「お母さん」と言う呼びかけについては、まだ私がせいぜい30代くらいの頃、別に子どもを連れているわけでもないのに「お母さん、お母さん」と呼びかけてくる人(大抵は警官)に時たま会うことがあって、あれは本当に不愉快だったよな。

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心の中で「私はあなたのお母さんではありません」と言っていた。

年配の警官にその手の人って多いですよね。免許の書き換えとかの時にいるタイプの人。

鶴瓶の番組で、年配女性に誰彼構わず「お母さん」と呼びかけるのも、毎回、「お前なぁ」と思う。

あと、もっと若い…ティーンエイジャーの頃。

実家は雑貨屋で、繁華街の中にあったから、近所の水商売の店のお客さんが多かったんだけど(大抵は顔見知りみたいな感じで)、そう言うお店の、私から見たらオバサンに見えるような人たちに「お姉さん、お姉さん」って呼ばれるのも辛かった。「私、あなたのお姉さんじゃないです」と思ってた。笑

もちろん分かるんですけどね。彼女らは若い女性に対しては一律お姉さんと呼びかけるんだと言うことは。だけど、一番感受性の強い時期なので、なんと言うか気持ちが悪い気がすると言うか。

今なら割とお母さんと呼ばれようが、お姉さんと呼ばれようが、お嬢さんと呼ばれようが、多分、あんまり気にしなくなっちゃった気がするけど。加齢のせいで感受性が鈍麻してるので。

40代くらいの時かな。すごいいやらしい場所に隠れて(一時停止の場所がとてもわかりづらいとか、そう言うやつ)ネズミ取りしてる警官にまんまと捕まって切符切られたことがあったけど、そのときは、マイクで「そこのお嬢さん」と言われて停車を指示されたんだけど、むしろ「あら?私のこと?🤭」と、ちょっと喜んだくらいだった。あの頃くらいから、感受性はかなり鈍り始めてたかも。

…いや、でも年配のオジサン警官にお母さんと呼ばれるのはやっぱり嫌かな。


その問題については少し考えたり調べたことがあるのですが、どうも、どちらかと言うと、関西で、その傾向が強いようです。だから鶴瓶の番組でも。

また、私は自分の子供を連れているときでさえ、「お母さんは~」と話しかけられて、その主語がだれのことを指しているのかわからなくて戸惑ったことがあります。

主語が誰なのか分からない…まさにそんな感じですよね。「お母さんって呼ぶな、キモいな。あたしゃアンタを産んだ覚えはない!」っていう感じ。笑

関西の方が多いというのも、分かるような気がする。


関西弁について調べている関西出身の先生がいて、関西の人の方が、「お母さん」と呼ばれることにも抵抗がないようです。

若い娘なら「お嬢さん」、少し年配なら「奥さん」という呼びかけもありますけど、欧米語と同じで、女性を未婚既婚で分けることになります。男性については、何でしょう?


かなり高齢の女性に対しても、「おばあさん」と呼びかけるのは憚られるので、「お母さん」と呼びかけているように思います。

「おばあさん」もだれかの「お母さん」である確率が高いでしょうし。特に鶴瓶の番組は、『家族に乾杯』ですからね。「家族」であるからには、その成員は、ある年齢以上の女性なら「母」、男性なら「父」であることを期待されるので、女は「お母さん」、男は「お父さん」に収まるわけです。

一定年齢以上の、成人した市井の何でもない普通の生活者に対して「お父さん」「お母さん」と呼びかけるのは、ある種の褒め言葉というか、相手へのリスペクトを込めた称号みたいなニュアンスがあるのかもしれないですね。

特別な役職についているわけでも、大先生でもなくても、きっと誰でも皆んな「お父さん」や「お母さん」として頑張ってますよね?みたいな…。


なるほど、そういう好意的な解釈もあり得ますね。
ただ、何らかの理由で「父」にも「母」にもなれなかった/ならなかった人もいるわけですが、昔はそういう人はあるまじき人だったんでしょうね。子孫を残さないのは親不孝だったわけですから。

例えば鶴瓶がその言葉を使うとき(または私に呼びかけた警官も)、そこには悪意はなくて、むしろ親しみとリスペクトのこもった言葉なんだろうとは思うんですよね。ただ、現代的な視点で見ると、あまりにもデリカシーに欠けている訳だけど。笑

あと、こんなことを書くと顰蹙を買うかもしれませんが、私の感覚だと「父や母に“なれなかった”」人(私もそこに含まれていますが)に、絶対に使っちゃいけないか?といえば、

実は割と微妙で、「なれなかった」のは、その人が「なりたかった」のなら、その人にとっては悲しい出来事ではあるとは思うのですが、それはその人の価値を毀損することではないので、

本来は侮辱とかではないと思うんです。もちろんそのような価値を内面化している人にとっては(他者に対して使う場合も、他者から言われる場合も)侮辱になるかも知れませんが。

だから「相手にとって悲しい話を避ける」ことと、「相手を貶めることだから避ける」ことは区別すべきで、厳密に言えば、「子どもがいない」という事実に触れること自体は、別に相手に向けた侮辱には当たらないと私は思っています。

もしそれを言われて侮辱と感じる人がいたとしたら、それはその人自身が「子どもがいない自分は子どものいる人よりも劣った存在だ」という価値観を内面化してしまっているからで、そこを区別することって、個人の心理療法をする際には結構重要なことで。

その人が「私は他人より劣った、価値のない存在だ」と自分を見下しているとしたら、そのことこそが取り上げられるべき問題なので。


もちろん、話題を避ける必要はないけれど、「父母」ではない人にまで、なぜ「お父さん、お母さん」と呼びかけるかと言うと、昔は「お父さん」である男性、「お母さん」である女性が圧倒的に多かったからだろうと思ったからです。他に、いい呼びかけが無かったんでしょうね。今もありませんね。

でも、もちろん、だから気にせずに言って良いっていう単純なことを言っているわけではないけれど。

やはり「デリカシー」の問題はあるので。笑

いくら理屈で「そんなことは恥ずかしがる方が間違っている」とか言ったって、人の心は、そんなに簡単に理屈で割り切れるものではないので。

あと、今、これ書きながら思ったんですけど、私が警官に「お母さん、お母さん」と言われるのが不快だったのは、「自分に子どもがいない問題」もあったかも知れませんが、それ以上に、「馴れ馴れしいんだよ💢」みたいな「気持ち悪さ」だった気がします。

もしかすると、仰るような関東と関西の文化の違いや、都会と田舎の文化の違いなどの、カルチャーの違いに根ざすことが大きかったのかも知れないとも思う。

私はうちの店を手伝っている時に、近所の飲食店の年配の女性に「お姉さん」と呼びかけられる時にも、多分かなりニュアンスの近い不快感を体験してますし。何か境界を超えて侵入して来られるような、肌をいきなり触られるような気持ち悪さです。

それは私という人間が「シゾイドパーソナリティ」的な傾向が強くて、一見愛想は良いんだけど、実は割と他人を遠ざける…自分と他者の間に距離を置こうとするタイプであることも関係しているかも知れません。


もちろん、そうです。彼らとしては親しみが込められています。ただ、受け取る側が「馴れ馴れしい」と感じることもありますよね。その辺の距離感は人によって違うので難しいですが、あのテレビ番組自体が、そういう親しみと馴れ馴れしさで作られているので、それを受け入れられる人しか楽しめないと思っています。

男性の場合、お兄ちゃんとか、オッチャンとか、お父さんとかもあるでしょうけど、

私が植木屋の現場で働いていたときは、男性の職人さんはちゃんと1人ずつ苗字で〇〇さんと呼ばれてたのに、女性は「オバチャン」と一括りで、「オバチャンが何人」みたいに数で言われてたの、酷いよなぁといつも思ってましたね。

よっぽど、男性の職人さんをオジチャンって呼んでやりたい衝動に駆られてましたけど、もいあそこで職人さんをオジチャンと呼んだら、張り倒されていたと思います。

mintさんの最初のリプ見て改めて思ったのは、関西の方が、オカンとかヨメとか、女に甘える(男から見た役割で呼ぶ)文化は確かに根強い気がするよなぁということでした。

多分、男が女を自分のために存在しているように感じている、幼稚な自分中心の世界観みたいなものは関西の方がより強い気がするし(女の側もそれを受け入れて、“ヤンチャな”男を可愛がる…みたいな。大阪の“オバチャン文化”も、もしかするとそれと関係ある?)、そのことと、あの根強い維新人気とは関係ありそうだなぁと、何となくですが、思いました。


私は、あの、自分の妻のことを「嫁」と言う文化が好きじゃないんですよね。でも、関西の文化なのだと言われればしかたないのかもしれませんけれど。かつて、こういうトゥートをしました。

fedibird.com/@minzimt/11333791 [参照]

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