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コンペ番組好きという理由だけでタイプロも見てる話する…?

るこさんの配信、内容もだけど話し方とか声の感じも好き

奥様は魔女を見てベニーとキャシーが2人で笑っているとこ、あれだけでわかるじゃないですか。荒くれ集団の中でも飛び抜けた暴れ者でも「奥様は魔女」の世界を楽しめてた時代。いうて女性にそこまで暴力的にふるまう人らではないんだよな。まあ白リーバイスを手形だらけにするところでは褒められたもんでもない、それでも所有物ではなく一緒にいれば仲間の感覚がある。次世代はそうじゃなくなってく。そこには戦争が深い影を落としている

叛逆というよりも手を動かして生きる連中のひとつの連帯の形、ヴァンダルズというのははぐれものたちが自由でいられるシェルターだったんだと思うのね。だからこそ人一倍「外の世界のルール」に縛られないベニーの自由さへの愛が一線を超えてしまう理由にもなる。せつないねえ

ウィル・オールダムが出てるの、先に聞いてなかったら見落とすとこだった。ロウリー→ライカート→ニコルズってラインがここで繋がるわけですね。巨大な田舎としてのアメリカを語る映像詩人たち。てかウィル・オールダムのフィルモグラフィすごくね?

殴り合った後にビール飲んで仲直りする世界にいたかっただけのジョニーをいちばんわかってたのは同じ人を同じ理由で愛したキャシーなんだよなー、ってあたりもよかったよね。この世界は同じ場所にずっとはいさせてくれないのだ。

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ザ・バイクライダーズ、予想はしてたけどジェフ・ニコルズ相変わらずすっげーな!こんなふうにこの題材を撮れる監督がどれだけいるよ…と震えたわね。見事な見事なアメリカ映画。イノセンスの喪失や郷愁の映画には当然ならない。バイクがもたらす高揚感の話ですらない。人生は続いたり続かなかったりする、をそのまんま映してしまう凄み。なんか青春の終わりだったら普通前半キラキラあるいはギラギラするじゃないですか。そういうのがないの。ショボいの。そのショボさがゆえの魅力なの。

ラブシーンのように撮られた男から男への懇願と噛み合わなさ、会話からのシャットアウトがピントで示され恐怖のすべてを2階の壁の傷に託す。風を見る。崩壊の始まりの炎を放つ場面はなく次のショットで上から見せていく。終わりが来るときの終わらせ方、車の中のふたりを並べて正面から撮るあの感覚。相変わらず言外の語りもうまいし「手を動かす者たち」の連帯から始まったものと示す台詞(シャノン先生!)で違うものに変わってしまう戦争帰りと低年齢化の前振りをきかせる細やかさにも痺れる

自由とは恐れを感じないこと、なシェルターを作りたかっただけの男としてのトム・ハーディ。モゴモゴ喋りはますます甲高くモゴモゴしてて(やはりマーロン・ブランド)やはり男らしさとの距離の一定しなさが面白い

展開や使われている音楽に触れます 

最初に流れるHere Comes the Sunの時点で掴まれた。マシュー・ハイネマンの「ニューヨーク 第1波」で回復のサインとして病院で使われていた音楽。もう大丈夫、の喜びの歌。JOY。

往年のヒット曲使いは時代を表すだけではなく。人工授精シーンでの一連の流れにはヴォーン・ウィリアムズの揚げひばりが流れ、ここで終わり、と決めたように終わったあとのエンディングにはPPMの500 Milesにのせて「彼女のこと」が語られる。冒頭の言葉が最後では実感の度合いが変わって聞こえてくる、というのは珍しくない話だけど、これだけ丁寧に積み上げてあればまあ、ぐっとくるさな…

結構センシティブなテーマなんだけど、人工授精への反発の強さと一体になっていたのが(すでに合法化されてはいたが)妊娠中絶への強い反発と同種のものだった実態を語ることで「女性の選択肢の話」に位置づけたのもクレバーだと思ったし、希望の残酷さも見せている。廊下の暗さ。痛みに対する誠実さ。

何より語り方がいい。寄り添う人であり続け、しかし本人自身は悩みに悩んでいた一人のナースと卵子クラブの女性たちがはしゃぐ海辺の波は厳しく風は強く、それでも彼女たちは本当に楽しそうに笑っていた、それがすべてだと思わせてくれた

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定期的にインターネット中年としてはもうそのネタ飽きたよ…という話題が寄せては返す波の如く…

周りの誰も見てないものをせっせと見るのも楽しいもんだな、祭は祭で良いけど…

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Netflixの『JOY: 奇跡が生まれたとき』は光量もエモさも抑えて細部まで丁寧に撮り、機能的な語りで実話ベースの物語をきちんと撮る大変英国映画らしい英国映画になっていて、私のとても好きなやつでした。詳しい感想はあとで書きます。ジェームズ・ノートン氏は良きだなあ…

リズム+フローの本家の最新回待ちの繋ぎのつもりで見始めたブラジル編が面白くてワクワクしている 色んな国映画を見る部をやってるとどの国の若い人たちもラップやってる子多いのな…と思うのでこういう番組でシーンを知ることができるの楽しいのよね 言葉わかんなくても楽しい

『視線』をNetflixで。あんまり良いとは思わなかったんだけど、ルーマニアに失礼がないように撮っているとこは良いと思った。

差別性を指摘されることを避けながらもステロタイプ表現で「こわい場所」「荒んだ場所」扱いしたいときの記号としてなんか東欧のイメージってあるじゃないです?あれを全然やってない。アパートも街も綺麗だし、カルチャーギャップもないし、強面っぽい人も別にそんなでもない。

でも実際アメリカから行ったら薄暗さ薄寒さなんか不安になる印象は持ちそうな感じの画面で(建物のフレームの四角さの強調からかなー)そのバランスはとれてる気がした。

一方で「見られてる」が君は知らない場所で言葉も通じず不安だから…と言われてしまう、というとこから予測されるとこを出ないままに進んでしまうのでヒロインほどに観客を緊張させられてないのはあんまりだなー

あとここで話されてるルーマニア語、今まで見たルーマニア語の映画よりなぜかイタリア語っぽさを強く感じたな。ロマンス語系だからそれはそうか。

それにしてもこういう「現地言語を話せない人の孤独と不安」をベースとしつつも、ある程度英語が通じる人が(特に若い人には)多い環境だから成立するサスペンス見るとやっぱ英語って覇権言語なんだなーと思うわね、良し悪しではなく現実として

フワッと書いたものが拡散されるとビビりますね(そんなヤバいコメントはつかない内容だと思うけどリプ欄はさっさと閉じた…)

なお全然つまらない映画ではない、むしろつまりすぎ映画

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ジャワーン、すごく変だった…というか全部知ってるやつなのに全部知ってる文法じゃないスター映画の凄さを3時間近く浴びるとバテる。

『WANDA/ワンダ』見たよー。素晴らしいな。明らかに今作の影響下にあると思しき『リバー・オブ・グラス』はあんまりピンとこなかったのだが、こっちの「何もない女」の何もなさはもはや凄みとしか言えない何かだし、これを主演脚本演出全部やってるのすごすぎないですか…虚しさとか哀しさとかすら、ない。ただそこに「何も持ってない これまでも これからも」な女がひとりいるだけ。「わたしバカなの」に哀れさもない。しかしそんな女が一瞬だけ本当に嬉しげなところがある。そこから「無」でなくなってしまう、というのがなんかもう。いちいちすごい。

全編通して、ワンダはよくそんな状態で…といあ場面でグーグー眠っている女である。眠ってるときだけは世界の圧から自由なのかもしれない。『めし』の「女は眠いんだよ」を思い出す。

私が映画見てる時に「あ、これは間違いないやつだ」とわかる瞬間が2つあって、ひとつは劇伴がつけられてないことに気づいてなかったことに半分くらいまできてようやく気づくときで、もうひとつがロングテイクのワンショットだと気づかずに見てて視点が動いたとき突然「あれ、今ずっとカット割ってない?」って気づくときで、これはどっちもだったな

音の設計もめちゃくちゃ素晴らしい。高速を行き交う車。夜の虫の声。飛行機ではない飛行機の音。

変な天気で頭が痛い…薬は飲んだ。ちょっと寝るか…(自由業のいちばんのメリットはこれ。稼げないけど寝れる)

Aili - Nandakke? [Official Video] youtube.com/watch?feature=shar 昨日からずっと聴いてる。癖になる。ビデオもかわいい

「BLEAK NIGHT 番人」を見たのですが、またカメラで酔った。(後半は大丈夫だったけど教室内のわちゃわちゃがかなりしんどかった)手持ちカメラが苦手なせいで色んなものをうまく見られない気がする。

話は若い男の子たちのつらい話。「親に見せる顔と学校での顔は違う」子たちと「親が顔を見てない」子のギャップが限界にくるまで。時系列いったりきたりで「どうしてそうなったのか」に迫っているんだけど、思っていた感じと少し違っていた。これはあれだ。『クロニクル』に先行する『クロニクル』だ(男の子が3人組なとこからの連想もだが、うわー!となった男の子はいちばん「見てよ!」と「ほっとけよ!」が一緒くたになってる子という…でもそれがクロニクルみたいな外に向かう破壊ではないことがまたね…)この年代の男の子の関係性のバランスが少しでも崩れるとどんだけ簡単に全部が壊れるか。ひとつひとつのエピソードがあまりにたいしたことないのにね…せつない。しかし高校という場所の閉塞感の強さは東アジア特有のがあるよね…制服だけでなく…なんだろ?校舎?

父親のやるせない肩を置き去りにするシビアさにあの時期の韓国映画らしさ(2010年作品)を感じる。男の子たちのコミュニケーションの形、今は少しは変わっているだろうか。変わっているといいね

どっちの作品でもデコちゃん様はヨヨヨ…と泣いていますが『あらくれ』では「男」には本当はそんなに興味がない(社会の仕組み的に必要なだけ)人がこんな世界で「女」やってられっかよ!の悔しさの涙、取っ組み合いの大喧嘩や酔っ払うのと同じ怒りの表出としての涙だよなあと思った。

金勘定絡みの話の頻度高めで(商売人の話だからね)身体的なアクションも多め。こちらのシマさんは実に手も足も口もよく動く女で、木偶のように突っ立ってはいられないので終始動き回っている。なんでこんなよく働いて潔く生きてるだけの女がそんな疎まれなきゃいけないの?って話なんだけど「分」をわきまえてないということに尽きるわけですね。で、その家を飛び出す種類の「わきまえなさ」は「絶対別れねーぞ」な浮雲のゆき子さんとも実は呼応しているように思ったのだった。

「女」をやっている女/主人公の「女じゃないみたいな」女の関係の複雑な含みがいいわね。女が女を助けたり守ったりもするし、女が女を蔑むことも殴ることも当然あるよねー!人間としてのあり方を(当人たちはそんな「概念」的な言葉とはおそらくまったくの無自覚に)かけているわけだから、それはもう命がけの気迫なんである。

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でもって、ゆき子さんはふたりで並んで歩くたびに(このバリエーションが本当に素晴らしい)地獄に突き進んでいくわけですが、どんな酷い目にあおうが、あれは最終的には完勝だと思う。見た目がいいだけの完璧にしょうもない男に惚れ続け追っていくのも(女を出世の糧にできないベラミという最低で最高に的を得た皮肉、原作にあるのかな、ありそう)、間違ったほうに行き続けるのも、これもまた女の自由の形であり、これもまた彼女の闘争。インターナショナルの行進と逆に歩いてく場面が最高によかった。

でもその流れで同一座公演(いつもだけど、今回特に「一座」が集まってる感が強かったな)の『あらくれ』を見ると、やはりこのコンビは本来こっちの「やってらんねえよなー!」だよね、とホッとするというか。

こちらもこちらで出てくる男が全員しょうもなさすぎるわけですが、最初のやべー夫(この上原謙さまは「山の音」と張るレベルのヤバさ)にちょっと見てられないキツさだったものの、色々あるごとに生活力と勝ち気が止まらなくなっていくシマさん3度目のチャレンジ!(こっちの唇を不満げにひん曲げてズケズケ言ってるほうがデコちゃん様らしい、そしてここでも完璧な加東大介さまのヒゲダルマ!)あたりからどんどんユーモアマシマシに。ちんどん屋みたいな洋装とか自転車にもにんまり

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『浮雲』は戦後メロドラマの代表作として扱われてるけど、実際見てみるとこれメロドラマなんかな?というか、かなり変わった映画だと思う。戦後の暗い世情(人がコロコロ死ぬ時代)と男女の腐れ縁ときたら「幸せな日々の記憶があるから逃れられない」という話になるのが定石だと思うけど…これそうなってなくない?離れられないから離れられない…しか理由がない!

特にジャンル:喪われたコロニアルロマンスを求めて(酷いジャンルだ)ならば、我らが人生の最良の時という腐れ縁の理由付けがなされそうなものだけど、女の回想における出会いの記憶が幸せそうに見えないのに驚く。本来は回想シーンでふたりの出逢いやロマンスって幸せな瞬間じゃないですか?この作品では不快な出会いと「なぜかくっついてしまった」でしかないのである。で、あとからわかるのが、ゆき子さんは最初から「喪っている女」だということで「次は喪いたくない、ここまできたんだし」の意地が悪い方に悪い方に向いていく

幸福な過去の代わりにあるのが伊香保の喫茶店主(成瀬映画の加東大介さまは本当に良い役が多い)と若い妻(茉莉子さまー!これが後にアナザーサイドの浮雲みたいな秋津温泉に繋がるわけね)のエピソードで、あれに代表される「男女の縁(の不均衡)」全否定には相当ラディカルな映画だと感じた

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