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この世のつらみがすべてハラミやサラミになる呪文

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どうやら書誌情報を管理してる団体みたいなところに登録されたようで、インテルネッツの海に放たれておりました(なんか恥ずかしいからマストドーンでのみ報告)。ただいま絶賛ゲラ修正作業中。予定通り進めば4月下旬、村上春樹の新作が発売されて盛り上がり、少し盛り下がった頃に刊行です。当然のことながらlighthouseでも予約は取りますが、個人的には(無理せず通える範囲に本屋がある場合は)家の近くの本屋で注文して、本屋自身にこの本の存在を認知させてもらいたい気持ちが強いです。んー?なんだなんだー?なんか本屋の本だぞー?読んでみるかー?と本屋自身がなること(そして本屋の意識が変わること)、それがこの本の意図なので。まあ、そんなことよりゲラ修正を終わらせろ、という話なのですが。あと確定申告と、各種文字起こし、『灯台より』関連の原稿赤入れなどなど。せきぐちはめのまえがまっくらになった。

hanmoto.com/bd/isbn/9784272331

オースターは『最後の物たちの国で』という、オースターっぽくない小説しか読んだことがない......けどおもしろいのよね、これ。白水社、重版しないかな。

hakusuisha.co.jp/book/b205577.

興味がない、または単純な認識ミスであっても、マイノリティに関する事柄であれば、それは当事者にとっては致命的な加害になりうる。それを防ぐための注意喚起は、十分すぎるほどやってもまだ足りない。なぜなら我々は興味関心のない物事はテキトーに認識するから。

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大谷翔平の所属球団を間違えることは悪意からではないし、私の名前を読み間違えるのも知性のなさからではない。単に興味がないだけ、あるいは単純な認識ミスである。これらのミスはたいしたことではないが、マイノリティに関する誤った知識を「事実として認識する」ことになり、それをそのまま他者のいる場=社会において拡散した場合、それはその者に悪意がなくとも加害になる。

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知性があればそれをヘイト本であると認識できるはずだ。読者の知性を信用しろ。言論のアリーナを否定する者は読者の知性を見くびっている。というような意見が寄せられることがあるが、そもそも「それがヘイト本であると認識できる」だけの知識を得るための余裕がない者も多くいる。そしてそんな状況を作っているのは社会=政治であり、政治そのものが我々の生活を豊かにする役割を放棄して、かつヘイト言説を撒き散らしている以上、「我々読者には知性がある」という認識は、やはり強者の認識である。

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言論のアリーナにしていれば、自ずと正しい意見=差別ではない言説が選び取られるはずだ。という認識は、あまりにも我々の「認識能力」を過信している。これは「知性の有無」の問題ではなく、認識能力の問題であり、認識能力は「興味関心のないもの」に対しては無意識のうちに低下する。言論のアリーナを構築するのならば、それを前提としなければならない。
また、我々は想像以上に見ていないし読んでもいない。お店の外に「CLOSE」「営業時間外」という看板を出していても入店してくる者はたくさんいるし、「関口竜平(せきぐちりょうへい)」とふりがなを振っても「りゅうへい」と読む者がたくさんいる。我々人間の認識能力を過信してはならない。これはその者の知性を見くびっているわけではない。

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我々はみな、想像以上に「見ていない」し「読んでいない」し、知らないことのほうが圧倒的に多い。大谷翔平が野球選手であることを知らない者もいるし、それは知っていても日本での所属球団が千葉ロッテマリーンズであったことを知らない者は多い。大谷翔平でさえこのレベルなのだから、たとえばトランスジェンダーについて存在(概念)自体知らない者だってたくさんいる。むしろ多数派であろう。なお、大谷翔平の日本での所属球団は千葉ロッテマリーンズではなく北海道日本ハムファイターズだが、私がいまここで誤りを正さなければ「マリーンズである」と認識したままの者が生じたはずである。我々は、興味関心のない物事について得た情報はテキトーに認識するし、自主的に情報をアップデートすることもない。
ゆえに、マリーンズのユニフォームを着た大谷が表紙になっている雑誌とファイターズのユニを着たそれが隣に並んでいても、どちらを「正しい大谷翔平」と認識するかはその者次第であり、マリーンズの大谷を正しいとする者が現れることを防ぐことはできない。

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現状、チェーン書店の現場で展開されている「アリーナ」は、

・福嶋のアリーナ論を知っているがゆえにそれを目指してはいるが、自らが「気にせずに済む者」であることに無自覚なまま作られる、実際には「悪意のあるヘイトスピーチという無敵の言論vs問答無用で引きずりあげられた丸腰のマイノリティ当事者」というアリーナ。
・福嶋のアリーナ論も知らないし、その本がヘイト本であることも気がつけない(ほどに各種余裕のない生活を送っている)書店員によって作られる、単なる無造作なアリーナ(当然そこでもマイノリティが丸腰のまま引きずりあげられている)。

であり、いずれにせよ福嶋が理想としているであろうアリーナと、そこから導き出される(ことを期待している)結果は得られていない。

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言論のアリーナ=民主主義の場を成立させるには、その前提条件として「その場に誰もがいられる」環境=セーファースペースを作る必要がある(実際にはそんな環境は成立不可能ではあるが、だからこそそれを目指さなければならない)。言論空間に参加することができない者がいる以上、そこは言論のアリーナではない。
しかし、福嶋の言論のアリーナ論を知っている者の多くは、高価な人文書を買えたりそれを読んで理解ができるだけの能力がある者に限られている。いわば我々は知的特権を享受できる強者であり、そんな強者からは「認識できていない」世界に生きている者、生きることを強いられている者がいることを、我々は認識しなくてはならない。我々が「十分に安全だ」と思っているアリーナは、かれらにとっては決して安全ではない(が、「気にせずに済む者」である我々はそれに気がつけない)。

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反差別の実践を「気にせずに済む者」の知的遊戯にしてはならない。言論のアリーナ論を肯定的に捉える者は、まず自らが「気にせずに済む者」であることを認識する必要がある。
言論のアリーナで「言論」どうしを闘わせているつもりかもしれないが、注釈をつけたり安全対策を施すなどの、シーソーの傾きをならす無数のパラメータ調整をしないままヘイトスピーチを闘技場にあげてしまうことはあってはならない。なぜならヘイトスピーチは、マイノリティ当事者を問答無用で闘技場に引きずり上げるため、言論という概念どうしを闘わせているつもりでも、実際には「悪意の塊としての言論vs丸腰の当事者」という状況を作り出すことになる。
その様子を観客席という安全地帯から観ていることを「反差別の実践」と呼ぶことはできない。それは反差別の「実践」ではなく「論評」であり、冷静に状況を分析する自分という知的遊戯に酔いしれているだけである。

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そもそも「言論のアリーナ論」というものの存在を知っているチェーン書店員がどれだけいるのか。低賃金で働かされている者が人文書(基本的に高価)を読む余裕があるのか。さらにそもそも、その本に書かれていることが差別言説であることに気がつけるチェーン書店員がどれだけいるのか。チェーン書店の現場を回しているのはパートやアルバイトの非正規労働者である場合が多い。当然、かれらの「知」が足りないのをかれらの努力不足のせい(だけ)にしてはならない。そのうえで、書店現場の実際は、「それが腐ったキャベツであることを見抜けない店員」によって「無造作に置かれている」というものであり、それは決して福嶋の考えるアリーナではないはず。つまり、「ヘイト本を認識したうえで闘わせる」という福嶋のアリーナ論を実践できている書店など、極少数である。

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とりあえずMastodonのみで投稿するけど、後日どこかでまとめたものをここ以外でも公開すると思います。もちろんこのMastodonでの投稿をほかのSNSとかに転載するのもOKです。

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メモ書き的に脈絡なく書くこともあるので、スレッドにはするけど話が飛び飛びになることもあると思います。とりあえずいま思い浮かんだこと。

八百屋で、お客さんが新鮮なキャベツを見分けることができるようになるためにあえて腐ったキャベツを隣に置く場合、
・このキャベツが腐っているということを明示する
・悪臭によって気分が悪くなる者が出るのを防ぐためにクリアケースに入れるなどの対策を施す
この2点が最低限満たされているのなら、それは言論のアリーナとして機能する(かもしれない)。
しかし実際にはキャベツの状態は明示されず、防臭対策もされずに置かれている。誰も買う者がいなかったとしても、悪臭で体調不良になる者がいればそれは安全対策の不備である(それが腐っていることを認識しているのならなおさら)。

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5/18に向けて「言論のアリーナ論」が不十分である理由を不定期に書き連ねていきます。当日どういう話をするかという自分のための整理と、当日会場に来れない&音声アーカイブを買う余裕のない方にも私がなにを話した(いと思った)のかがわかるようにするためです。そもそも、言論のアリーナ論について肯定的に語る言説自体が、マイノリティにとっては「刃」である場合もありますらね。この対談イベントを聴きに来れるということ自体が、「気にせずに済む者」である証なのだということ。

R sekiguchi さんがブースト

そして、「愚行/加害 をしたとしても、その人の人生を終わらせない社会」であってほしいと同時に、その傷つけられた当事者が「許さないことを許される」社会でもあってほしいなと思う。その社会としての在り方と、当事者の個人個人の血が止まらない経験との間で動き働くことが、「その他大勢」の役目でもあると思ってる。

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R sekiguchi さんがブースト

きちんとした専門的な知識を備えて医療に当たってくれるひとがそもそも少ない(診療拒否とかカジュアルに受ける)集団なので、親とか教師とか普段診てもらっている医師とかが誤情報に惑わされるリスクは多くのトンデモ医療系ジャンルに比べてたぶんもともと高くて、そんな状況でああいう本が好意的な(ないし少なくとも否定的でない)仕方で紹介されることが、トランスユースにとってどういう意味を持ちうるか、みたいな話をすべきだろうに、なぜか医療や健康ではなく(純粋に)思想や言論の話にされてしまう。

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R sekiguchi さんがブースト

シュライアー本は、もちろんヘイト扇動の本と言えるだろうけど、根本的にはトンデモ医療本であり、トンデモ医療を通じてトランスの生を困難にする構図になっているあたりが、あんまり広く共有されていない気がする。(私もばかばかしくて、反ワクチン本をわざわざ読まないというのと同じ理由でちゃんと読んではいないのだけれど、レビュー等は読んでいる)

トランスは医療のサポートを必要とするひとが多く、かつその必要となる医療についての情報が行き渡っていなくていまも十分なサポートが得られていないというマイノリティ集団だから、見るからにありありと扇動的な調子の本でなくても、本当は必要な医療サポートを淡々と間違った根拠のもとで否定的に語るだけで、十分に不利益をもたらし、存在を否定することができる。

「私はトランス差別に反対しますが、読んでみてもこれはヘイト本だとは思いませんでした」みたいなひとは、たぶんシュライアー本のトンデモ医療的側面を(そして、トランスの生への医療の関わりを)理解できていないのではないかと思います。

言論のアリーナもセーファースペースもどちらもユートピア的なものなので、達成可能な目標ではない。しかしだからこそ達成を目指してベターを積み重ねなければならないのだけど、前者を掲げてそれで満足してしまってもエリート感が出てしまうし、なにもしなくてもいいので、楽なほうに流れていく。

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言論の自由を「強者のみが参加できる場」にしてしまっていることに気がついていない者らが考える、言論のアリーナ。これが出版業界の(なかの知的エリートの)スタンダードです。

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書店を民主主義の場=言論のアリーナとして成立させるのならば、その前提条件としてセーファースペース=誰もが参加できる場所にしなくてはならないのだけど、その意識を持ってアリーナを作ろうとしている者などほぼいないのが出版業界の現状でしょう。言論のアリーナ=言論の自由とセーファースペースは対になる概念ではない。後者を成立させ(ようとし)なければ前者は成立しえない。

From: @gucchi_penguin
fedibird.com/@gucchi_penguin/1 [参照]

BT 言論のアリーナ論が悪用される典型例ですね。

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