「この亜大陸における言語、儀式、慣習の驚くべき多様性にもかかわらず、ひとつの人類学的な形式がインド全体に共通している。それは核となる家族構造が共同体家族であり、男性集団を外婚制が貫いていることである。2つのヴァリアントがインドの空間を二分しながら、この外婚制共同体家族という一貫した形式を補っているのである。
北部では、外婚制は父系、母系の両方に及び、結婚の禁止は母方の家族にも適用される。
南部では、外婚制は部分的であり、母方の親族とのイトコ婚を奨励するシステムと組み合わされている。この非対称的な内婚制のモデルが断ち切られると、インド南部の家族は単純な外婚制共同体家族に変容することになる。…このようなシステムの解体が共産主義の強力な浸透を極めて順調に推し進めたのだ」245-6頁
「村落のレベルで行なわれたいくつかの調査によれば、王侯たちの内婚モデルに類似した現象が常に大衆層のなかにも確認できることが示されている。エルマンやランケのようなもっとも信頼できるエジプト学者は、農民と職人からなる古代エジプトでは兄弟と姉妹の結婚はありふれたことであった、と考えている。カンボジアの或る農村で実施された研究では、王侯の家族で許されている異父(母)兄弟と異父(母)姉妹の結婚は、より慎ましい階層である底辺の水稲耕作者たちにも同じく受け入れられていたことが示されている。インカの問題も比較的新しい民族学的な資料に当たれば解決することができる。『南米インディオのハンドブック』によると、現在のアイマラ族(インカ帝国の民族学的構成要素のひとつ)では性の違う双子が頻繁にもしくは一貫して結婚している。この<教科書>の論文の著者は、住民数千人の地区にそのような夫婦を3組確認している」257頁
「縦型の外婚制で権威主義的共同体家族システムにおける権力は、個人の外部に存在するのではなく人々の頭のなかに存在するのである。ひとびとはその教育システムによって服従に慣らされている。そして外婚制メカニズムが社会全体との接触を強制している。外婚制システムのなかにはひとつの構造化作用が存在している…遠心的な力が個人を家族の外へ押し出し、社会全体が相互に作用することができるメカニズムを生み出しているのである。
アノミー家族は全く違うものを生み出すことになる。核家族型で一定した規則に拘束されず、教育のやり方が厳格ではないために、構成員たちに規律の原理を習慣づけることがない。したがって社会の裏面で機能するこの構造化作用を生み出すこともない。求心的な派生力に任されたまま外婚的な拘束が働かないために、各個人が出身集団に舞い戻ることになる」262頁
「父不在の世界?
アフリカにおける遺産の相続は、それが物であれ女性であれ、ヨーロッパやアジアの定住共同体において実行されている縦系列の相続の論理を取らない。相続は多くの場合、縦系列よりは横系列にそって行なわれる。遺産は父から息子へ受け継がれるよりもむしろ、兄から弟へと受け継がれるのである。この慣習は、アフリカで最も人口の集中した地域であるギニア湾の沿岸地方と内陸部の西アフリカにおいて殊に頻繁に行なわれている。
横系列にそった相続の仕組みは、イスラム法においても萌芽的なかたちで存在している。コーランによれば、兄弟たちも相続に預かることができるからである。それが西アフリカにおいては支配的な社会的慣習となっており、家族における重要な関係が父と息子の繋がりよりも、むしろ兄弟同士の関係であることを明確に示している。このような横系列の相続システムでは、親の権威に対する姿勢は曖昧で、その権威は弱い。多妻家族の構造は、それぞれ独立した複数の下部家族からなり——それぞれの妻が自分の子供たちとひとつの住居に住んでおり——親の権威を解体するかたちになっている。父親は遍在する存在だが、これは父親がどこにもいないことでもあるのだ。
この西アフリカの諸家族システムが奴隷売買によりアメリカに移植された」284頁
「家族は下部構造の役割を果たす。家族とは、定住した人間社会の表現である統計上の大衆の性格とイデオロギー・システムを決定するものである。しかし多様な形態を見ることができる家族それ自体は、いかなる必然性、論理、合理性によっても決定されてはいない。家族はひたすら多様なかたちで存在するのであり、数世紀あるいは数千年にわたって存続するのである。生物学的、社会的な再生産の単位である家族は、その構造を存続させるために歴史や生命からの意味づけを必要とはしないのである。家族は歴史を通して、同様な形態として再生産されるのである。子供たちが家族の面々を無意識のうちに模倣するだけで、人類学上のシステムが継続するには十分なのである。愛情と分裂の場である家族の繋がりを再生産することは、DNAーRNAの遺伝子サイクルのように、意識的な操作も必要としない作業なのである。それは盲目的で、非理性的なメカニズムてあり、まさに無意識的で目に見えないものであるために強力であり、揺るぎないメカニズムなのである。しかもこのメカニズムは、それを取り巻く経済環境、エコロジー状況から全く独立しているのである。家族システムのほとんどの類型が、地形、気候、地質、経済の全く異なるいくつもの地域に同時に存在している」290-1頁
「いかなる規則、いかなる論理とも関係なく地球上に散らばっているように見える諸家族構造の配置が示す地理的な一貫性の欠如は、それ自体ひとつの重要な結論なのである。この一貫性の欠如は、社会科学によって疑わしいものとして捉えられているが、遺伝学によって次第に認められてきたあるひとつの概念を想起させるものである。つまり偶然という概念を。家族システムとは、情緒的なものであり、理性の産物ではない。それはいくつもの小さな共同体のなかでなされた個人的な選択を経て何世紀も前に偶然に生まれ、次いで部族や民族の人口の増加とともに広がり、単純な慣性力によって維持されたものである。誕生した家族システムのすべてが生き延びるわけではなく、その多くが消滅したのである。…確定できない過去からやって来たこれらの人類学形態の集合は、20世紀に入って近代という理想にいたずらをしたのである。この人類学形態が、近代という理想を捉え、変形させ、各地域の潜在的な価値体系にそって畳み込んだのである」292頁
「遺伝学」や「選択」を吉川浩満的に誤解していると思ふ。また、種は「慣性力」により「維持」されるものではないし😅
「構造的な一致と伝播
家族構造とイデオロギー・システムとの一致は絶対的であり、人類学的な分布図と政治学的な分布図が性格に重なることが示しているように必然的な関係であった。だが家族構造と文化的な成長の関係は、実際にはそれよりはるかに緊密性が少ない。
イデオロギーは夢や感情の領域のものである。平等と不平等、自由と専制といった理想は、頑強であり理屈で説明できるものではなく、地球上にはそれらの配置分布にしたがって厳格に分断され、互いに相いれない空間編成が創りだされているのである。それぞれの人類学的システムは、隣接するシステムとの交流を最小限に抑えながら自らの政治的価値を生きているのである。まさに家族構造と支配的なイデオロギー構造とが、実際上見事に一致する所以である」324頁→
「逆に文化的成長は、人間理性の普遍性に与るものである。識字化は、ある種の人類学的システムによって促進されるとはいえ、人類全体に共通する潜在力の現われであることに変わりはない。政治的な価値がかなり大幅な閉鎖性を互いに見せているのに反して、文化的な領域での交流は、諸文明の間で実に容易に進行するのである。このためにシステム同士が隣接している場合、文化伝播の現象が起こるのである。それも相互作用をおこすシステムの人類学的タイプとは関係なく伝播が発生するのである。
地理的には隣接しながら、家族システムが異なる2つの地域があるとしよう。そこではイデオロギー的には異なる夢が生きられている。だが文化的な成長は、固有の素質と異なる傾向に従うことになる。しかしそのなかで文化的に恵まれている地域が、文化的な成長において相対的に恵まれていない地域に不可避の影響を与えることになり、隣接しているということだけで大衆の識字化の伝播が促されるのである」324-5頁
「世界でヨーロッパ以外に権威主義家族構造が伝統的なシステムとして見られるのは、3つの大きな地域に限られているようだ。日本、韓国・朝鮮、そしてイスラエルである。…権威主義家族は<縦型>で<不平等的>であると分類できる。…
ところで兄弟間の不平等は、ほとんど常にその補足物として比較的高い女性の地位を生み出すことになる。このタイプは双系制で、両性の関係が比較的平等である。なぜなら女性による<相続>が実際にしっかりと受け入れられているからだ。…
血族家系の理想に不可欠な兄弟間の不平等、男性間の不平等は、実は男性の優位性を前提とする価値体系に呼応しているわけではない。権威主義家族は長男とその弟たち、つまり相続者と非相続者を生み出す。男性に一義的に価値を見出すのではなく、男性たちを格差によって区別するのである。
…日本の家族は両親の双系制の特徴を非常にはっきりと示している。ユダヤ文化はユダヤ性の母系による継承を理想としており、しかも息子がいない場合は娘による財産の相続をしっかりと認めている。バスク文化は、他の権威主義家族にもまして財産の母系による相続を伝統としている。これほど意識的ではないが、ゲルマンの諸家族構造も実際上はそれほど違わない」349-50頁
「人間による生成という『歴史』概念の起源そのものに、権威主義家族構造のなかでももっとも堅固で永続性のある構造をもつだろうユダヤ民族の権威主義家族構造が関与していたことは驚嘆に価する。…
聖書の権威主義家族は、世代から世代へと受け継がれる相続と血縁の持続を描いている。それは父・息子・孫と続く相続を通して体現される時間の線的な概念を造り出し、繰り返し産出するのである。数学的な意味で連続し、方向性をもっているこの最初の時間概念は、したがって家族と血縁の巨大な系譜の形態を可能とするものである。
家族の歴史として具現化されたこのような歴史の動きのイメージは、16世紀に自らの似姿をこのような聖書に見つけ、それを我が物としたヨーロッパ北部のプロテスタンティズムによって再発見された。プロテスタンティズムへと改宗した大部分の国々は、権威主義家族の伝統をもち、その一般形態はユダヤ的な家族形態に非常に似ているのである。大きな違いは、ヨーロッパ北部が、ユダヤ的伝統では大いに許されているイトコ同士の結婚に対して、はるかに敵対的であるということである」365頁
「潜在的な母系制
世代間の関係が権威主義的で兄弟の関係が平等主義的であるロシア家族システムは、共同体家族である同類の中国、インド北部、トスカーナ地方のそれのように厳格な反女性主義である。男性同士の平等と連帯には、一般的に女性の地位が低下するという傾向がみられる。権威主義的で反女性主義的であるこの家族モデルは、成長に適したいくつかの人類学的要素のうちのひとつしか持たないことになる。つまり成長プロセスの長期化に適した親と子供の権威主義的な関係である。
ところが兄弟間の平等と両性間の不平等が組み合わさった理論的システムに比べて、母系制の顕著な偏向を示しているロシア家族にはこのような傾向は必ずしも見当たらない。このシステムは、父系制・縦型システムとしては、女性の地位が異常に高いのである」378頁
「国家による自立的な作用は存在しないわけではないが、多くの場合、幻想である。大幅に始まっていた文化的なテイクオフの文脈のなかで国家による作用が行なわれたとき——1917年から1969年にかけてのロシアのケースがそうである——、それは抗しがたいものとして目に映るが、じつはそれは市民社会の固有の活性力を捉え、ある特定の方向へ導くことに甘んじただけなのである。反対に、文化的な停滞の状況下では、国家による作用は不明瞭で様々な形の失敗に終わり、中央政府によって行なわれた投資的な努力は溶解され消滅していくのである。そこでは市民社会は反応せず、先進世界から輸入された機械に手を付けようとも、導入しようともしない。1960ー1980年の第三世界の典型的な光景である」502頁