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人の営みの痕跡を描き、風景を供養する。大東忍インタビュー bijutsutecho.com/magazine/inte

VOCA展、今年の大賞は愛知県立芸大出身の大東忍(1993〜)女史だそうで。大賞に限らず、各賞を受賞するとなぜか大成しないことで知られる(知られる?)VOCA展ですが、この方の場合はどうなんでしょうね…… :blobcatnervous2:

まぁ今年は近年のVOCA展選出作家が意外と出展作家に名を連ねている様子な「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」展がいい感じにバーニングしてるので、それが厄落としになればいいんですが :ablobcatgooglymlem: ←←

展覧会「1950〜60年代の日本画」平塚市美術館で、“日本画の革新”工藤甲人や加山又造などを紹介 fashion-press.net/news/116207

2024.4.6〜6.2。ここ数年、(明治〜戦前とも現代とも異なる)戦後の日本画についての展覧会が各地で断続的に行なわれているように見えますが、そういう流れに平塚市美術館も乗っかってきたんですね。国立劇場が所蔵している加山又造と小倉遊亀の作品が目玉になるんでしょうか。

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昨日、北陸新幹線が 

福井県まで延びましたが、当方、母方の一族が石川県出身なので、そこそこ他人事ではなく。しかしそれにしても、福井県のテレビ局は開業のだいぶ前から新幹線のぬいぐるみをかぶったかがやきちゃんなるアイドル風キャラを爆誕させて県内各所を回ってたそうで、なかなかにノリノリやね​:blobcatnervous2:

https://youtube.com/playlist?list=PLUZqIKpjJjR7F9j1KqQny5Y5gkLaeYRTN&si=SzKEmLHTKZqwZbVr

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特別展 崇高さに関する抽象的な覚書 https://artexhibition.jp/exhibitions/20240309-AEJ1913138/

・出展作家
ジョアン・カイガ―、イワオ・カゴシマ、アンソニー・カロ、岸田劉生、クレメット、須田国太郎、田口和奈、田中敦子、トリシャ・ドネリー、古屋誠一、パトリシア・L・ボイド、三木富雄、ナンシー・ルポ、アラン・ロンジノ、エミリア・ワン ほか
2024.3.30〜6.9、広島市現代美術館。出展作家にも名を連ねている田口加奈女史が企画し、松原壮志朗氏が展覧会構成を担当するとのこと。出展作家を見るになかなかバラけていて予断を許さないものとなっており、気になることしきり。
「近代美術」あるいは「現代美術」というカテゴリーの垣根を越え、作品の固有の振る舞いが、場の特性の中で静かなダイナミズムを生み出すこと。展覧会自体がひとつの言外のマニフェストとなることを意識した。
そうですが、その行方やいかに……

:sticker_dangerous_items:(その2) 

美術館側が警察や公安沙汰にしたことについては、真剣に憂慮しています

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国立西洋美術館でパレスチナ人虐殺反対のパフォーマンス、警察による介入も timeout.jp/tokyo/ja/news/nmwa-

なんか当方が頭痛で :kao_oyo: となってる間にいろいろあったみたいですね。国立西洋美術館で開催中の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?(ry」展については、始まるまでのアレコレの方が楽しそう(楽しそう?)ではあるけど…… というイメージでしたが、内覧会でぶっ放されましたか。

しかしそれにしても、首謀者のひとりな飯山由貴女史について、「自分の展覧会実績が絶対に消えない段階まで黙っといて直前になってこういうことをブチカマすって日本共産党かよ」というボヤキがあって :kusa: 。飯山女史がアカかどうかは知りませんし、それは別に大したことではないんですが、こういう自分だけ(自分都合のキャンセルや途中降板による)リスクを回避した上でリターンの総取りを画策するコスさは、なるほど共産党的 :blobcatthink:

先日が頭痛がヒドいのなんの…… :kao_oyo:

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やはり今回はドローイング(ドローイング?)作品のインパクトがなかなかありまして、なるほど確かに輪郭を線描した風味の陶作品というのは、これまで陶器の外延と内包との関係を一貫して主題としてきたかのう氏らしい展開なのですが、そのように思弁的には納得できても、実際にやってしまうこととの間には天と地ほどの差があり、そこに唸らされるばかり。しかも(壁掛け式だった一点を除いて)ちゃんと自立して展示されており、そこもきわめてポイント高。線描のように見えつつ立体として自立できるようになっていたことで、氏がこれまで主題としてきた外延と内包との関係性が、さらに違和感をともなった形で具現化されていたと言えるでしょう。

三次元空間の中に平面性に全振りした何かが混ざると一挙に違和感が増し、その違和感自体を主題とする作品は主に絵画や写真においてしばしば見られますが、それを(現代)陶芸の文脈の中で、その文脈を大きく逸脱せずに提示しているところが、実にクール。16日まで。

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西天満にあるギャラリー白kuroで開催中のかのうたかお「在ルコト」展。関西を中心に活動しているかのうたかお氏ですが、近年はだいたいこの時期にギャラリー白で個展を開催し続けています。

これまで器や壺に特殊な砂などを詰めて焼き、それを剥き出しにする──つまり器や壺の外延とそれが内包する空間(某なんでも鑑定団における「見込み」というアレ)との関係が反転しているのである──作品を多く手がけてきたかのう氏ですが、迎えた今回は紐状に延ばした陶土を使って器や壺の輪郭をドローイング(ドローイング?)した作品や、器の形をした陶板が出展されていました。いずれもこれまでの個展では見られなかった作風だったので、そう来たかと驚くことしきり。

戦後関西の美術家・木下佳通代の個展が大阪中之島美術館で、“存在とは何か”抽象画などの代表作が一堂に fashion-press.net/news/115344

2024.5.25〜8.18、中之島美術館。以前に第一報に接したときは、木下佳通代(1939〜94)の個展というあまりのシブさによくこの企画通ったなぁと唸ったものですが、詳細に少し踏み込んだ記事が出てますね。兵庫県立美術館やギャラリー島田などで、長年のパートナーだった奥田善巳(1930〜2011)との二人展という形で紹介されることが多い木下ですが、1970年代の版画作品はもちろん、80年代以降晩年に至るまで描き続けた抽象画もまとまって紹介されるようで、今から超期待。

ひさしぶりに訪ねた梅田の某書店(売場がシャッフルされ過ぎてて、アレでした :blobcatnervous2: )で見かけたこの本、片山恭一ってまさかあの……? と思ってたら、そのまさかでした(驚)。かつて『世界の中心で、愛をさけぶ』が凄まじい勢いで売れてた片山氏の新著は、九州派の画家オチ・オサム(1936〜2015)について──って、世界の中心で(ryから四半世紀ほど(?)経って、エラいところに落ち着いたなぁ感がすごい :blobcatfearful:

kankanbou.com/books/culture/06

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そう言えば件の記事の中で「ブルーライト文芸」の先行例として住野よる『君の膵臓をたべたい』が紹介されてましたが、それが(先日休刊した)月刊アクション誌でコミカライズされていたとき、同誌上で『桐谷さん、ちょっそれ食うんすか!?』が連載されていたの、編集部もいい意味でなかなか意地が悪いなぁと笑うやらなんやらだったもので​:blobcatnervous2:https://bookwalker.jp/series/85023/ [参照]

あたしか  
青くてエモい「ブルーライト文芸」大ブームの理由|東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/737591 最近は小説には割とご無沙汰気味な当方ですが、大型書店の文庫本コーナーをじわじわ侵食してきている感のあるあの手のジャンル小説群を「ブルーライト...
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青くてエモい「ブルーライト文芸」大ブームの理由|東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/737591

最近は小説には割とご無沙汰気味な当方ですが、大型書店の文庫本コーナーをじわじわ侵食してきている感のあるあの手のジャンル小説群を「ブルーライト文芸」と名づけているのは、あの手のをいい意味でバカにしていると思いたいところですが……
:blobcatnervous2:

ブルーライト文芸には典型的な話のパターンがあります。ヒロイン(や恋人、想い人)と出会い、最後に消失するということです。また、最近の作品ではそこまで露骨ではありませんが、『田舎』や『郊外』の『夏』を舞台にしがちであるという共通点もありました
記事中で触れらている「ブルーライト文芸」の特徴は以上のようなものらしいのですが(←実作に接してないのでアレですが)、「ブルーライト」と言ってるのに横浜が舞台じゃないんかぃという半畳を入れたくなりつつ、これってつまりはデウスエクスマキナする系統の小説のことなんだなぁと納得し、それなら確かについ最近発生した現象というより、昔からある物語のパティーンではあるよなぁと思うことしきり。ということは──死んだはずの恋人が最後の最後に何の脈絡もなしに復活して主人公の前に現われる──中上健次『軽蔑』は究極のブルーライト文芸ということに?←←

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ところで会場の一角で池垣氏のインタビュー映像が流されていました(撮影&インタビュアー:髙橋耕平氏)が、過去から現在にわたる自作のセルフプレゼンに加えて、氏がデビューした頃の関西アートシーンや京都精華大での教員としての思い出話などが高密度かつ脱線気味に語られていて、見応えありすぎ。「なんでリトグラフは(あのやり方で)刷れるのか未だに分からない」という超発言は、聞かなかったことにしておきましょうwww

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池垣氏は 

高校卒業後の1974年にメキシコに渡り、3年間にわたって中南米を旅していたのですが、そのことを念頭に置きつつドローイングに接してみると、中南米のテイストが確かに横溢しているように見える。昨年国立民族学博物館で「ラテンアメリカの民衆芸術」展に接したときに見た、向こうの社会運動のただなかで生み出された絵画と、雰囲気が明らかに連続しているわけですね。

そしてそれは表層的なテイスト云々ではなく、氏の仕事に通底する本質をなしていると言わなければならないでしょう。清水穣氏は池垣氏のドローイングについて、2017年にGallery Nomart(大阪市城東区)で開催された個展に際して寄せた文章──今回の「リボンと角柱」という展覧会タイトルはこの清水氏の論考から取られている──において、(父親が中国人、母親がアフリカ系キューバ人という)キューバの美術家ウィフレド・ラム(1902〜82)を参照しつつ、次のように述べている

池垣のドローイングでは、具象は、舞台の上でリボンと角柱に分解され、その極限(その例は少ないが)で文様の海に溶け去っていく。(略)リボン化にはキュビスムやシュールレアリスムの影響が顕著であるが、その先にあるカリカチュアは、まさにラムの人種的・文化的背景を反映して、何ともアイデンティファイできないハイブリッドなものである。これは非ヨーロッパ圏の作家が、モダニズムを受容した一例であるが、ドローイングの随所でラテンアメリカ的なモチーフを登場させる池垣タダヒコにも同じことが言えるだろう。つまり「リボン」と「角柱」には「非ヨーロッパ」と「モダニズム」という意味も重ねられているのだ。若き日の池垣は、非ヨーロッパとヨーロッパがハイブリッド的に混淆して存在する環境としてメキシコを選んだのだった。
(清水穣「リボンと角柱 池垣タダヒコのドローイング」)
池垣氏のドローイングは単一の描線によってというよりも、二重化された描線によるホース状の構造(リボン)と、描かれた四角形による構成(角柱)とによって構成され、そしてそれらによる「ドローイングの随所でラテンアメリカ的なモチーフを登場させる」描画には「「非ヨーロッパ」と「モダニズム」という意味も重ねられている」わけで、そこから「何ともアイデンティファイできないハイブリッドなもの」を召喚させるのが氏のドローイングのビジョンであると清水氏は述べているわけですが、これは池垣氏がデビューしたのがいわゆる「関西ニューウェーブ」が日本現代美術を席巻していた時期であったことと重ねて見ていくと、非常に示唆的であると言えるでしょう。「関西ニューウェーブ」は特殊日本的な現象であるとともに、同時代の欧米における「絵画の復権」現象と共鳴していたし、さらに言うとそれは単一のモダニズムに対する複数の横断的な動きの総称でもあった──イタリアにおいては「トランスアヴァンガルディア」と呼ばれていたことが、事態を正確に言い表わしているのではないだろうか──わけですが、してみると池垣氏はかかる横断性をメキシコにおいて文字通り全身で経験した上で日本の1980年代を迎え撃ったことになるし、さらにその横断性をドローイングという形で持続することで現在に至るまで独特の位置を占めてきた/いることになる。で、ここに、関西・現代・版画において(今のところ最後の)大規模な運動体となっている、木村秀樹氏が率いていた「マキシグラフィカ」(1988〜2008)との対質において氏の仕事を見直す必要性があるのですが、それはもはや当方の手を余りまくっているわけでしてェ……

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先述したように、今回は 

版画(や、それを組み立てたりコラージュしたりした立体)や銅による立体(多くは銅板を細長く切って角柱状にしたものを組み立てて造形されている)が多く出展されていましたが、とりわけ個人的には本や手帳、スケッチブックなどに手当たり次第に描かれたドローイングに瞠目しきり。池垣氏は研究室にいるときでも暇さえあればドローイングしまくっていて、だから版画専攻以外の学生も出入りすることが多かったという証言がありますが、そういうところにも名伯楽とされる所以があるのかもしれない。実際──特に2010年代に上田良(やや)女史や迫鉄平氏、松元悠女史etcを輩出したことに顕著だったのですが──池垣氏が教鞭を取っていた京都精華大学の版画専攻は、関西・現代・版画界において(現代版画界の沈滞感をよそに)あらゆるメディア/メディウムを包含しうる超版画を思考・志向した作家を陸続と出すことで、一種の梁山泊状態を呈していたのでした。

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京都精華大学ギャラリーTerra-Sで開催中の池垣タダヒコ「リボンと角柱」展。 

いわゆる「関西ニューウェーブ」のひとりとして1980年代にデビューし、1995年以降、長年にわたって京都精華大の版画専攻で教鞭を取り続けてきた池垣タダヒコ(1955〜)氏が今年度で退任するとのことで、その記念展として企画された展覧会となっています。

さておき今回はその関西ニューウェーブ時代から昨年まで、版画から銅による立体から折に触れて描かれ続けたドローイングまで一挙に展示されており、池垣氏の創作の版画に限らない広大無辺さの一角をそれなりの規模に一望できるものとなっていました。個人的には池垣氏といいますと、「ニュー・ウェーブ 現代美術の80年代」展(国立国際美術館、2018〜19)や「関西の80年代」展(兵庫県立美術館、2022)といった大規模なアンソロジー展において銅による立体作品に接する程度だったので、氏の個展に接すること自体初めてでしたし(爆)、これほどまでに多数の多様な作品が出展されるとは端的に予想外でした。眼福。明日まで。

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