドブック』によると、現在のアイマラ族(インカ帝国の民族学的構成要素のひとつ)では性の違う双子が頻繁にもしくは一貫して結婚している。この<教科書>の論文の著者は、住民数千人の地区にそのような夫婦を3組確認している」257頁
「縦型の外婚制で権威主義的共同体家族システムにおける権力は、個人の外部に存在するのではなく人々の頭のなかに存在するのである。ひとびとはその教育システムによって服従に慣らされている。そして外婚制メカニズムが社会全体との接触を強制している。外婚制システムのなかにはひとつの構造化作用が存在している…遠心的な力が個人を家族の外へ押し出し、社会全体が相互に作用することができるメカニズムを生み出しているのである。
アノミー家族は全く違うものを生み出すことになる。核家族型で一定した規則に拘束されず、教育のやり方が厳格ではないために、構成員たちに規律の原理を習慣づけることがない。したがって社会の裏面で機能するこの構造化作用を生み出すこともない。求心的な派生力に任されたまま外婚的な拘束が働かないために、各個人が出身集団に舞い戻ることになる」262頁
「中核の均質性
イスラム教は、その中心部である内婚制の地域ではキリスト教に対して有利さをもっている。ただ歴史の偶然によるのではなく、人類学的な土壌が存在することでより大きな適合性があるのである。キリスト教に通底する共通点は、外婚制という規則だけである。…イスラムはもっと精密であり、もっとも限定的である。…外婚制とアノミー家族の周辺部を除くと、イスラムは、人類学的観点からは完璧に均質性を保っている。反対にキリスト教は、平等主義核家族もしくは絶対核家族、権威主義家族そして外婚制共同体家族を含んでいる」213-4頁