@tenjuu99 以前この人が監修した本が売られてたのを見たことがあります https://fedibird.com/@wakalicht/110999128123895258 [参照]
写生&テクニック番長として京都画壇に重きをなしてきた栖鳳のことですから、その弟子たちも写生原理主義的な作風となっており、京都市動物園にはだいぶ通い詰めていたらしい。ですので、出展作も基本的に真っ当に動物を描いたものが多く、飼育員のコメントも辛辣さはなくて、描かれた動物の生態などをちゃんと紹介するものとなっていました。西村五雲(1877〜1938)の《海驢》(1934頃)の紹介文に「(絶滅したとされる)ニホンアシカである可能性が高い」という本質情報が唐突に出てて驚。この飼育員さんGJ。絵の方は、アシカのとぅるんとした質感をたらし込みの技法でうまく表現しているところにプロの技が光る佳品であったと言えるでしょう。その一方、その隣にはこのあと虎やライオンのエサになる予定のウサギを描いた《園裡即興》(1938)があり、やめたげてよぉ となるところ。
京都市京セラ美術館、この「Tardiologyへの道程」展以外にもいくつかのコーナーがありましたが、中でも割と多くの作品が展示されていたのが「動物にクギヅケ 〜 日本画家のアツいまなざし 」というコーナーでした(ここだけ撮影可)。近所にある京都市動物園が今年開園120周年になるのを記念して、京都市美術館が所蔵している日本画の中から動物をモティーフとした作品をチョイスし、いつものキャプションに加えて、動物園の飼育員のコメントも掲示されているという構成。ちょうど企画展として竹内栖鳳展が開催中ということもあってか、栖鳳をはじめ、弟子や孫弟子にあたる画家たちの作品が中心でした。 [参照]
《Tardiology》に戻りますと、単一の素材による構造物の崩壊過程自体を作品化してみせたという点において、また1968年という時期に発表されたという点において、長らくこの作品はいわゆる〈もの派〉の関西における重要な達成とみなされてきました。かかる史観は、野村がその後太陽や月の地上から見た運行自体を写真や楽譜などによって記録していくという作品を多く手がけていくことで、〈もの派〉的なもののさらなる独特な展開として記述されていくことになるわけですが、しかしこの展覧会において目指されていたのは、かかる〈もの派〉にのみ還元されない作品として改めて接してみるということにほかならない。
そう言えば《Tardiology》は2019年にも京都府立植物園の一角にて再制作されていたのですが(当方も見に行きましたが、既に崩壊した後でした)、その際、美術家・美術評論家・「浄土複合」主宰の池田剛介(1980〜)氏は次のように述べている
野村仁のTardiology、ダンボールが次第に重力で潰れていく際に、崩れていく形態がかなりコントロールされている。単に変化に開かれれば良いというプロセス主義とは異なる、作品の閉鎖的単位がそこにある。https://x.com/kosukeikeda/status/1129963977461469185?s=20
《Tardiology》(「遅延学」というべきでしょうか)とは、京都市美術館の前庭に段ボールで高さ8mの巨大構造物を作り、それが自重や気候の変化にともなって崩壊していく/したという一連のプロセスと、それを撮影した記録写真のこと。京都市京セラ美術館では2003年と2021年の二回にわたって記録写真全8点をコンプリートした──特に2021年には、野村本人の監修のもと再プリントされた4点が収蔵されている──のですが、今回の展覧会ではその8点全点と、辻と堀内の作品、さらに彼らのもとで学んだ美術家たち(野崎一良、上田弘明、富樫実、宮永理吉氏、福嶋敬恭氏)の作品で構成されています。
辻と堀内は戦後の学制改革と同時期に京芸に赴任したのですが、彼らのもとで彫刻科は抜本的なカリキュラム改革が行なわれたという。モデルを見てそれを塑造によって模倣することから、単純な形態の組み合わせによって形を把握していろいろな素材でもって自分自身の形態認識を作品化していくことへと変わった──彼らの「改革」を超大雑把に記述すると以上のようになるでしょう。無論かかる「改革」が1920〜30年代のバウハウスのカリキュラムのパクリであることは一目瞭然なのですが、1950年代の日本においてここまで堂々とパクったのは京芸が初だったわけで(そこに光を当てたという点で、この展覧会はDIC川村記念美術館で開催中の「ジョセフ・アルバースの授業 色と素材の実験室」展とも共鳴しています(アルバースは1930年代にアメリカに移って以降、ブラックマウンテンカレッジ→イェール大学と場を変えながら、単純な形態と色彩の組み合わせを基礎とする美術教育を実践していた))。その実践的指導者が辻晉堂であり、理論的指導者が堀内正和だった。
https://kawamura-museum.dic.co.jp/art/exhibition/
京都市京セラ美術館の常設展、秋季の特集展示は「Tardiologyへの道程」というタイトルで、野村仁(1945〜2023)が京都市立芸術大学彫刻科に在学中の1968年に発表した《Tardiology》を中心に、彼がこの作品を作るに至るまでを、その頃の彫刻科の教員であった辻晉堂(1910〜81)と堀内正和(1911〜2001)との関係に焦点を当てつつ振り返ってみるというものでした。この展覧会が開催される直前の10月3日に野村が長逝したため、結果として追悼展という位置づけも担っています。
ここで黒田女史が版画家でもあることに注目する必要があるでしょう。彼女は何も製版されていないシルクスクリーンをハガキに刷って不特定多数にほぼ毎月、1年間にわたって送るというメールアートをかつて行なっていました(画像参照)。で、それを受け取った人たちのオフ会といった個展も行なっていた──ここから現在に至る黒田女史の「音波交換会」が続くことになるのですが、してみると、かかる一連のプロセスが版画としてなされていると考えることも、そう突飛なことではないでしょう。しかしその「版画」は何も製版されていない。ここに、目的に従って行動・エンゲージメントを行なわせることが必然的に陥る逆説(そのような逆説をクレア・ビショップは「人工地獄」と名づけていました)を回避する可能性が、少なくともその萌芽があることに注目しなければなりません。それがいかなる形で「版画」に内在する歴史-論理から出てきたかを精査することが今後必要であるにしても、私たちが黒田女史の実践から汲み取るべきことは、実はかなり多い。11.4まで
……で終わってしまうのもアレなのでもう少し続けますと、アーティストが作品に代えてこのような他者とのコミュニケーションの場を設定するという動き自体はありふれているものの、しかし黒田女史の場合、その場が何らかの目的のもとに/それを目指して設定されているわけでは必ずしもないところに特徴があります。今回の場合、来場者には印刷物が渡され、それを折ったり綴じたり切ったりすると豆本ができたのですが、そこには会期中に雑談の中で話題になったキーワードがその日ごとに羅列されていました。で、それをパラパラと瞥見してみると、キーワード間に見事になんの脈絡もない、という。
既述したように、黒田女史のパフォーマンス(パフォーマンス?)には、この手の、コミュニケーションの場を作ることを作品とする動き──それはしばしばsocially engaged artと呼ばれる──が意識的無意識的に設定する/されるような目的が設定されているわけでは必ずしもないのですが、彼女においては、そうした目的の不在だけがある徹底性をもって具現化されているところに特徴があります。今回も
お茶でもとDMにあったものの、数学の話はほとんど出てこなかったし、その意味で「音波交換会」という側面だけが際立っていたわけで。しかしその「音波交換」にこそ、彼女の賭金が存在しているのではないか。
飲みながら、
数学の話でも、、
音波交換会です。
Gallery H.O.Tで開催中の黒田麻紗子「数茶会」展。大阪市内にシルクスクリーンの工房を構える傍ら、たまに個展を開催している黒田麻紗子(1983〜)女史ですが、そこでは狭い意味での作品は展示されず、来場者は飲み物を飲みながら、彼女との、あるいは別の来場者との雑談を楽しむことが恒例化しています。今回はcity gallery 2320(神戸市長田区)、PIASギャラリー(大阪市北区)に続く個展とのことで、来場者は彼女がふるまう飲み物を飲んだりしながら、思い思いにいろいろな話題で盛り上がっていたのでした。当方もつい長居してしまいましたし、途中から現われたオバちゃんがPayPayを「ペーペー」のイントネーションで発音してて、若干ゃ草
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪