ある言葉をいつどのように知ったか、という記憶がわりとたくさんあり、たとえば「りりしい」は子供向けに再話された『ガリバー旅行記』の絵本で、「焚書」は『若草物語』で、「弔い合戦」は『モスラ』の映画の読本だった。

保育園で「ママ」という言葉を初めて知った日の記憶があり(我が家では最初から「お母さん」と呼んでいた)、同じ時に容姿に対するあの二文字の罵倒語二種も初めて聞いた。どうもよろしくない文脈であったと思われる。
いま思うとそれ以前に「ママ」という語を一度も聞いたことがなかったとは考えにくいが、「今日は新しくその言葉を知ったぞ」と感じていた記憶があり、とにかくその日その語を初めて認識し、意味を習得したのであろう。
子育てをしている人の、「子供が初めて⚪︎⚪︎と喋った」といったSNSへの投稿を興味深く見ていたが、考えてみたらあの頃は内側からそれを見ていたのだった。親より自分の方が興味を持っていたと思う。

あと、保育園で他の子が「全然」を肯定文に用いていたのに対して「『全然』は『〜ない』っていう場合にしか使えない」と主張してその場にいる全員から「そんなことはない」と否定されて負けたり、姉が「AしたりBする」という言い方をしたのに対して「『たり』は『AしたりBしたりする』という使い方をしなくてはならない」と主張して「そんなことはない」と否定されて負けたりしていたのも興味深い。
これ、誰かに「文法的にこうだ」と教えられたわけではなく、それまで読んだり聞いたりしてきた言葉の集積から自然と法則性を導き出し、それに反する用例を聞いた時に初めて「それは違うはずだ、なぜなら……」という形で法則を意識化し言語化したのよね。
だから、みんなに「そんなことはない」と言われた時に根拠が出せずに負けたのだけど。
(「全然」は本来は肯定文にも使用されていたことは知っているので、その正しさをいま云々する気はなく、ただ現代の用法から法則性を無意識に導き出していたのが面白いという話です)

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保育園のおもちゃに、木でできた球に赤や黄などのペンキを塗ったものがあったのだけど、その中に木の地肌はそのままでニスだけ塗ったものがあり、これは何色と呼んだらいいのだろう、木の色だから「木色」? いやそれでは「黄色」とかぶってしまうし、などと思っていたら他の子が何の気なしに「肌色」と呼んだので、肌色! なるほどこれは肌色と呼べばいいのか! といたく感心したこととか。
肌色という言葉は当然知っていたけれど、この言葉はこういう場合に使うのか、と新しい用例を知ることができて感動しました。
(いま「肌色」という言葉が使われなくなっていることに対して惜しむ気持ちは特にないです)

小学校低学年くらいの時、父と姉と近所を歩いていて、空き地に「⚪︎⚪︎不動産」という看板がかかっているのを見て「『不動産』って何?」と父に聞いたところ、「『不動』は動かないこと、『産』は財産のこと。反対の言葉として、『動産』、動く財産があって、持ち運べるお金とか宝石とかのこと。じゃあ動かせない財産って何だ?」とクイズを出され、見当もつかないので冗談のつもりで「おうち!」と答えたらまさかの正解で父も私もびっくりしたこと。当時、「おうち」や地面は大きくて動かせないものの代表であって、それを売り買いするなんて想像もできなかった。

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