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誰にも見られてないと思って伸びそうなことを言ってしまうと伸びるし、届いてほしいものは届かない。ままならぬ

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今年は見たらすぐにTwitterに書いてしまうようにしてるんですが、やはり書き方変えると思考の流れ変わりますね

今週はずーっとせっせと資料の文章を考えてたので疲れた

昔の映画見てると男の子たちがしょっちゅう「ちぇっ」ていう。あんまり聞かなくなった気がする。え、がはっきり発音されるちぇっ。

今でも面白い90年代映画のタグ見たら「今でも」はあんまり関係なさそうだった、意外と「今」らしさを気にする勢は少ないのかもしれない。

おじさんの鰹節とたくあんのつまみ食いとか、義太夫うなり始めてヒロインが笑いをこらえてるとこにつがいのことりのカットが挟まれるのとか、文化的おかあさん(最近でもなかなか描かれにくいタイプの良いキャラだと思う、彼女はまったく悪妻ではないが平凡な男からすると実に困る女なのだ、まったくおとうさんときたらしょうもない…)の大真面目な「今インスピレーションが!」とか、劇伴の調子が変わってギターの音色が…が下宿の2階からだったとわかるとことか、「紅茶もあるよ」の反復とか、てくてくてくてく歩いていくリズムとか、なんかこう全部があるべきところにあるゆるっとしたとこがない気持ちよさ。

東京のお嬢さんに丁寧に丁寧にふるまう田舎の方の妻の忍ぶ女としての理想化された立派さなんぞ普通の映画ならドン引きレベルなんだけど、あの人も自己の幸福を貫いてるだけでそのためなら何だってやったるでな人なだけよな(娘さんたまったもんじゃねーだろとも思うが、まあそれしか知らなければそれも幸せなんかもねえ)と思わせてくれるのが成瀬の映画の好きな感じ。

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なんかもう成瀬だけ見てれば概ね満足な映画ライフができるんではないかという気がしてきました。『妻よ薔薇のやうに』はちゃっかりしっかりな娘さんも文化的おかあさんも「情つえええ」の女の前には何もできんな…という話なんだけど、しょうもないことこのうえない父ちゃんよりだいぶ良いものを手にしてると思うので、まあ痛み分けっすな(父ちゃんは無傷)。という話なのであった。金と情の一貫性ー!ということもないんだろうけど。筋からすればもっと湿気が強くなりそうなんだけど、モダンなユーモアのほうが前に来ていてしれっとおかしい。ヒロインと恋人との関係もかわいい。

しかしこのときからこれしかないショットにこれしかない音の感覚の完璧さにびっくりする。PCL時代の成瀬もっと見たいー。

なんだかんだでもうこっちきて7年がくるんだな。はえー。人生はえー。

『Keiko』は『想い出づくり。』を最近完走してたことも含めて良い映画体験ができたなあ感があった。自主映画だけあって、日本の若い女の自由についてコメンタリーというよりもっとそのままの物語になる前の素材を差し出されるような。それゆえにキャラクターとの時間共有の映画として、稀有なものになってる気がする。

結婚圧の話を後景にすることでより多角的な個人の話(ケイコさんは主体的に行動してるんだけど…な前半の描き方とか、仕事に熱心にはなる気がない感じとか)になり、同時にかなりシビアなことがほとんど唐突に展開してるのも時代の限界というよりも現実でしかないものの現れと思えて、無数のケイコさんやカズヨさん(やはり母世代である)のことを考える仕掛けになっていて、1979年にここまでこれてたのか…と本当に驚いてしまった。時間の流れがとにかく速いし場面と場面の飛ばし方もびっくりするほどあっけらかんとした繋ぎで、これは編集の映画だなー。台詞が聞き取りにくいのも人間の会話って本来そんなものだよなという感じ。当然ながら古さはあるけど(特に音楽の使い方)同時にその古さが当時の新鮮さだったのが伝わる感覚というか。

裸がたくさん映るけどなんか「体がそこに在るだけ」って感じの裸なのもよい。

『アウトフィット』で「撮り方どーなのかなー、というやつでもページターナー型の脚本で役者がすごいと舞台中継的に見入っちゃうわね」とか思ってたけど『君を想い、バスに乗る』見たらやっぱ役者がすごいときは演出もちゃんと応えてるほうが脚本以上の力が出るな?と思った。『君を想い、バスに乗る』はバス内の悶着とか(いや他の乗客が気づくのに時間かかりすぎやろ)多少気になるとこがないでもないのですが、おじいちゃんの最後の旅映画(世界中でえらい本数撮られてる気がする)としてこれ以上もこれ以下もないよな、という適切さしかないコンパクトさで好きなやつでした。空も灰色、顔も灰色、いろんな人がいて、いろんな人が去る、親切な人もそうでもない人もいる、そんなことより妻が好き。みたいな感じで誰とも関係がベタつかないのがいいんだよな。肩を貸した女の子は言葉ひとつなく次のショットでは退場している。

人が棒立ちで話してるノペッとしたカットがほとんどなかったのでそれだけでホッとするし、誰かにしんみり語るとこが一切ない(のでわかるのは観客だけ)のに英国映画の美徳の伝統を感じた。最も美しい行為は傘のない見知らぬ人に自分の傘を差しかけること。そこに理由なんてなくていいのよ。

『枯れ葉』で改めて思ったのは、やはりあの喋り方をするとみんな棒読みに聞こえるんだな…ということの凄さ。俳優変わっても全員同じ表情で同じ話し方をする。何だろこの計算し尽くされているところをスコンと射抜く感じ。横並びの位置からくる視線の合わなさとか、ライティングの美しさとか、細部までバシッとしてる…ような人じゃないと「おとぼけ」はできないんだよなあ。皮肉でもなんでもなく人間に大切なことはこれだけだよ、が過去作よりも濃厚に見えて、縮小再生産であること自体が凄みにもなってるように思った。

とはいえアルマ・ポウスティは比較的にこやかなヒロインではあるし、ちゃんと言葉にする人なのでおかしなことにはならない。そのぶんよりシンプルな愛が際立つのかも

アンサが後ろの恋人たちのほうを見て表情を曇らせる、みたいなこと一切しないとこすごい好き。彼女はこちらを向いていて、観客しか知らない画面になってる。表情を変えさせないための画面設計(またあの恋人たちの女の子が男の子の肩に頭を乗せる、ただそれだけの愛の映し方なのがね、最高)

物語がシンプルであるがゆえに、というのもあって気づけば字幕を見てない瞬間が増えている。視線が誘導されている。計算しつくされている。にもかかわらず、本当に気軽に撮ってるようにしか見えない。いや凄いね。

枯れ葉、終わった後に女性ふたり(60代くらいかな)のお友達コンビらしき方が話してるのに聞き耳立てちゃったんだけど、お一方が後半を爆睡してたらしく、途中からの展開をお友達がすごく丁寧に説明してあげていて、その語り口がとても細やかで魅力的で、実際に身近な人に起きた出来事をお話ししてるみたいで、なんだかその様子がすごくカウリスマキの映画の精神に合っているように思って、なんだか聞いてる私のマスクの下で口の端がじわじわとあがっていくのを感じた

だから逆説的に最低限のデリカシーだけ確保してあとはファンムービーに徹してるマリオ映画はあれはあれで(意味から自由なときほど楽しい)イルミネーションにしかできない最適解なんだよなとも。しかしセス・ローゲンは80年代のキッズの夢の極みを同年に連続であれこれやっててすごいわね。

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「ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!」は見たことのないアニメーションでローファイとデジタルのバランス感覚は音楽にもあらわれてて、そのあたりはたいそうよかった。動く絵本を実写と融合するアプローチ(相反するようでそうとしか言えんのよ)で学園映画✖️フッドムービーをやってるのはとても楽しくて(何しろ敵の「スーパーフライ」って思い切ったことやるよね、しかも声がアイスキューブなんだからフッドムービーの志ですよ、とーちゃんと息子の話だし)ギャグのノリはすごいセス・ローゲンで(2000年代に男子映画の売り出しでグイグイきてた当初は苦手だったけどこれももう懐かしい感じになってきた)、あとブラックカルチャーにおける日本のアニメ受容のシーン観測的にもここまできてるんだー!って面白かったよ。

でもストーリーとして「もう少し先まで行けたんでは」という気もしなくはない。マジョリティにヒーローとして受け入れられる話として描くべきなのは、それはそうなんだけど、ここまでよくできてて意味が読めすぎると逆に「結局さあ…」ってとこが目立ってノイズにも思え。これは作品というよりジョン・ヒューズの時代にはジョン・ヒューズ映画に出られなかった層のジョン・ヒューズ愛という捩れの難しさそのものでもある、気がする。

「TITANE/チタン」面白かったー。クローネンバーグとの距離はいまだ測りかねている私なのですが、クローネンバーグチルドレン的な女性監督たちのより即物的になってて観念的なこと言わせないやつは好きだな。あくまでも身体、車、炎、暴力!突き刺す性へのコメンタリーみたいなとこもあるようなないような。

最初こそ金属物質としての車に対するフェティッシュのほうなのかな?と思ってたんだけど、なんかそういう話でもなかった。ただただ人間身体の捉え方がおもしろー!きもちわるー!もろーい!つよーい!おもいどおりにならなーい!って感じがそのまんま。普通もっと暗く審美的に撮りたくなるであろうなーってシーンも結構あると思うんだけど、なんか全体に平熱っぽいんだよな。

音の使い方も金属的なキーン!に欲望の感じがうまく出てるし、RAWよりふざけている感じが増していて(特に殺人パートのあのノリ)嬉しい。欲望と物語の共犯を愛と呼ぶ先の身体的達成、みたいな謎神話でもあって。同性間での性的な関係とか越境する身体というのは描かれつつもいわゆる「クィア映画」的ではないと思う、一方ですんごい「クィアな映画」だと思う…って前もこんなこといったな(首のときですね)

昨日見てた「セイント・オブ・セカンドチャンス: ベック家の流儀」とか「バタード・バスタード・ベースボール」みたいなの見ると、「アメリカ映画の心意気」みたいなのがいちばん集約される場がおらがまちのマイナー球団にある気がしてくる。再起の場でありメジャーシーンでやっていけなくたって(障害がある人や女性やメジャーで不祥事起こしてどこにも雇われなくなった人。女性ピッチャーがしばらく歓声に慣れなかった、って言ってたのが印象的)ここがあるさ、ってみんなでワイワイしてるテーマパークみたいな。家族や仲間のものなんだよなー。

しかしそのテーマパーク性がトラブルのもとでもあり。家族にはつらいことも起きるし、実際色々適当だなおい!ってびっくりしちゃうし、マスコミには叩かれるし、それでも間違ったら間違ったことを認めてつらいときでも笑ってやり直していく、タフなイージーゴーイング、なんか絶対他の国にないものがあるんだよなー。「9回が終わればだいたい勝ち負けは決まる、でも翌日にはまた1回から始められるのがベースボールのいいとこさ」の精神性、なんか大いなる力の根源を見る気がする。めげなすぎる…!

t.co/TbwFbjEvxt

「恋する男」をU-NEXTで。初エテックス。恋に恋してワヤワヤになる変人コメディなんだけど、そこまでバイオレントではなくリズムがおっとりしてて、新春ほんわか鑑賞によかったかな。でもそんなに好みではないかもしれない。ヤバめの女につかまえられちゃうシークエンスが導入としては長すぎるからかなあ、ギャグのノリにちょいちょい飽きてしまってた。すぐに追っかけコメディになってるほうが好きかも。短編だと楽しそうな気もするので、短編は見てみるかなー。

おっとりといいつつ、サイレント志向だととにかく役者のフィジカルの強さが大事になるので運動神経勝負を感じさせるいくつかのシークエンスがやはり面白いのと、水辺や宝石のキラキラー!がとてもキラキラー!って感じなのがよかったところ。
video.unext.jp/title/SID009397

こちらでも。今年もよろしくお願いします🙇‍♀️

2023年は旅先での年越し。みなさま良いお年を。こちらは今日たくさん撫でさせてくれたアルパカさんです。生アルパカ毛、ふっかふかでした

「夫」というポジションになればデリカシーなく振る舞うのが許されると思ってるんだからまったくもってやってらんねー!という話ではあるんだけど、それだけには収まりきらないのが良いのよねー。夫のモラハラ言動うぜー!なのはまあ当然の話なんだが、節子様はあんまり健気にご機嫌伺う妻でもないんだよ。グジグジしてるしうまく立ち回る人でもないんだけど、絶妙に「めげてないなこの人…」感があるの。野良犬の件も放置だし。最初の言い争いからうかがわせる(グリンピースの瓶とシャケの金額を具体的にあげてくるような台詞の感覚が全部いいの)女の金勘定スキルなめんなよをラストバトルで再びもってくるのとか脚本の良さも痺れるう

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