「家族の自動再生産
イデオロギー・システムとは別に、人類学的システムは自動的に継続する。家族とは定義上、人と価値を再生産するメカニズムである。それぞれの世代は親たちと子供たち、兄と弟、兄(弟)と姉(妹)、姉と妹、夫と妻といった基本的な人間関係を定義する親たちの諸価値を、無意識のうちに深く内在化するのである。この再生産メカニズムま強みは、意識的てな言葉によるいかなる公理化も必要としないという点にある。このメカニズムは自動的にはたらき、論理以前のところで機能するのである。…
実際には、家族の坩堝のなかで基礎となる価値が形づくられているために、それぞれの世代は思春期がやってくると社会空間のなかで支配的なイデオロギーを強制されたり教育されたりしなくとも再び発明することができるのである。そんな時そのイデオロギーは、当人たちの目には正当であるばかりか、なによりも自然なものと映るのである。
…平等は…経済的観念ではなく、ジャガイモの量と同様に感情領域にも適用可能な直観的な数学的観念なのだ」50-1頁
「イデオロギーの領野は、どこでも家族システムを知的な形式に転写したものであり、基礎的な人間関係を統御している根本的な価値——例えば、自由、平等、そしてその反対物——を社会的レベルに転換したものである。各家族タイプには、ひとつのイデオロギーだけが対応している。
…定義された家族形態のそれぞれには、イデオロギー・システムはひとつだけ対応し、そのイデオロギー・システムが、世界中で他の家族形態が支配的である地域では確認されていないこと(数学用語では家族タイプの集合が政治的タイプの集合と<1対1対応>していること)…
補足的な制約条件として、所定の人類学タイプが内包する家族形態の二次的な変種には、対応するイデオロギー・タイプが内包する政治的もしくは宗教的形態の二次的な変種が対応していなければならない」56-7頁
「核家族と近親相姦の禁止の緩和——アノミー型
近親相姦への恐怖が和らぐと、核家族は別用に徹底した結果を獲得するようになる。両親と子供たちの分離という理想の上に築かれた核家族は、結婚による血族の分離という原則が緩むと構造体として耐えることができない。
実は外婚制規制というのは核家族が拠って立つ目に見えない無意識的な土台なのである。ふたりの兄弟の子供たちの結婚を禁止しているのも、彼らの分離の原則を論理的に補足するものなのである。…
…<構造の不在>そのものがひとつの特殊なタイプの構造となったのである。私はこの不規則な核家族モデルを、エミール・デュルケームへの賛辞をこめて<アノミー家族>と呼ぶ。
このタイプが存在するということは、核家族のヨーロッパ・モデルをよく理解するためにきわめて重要である。ヨーロッパ・モデルの方は人類学的には統御は弱くない。核家族が実現するためには、特に外婚制という明確な人類学的規範が厳格に適用される必要があるのだ」65頁
「アフリカ——家族集団の不安定性
…家族集団の歴史は、ここでは他の地域のようにいくつかの重要な節目——誕生、結婚、他界——に要約できない。無数のアフリカ・モデルのなかでは、人々は子供たちも、女たちも、男たちもひとつの人生のなかで、論理的には家族とは呼ぶことができないいくつもの家族形態を倦むことなく作っては解体する循環のなかにいるのである。基本的な人間関係のこのような流動性の象徴が結婚なのだが、アフリカではその根本的な構造的特徴が夫と妻の絆の脆弱さにある。
…ブラック・アフリカでは一夫多妻は規範であり、統計上しっかりと実現されているひとつの理想なのである。その結果として出現するのが離婚であり、その頻度は世界の他の地域では未知の水準に達している。
…アフリカでは一夫多妻と離婚が規範なのである。…その多くが明確に外婚制であり、近新婚の禁止を遵守している。…
しかしながらアフリカは<ひとつ>の家族タイプではなく、複数の個人の相互関係の不安定性という新しい基準によって産出される複数のタイプの<総体>なのである。したがって私は不安定なシステムという言い方をすることにしよう。家族という用語は安定した家族グループに取っておくことにする」67-8頁
「共産主義はまず特定の人類学的構造[外婚制共同体家族]によって産出され、次いでその躍進は壁にぶつかり止まった。それ以降の歴史は軍事的なものである。赤軍によって共産主義が外から強制されたところでは、人類学的組成が常に激しく反発し、しばしば奇妙な反応をみせた。いくつもの折衷的な政治形態が出現した。…これらの変異のひとつひとつが共産主義の移植に対する拒絶の現象であり、家族的土壌の性質に応じてその形態は変化したのである。ポーランドでは平等主機的家族、北朝鮮では権威主義家族、アフガニスタンでは内婚制共同体家族、カンボジアではアノミー家族の土壌に移植が行なわれたのである」75-6頁
ここの説明はかなり苦しいように思うなあ
「一般的にいって、自殺は、その家族システムの密度が高く、縦型で、両親と子供たちの相互依存を強いる国であればあるほどより頻繁に発生する。ここでは父と息子の関係の潜在的に病理的な性格についてのフロイトの直観が正しかったことを統計によって確認することができる。権威主義家族と外婚制共同体家族が核家族のモデルよりも明らかに不安発生要因をより多く孕んでいる。したがってより高い自己破壊の頻度を生み出している。
しかし家族関係が縦型であるということが自殺の唯一の要因ではない。夫と妻の関係の平等と安定の度合いは、同じくらい重要なもうひとつの要因である。…自殺の動機における男女の関係の重要さが、なぜ外婚制システムが内婚制システムよりもはっきりと地球規模で高い自殺率を生み出すのかを説明している。…
…最も高い自殺率はその家族システムが、<外婚制で、同時に強い縦型の要素を内包し、男女の平等な関係を有し、高い離婚率>をもつ国々で観察されるのである。…
言語学的な見せかけにもかかわらず、[自殺率が高い]キューバは共同体家族の国なのだ、という単純な仮説を立てる必要があるのである」87・89頁
若気の至りなのか、けっこう無茶な議論してるなあ
「主要な問題は、家族の理想が具現化されることで、2組または3組の婚姻カップル(核家族集団の場合は1組だけ)からなる目に見える具体的な家族集団の姿が実現されるためには、家族の価値だけではなく、さまざまな状況や物質的な条件が必要となるということなのである。だから稠密で複合的な家族は都市部では、常に農村部よりも少ないのである。しかしそれは決して家族の価値が弱体化していることをア・プリオリに意味しているのではない。都市部では、それらの価値が複数の成人の同居や共同の労働というかたちとは異なるやり方で表現されるのである。家族は単に可視的な組織であることをやめたということに過ぎない。農村の生活に結晶化している家族の価値は、都市では非物質的な心的構造の状態に移行するのである」89-90頁
反証不可能な議論に思えるが…
「非常に高い結婚年齢は、共同体家族では許容できない。規模の大きい複合家族が形成されるためには、世代の間隔が小さいか中位であることが前提となるため、晩婚は論理的にそれを不可能にするのである。共同体家族の理念的な形態は、両親の存命中に少なくともふたりの兄弟が結婚することであり、比較的速やかな世代の交代が前提となる。
その縦型の理念的形態からすれば、権威主義家族はひとりの息子もしくはひとりの娘の結婚だけを前提とするのである。したがって世代間の年齢の隔たりが大きくなっても許容されるのである。しかしその組織は、核家族のそれとは反対に、非常に低年齢での結婚も許容できる。その場合、若夫婦は成人である両親の管理と保護のもとに留まるのである。したがって権威主義家族は実際には、あらゆる結婚年齢と呼応するのである。
現存する資料をみれば、実際に権威主義家族が他の人類学モデルよりも幅広い年齢層に対応していることが分かる」142頁
「平等主義的な核家族構造の地域に位置する首都や大都市は、しばしば共産主義の実体ある定着の場となっている。1921年からのパリがその例であり、今日ではアテネがそれに当たる。しかし根無し草化の影響であるこのような政治的な地理分布は、過渡的なものである。…都市化のプロセスがいったん完了すると、住民の安定化に伴なって共産主義的な受け入れの構造が必要なくなるのである。パリの場合、この増加したあと減少するという動きが自殺と共産主義の動きにおいて平行したものとなっているのである。これらの動きは1世代の間隔をおいて反復されている。自殺は1945年から減少し、フランス共産党は1978年から崩れはじめたのだ」167-8頁
「フェミニズムとマチズム
兄弟間の非対称性原理は男と女の関係に影響を及ぼし、絶対核家族モデルと平等主義核家族モデルでは関係のタイプが異なることになる。
核家族はその2つの変種ともに、双系制システムに属しており、父系親族と母系親族に同等の価値を付与するものとなっている。…逆説的なことに、対称性に関心を持たない絶対核家族の方が、『平等主義』家族よりも両性間の平等をより深く実践しているのである。兄弟間の対称性原理は、男性の連帯をア・プリオリに前提とするものなのだ。それがすべての社会で自然なものとなっている両性間の不平等をさらに強化するのである。
絶対核家族は反対に、兄弟の平等や男性の連帯を意に介さないのである。それは夫婦の絆をもっとも徹底した——平等主義的な——帰結にまで発展させることで、アングロ・サクソン諸国の人類学システムを地球上に現存するもっとも女性主義的なシステムにしている。
絶対核家族は、内部に矛盾を孕まない安定した構造である。平等主義核家族は、<夫婦の連帯>の原理と<両性の不平等>の原理との間の矛盾を抱えている。この家族構造は、双系制の核家族システムのなかで男性の優位を肯定するラテン諸国のマチズムに至りつく」178-9頁
「縦型の外婚制で権威主義的共同体家族システムにおける権力は、個人の外部に存在するのではなく人々の頭のなかに存在するのである。ひとびとはその教育システムによって服従に慣らされている。そして外婚制メカニズムが社会全体との接触を強制している。外婚制システムのなかにはひとつの構造化作用が存在している…遠心的な力が個人を家族の外へ押し出し、社会全体が相互に作用することができるメカニズムを生み出しているのである。
アノミー家族は全く違うものを生み出すことになる。核家族型で一定した規則に拘束されず、教育のやり方が厳格ではないために、構成員たちに規律の原理を習慣づけることがない。したがって社会の裏面で機能するこの構造化作用を生み出すこともない。求心的な派生力に任されたまま外婚的な拘束が働かないために、各個人が出身集団に舞い戻ることになる」262頁
「父不在の世界?
アフリカにおける遺産の相続は、それが物であれ女性であれ、ヨーロッパやアジアの定住共同体において実行されている縦系列の相続の論理を取らない。相続は多くの場合、縦系列よりは横系列にそって行なわれる。遺産は父から息子へ受け継がれるよりもむしろ、兄から弟へと受け継がれるのである。この慣習は、アフリカで最も人口の集中した地域であるギニア湾の沿岸地方と内陸部の西アフリカにおいて殊に頻繁に行なわれている。
横系列にそった相続の仕組みは、イスラム法においても萌芽的なかたちで存在している。コーランによれば、兄弟たちも相続に預かることができるからである。それが西アフリカにおいては支配的な社会的慣習となっており、家族における重要な関係が父と息子の繋がりよりも、むしろ兄弟同士の関係であることを明確に示している。このような横系列の相続システムでは、親の権威に対する姿勢は曖昧で、その権威は弱い。多妻家族の構造は、それぞれ独立した複数の下部家族からなり——それぞれの妻が自分の子供たちとひとつの住居に住んでおり——親の権威を解体するかたちになっている。父親は遍在する存在だが、これは父親がどこにもいないことでもあるのだ。
この西アフリカの諸家族システムが奴隷売買によりアメリカに移植された」284頁
「家族は下部構造の役割を果たす。家族とは、定住した人間社会の表現である統計上の大衆の性格とイデオロギー・システムを決定するものである。しかし多様な形態を見ることができる家族それ自体は、いかなる必然性、論理、合理性によっても決定されてはいない。家族はひたすら多様なかたちで存在するのであり、数世紀あるいは数千年にわたって存続するのである。生物学的、社会的な再生産の単位である家族は、その構造を存続させるために歴史や生命からの意味づけを必要とはしないのである。家族は歴史を通して、同様な形態として再生産されるのである。子供たちが家族の面々を無意識のうちに模倣するだけで、人類学上のシステムが継続するには十分なのである。愛情と分裂の場である家族の繋がりを再生産することは、DNAーRNAの遺伝子サイクルのように、意識的な操作も必要としない作業なのである。それは盲目的で、非理性的なメカニズムてあり、まさに無意識的で目に見えないものであるために強力であり、揺るぎないメカニズムなのである。しかもこのメカニズムは、それを取り巻く経済環境、エコロジー状況から全く独立しているのである。家族システムのほとんどの類型が、地形、気候、地質、経済の全く異なるいくつもの地域に同時に存在している」290-1頁
「いかなる規則、いかなる論理とも関係なく地球上に散らばっているように見える諸家族構造の配置が示す地理的な一貫性の欠如は、それ自体ひとつの重要な結論なのである。この一貫性の欠如は、社会科学によって疑わしいものとして捉えられているが、遺伝学によって次第に認められてきたあるひとつの概念を想起させるものである。つまり偶然という概念を。家族システムとは、情緒的なものであり、理性の産物ではない。それはいくつもの小さな共同体のなかでなされた個人的な選択を経て何世紀も前に偶然に生まれ、次いで部族や民族の人口の増加とともに広がり、単純な慣性力によって維持されたものである。誕生した家族システムのすべてが生き延びるわけではなく、その多くが消滅したのである。…確定できない過去からやって来たこれらの人類学形態の集合は、20世紀に入って近代という理想にいたずらをしたのである。この人類学形態が、近代という理想を捉え、変形させ、各地域の潜在的な価値体系にそって畳み込んだのである」292頁
「遺伝学」や「選択」を吉川浩満的に誤解していると思ふ。また、種は「慣性力」により「維持」されるものではないし😅
「件の議論[アジア的生産様式論]には背後にある家族構造の分析が欠落していたためにこの権力の2つの類型を区別することができなかったのである。アジア的生産様式の概念は実際には、中国やロシアのように外婚制共同体家族構造に依拠しようが、エジプトやカンボジアのようにアノミー型の人類学モデルに依拠しようが、専制的な様相を呈したすべての権力を一緒くたにしている」263頁