『浮雲』は戦後メロドラマの代表作として扱われてるけど、実際見てみるとこれメロドラマなんかな?というか、かなり変わった映画だと思う。戦後の暗い世情(人がコロコロ死ぬ時代)と男女の腐れ縁ときたら「幸せな日々の記憶があるから逃れられない」という話になるのが定石だと思うけど…これそうなってなくない?離れられないから離れられない…しか理由がない!
特にジャンル:喪われたコロニアルロマンスを求めて(酷いジャンルだ)ならば、我らが人生の最良の時という腐れ縁の理由付けがなされそうなものだけど、女の回想における出会いの記憶が幸せそうに見えないのに驚く。本来は回想シーンでふたりの出逢いやロマンスって幸せな瞬間じゃないですか?この作品では不快な出会いと「なぜかくっついてしまった」でしかないのである。で、あとからわかるのが、ゆき子さんは最初から「喪っている女」だということで「次は喪いたくない、ここまできたんだし」の意地が悪い方に悪い方に向いていく
幸福な過去の代わりにあるのが伊香保の喫茶店主(成瀬映画の加東大介さまは本当に良い役が多い)と若い妻(茉莉子さまー!これが後にアナザーサイドの浮雲みたいな秋津温泉に繋がるわけね)のエピソードで、あれに代表される「男女の縁(の不均衡)」全否定には相当ラディカルな映画だと感じた
どっちの作品でもデコちゃん様はヨヨヨ…と泣いていますが『あらくれ』では「男」には本当はそんなに興味がない(社会の仕組み的に必要なだけ)人がこんな世界で「女」やってられっかよ!の悔しさの涙、取っ組み合いの大喧嘩や酔っ払うのと同じ怒りの表出としての涙だよなあと思った。
金勘定絡みの話の頻度高めで(商売人の話だからね)身体的なアクションも多め。こちらのシマさんは実に手も足も口もよく動く女で、木偶のように突っ立ってはいられないので終始動き回っている。なんでこんなよく働いて潔く生きてるだけの女がそんな疎まれなきゃいけないの?って話なんだけど「分」をわきまえてないということに尽きるわけですね。で、その家を飛び出す種類の「わきまえなさ」は「絶対別れねーぞ」な浮雲のゆき子さんとも実は呼応しているように思ったのだった。
「女」をやっている女/主人公の「女じゃないみたいな」女の関係の複雑な含みがいいわね。女が女を助けたり守ったりもするし、女が女を蔑むことも殴ることも当然あるよねー!人間としてのあり方を(当人たちはそんな「概念」的な言葉とはおそらくまったくの無自覚に)かけているわけだから、それはもう命がけの気迫なんである。
でもって、ゆき子さんはふたりで並んで歩くたびに(このバリエーションが本当に素晴らしい)地獄に突き進んでいくわけですが、どんな酷い目にあおうが、あれは最終的には完勝だと思う。見た目がいいだけの完璧にしょうもない男に惚れ続け追っていくのも(女を出世の糧にできないベラミという最低で最高に的を得た皮肉、原作にあるのかな、ありそう)、間違ったほうに行き続けるのも、これもまた女の自由の形であり、これもまた彼女の闘争。インターナショナルの行進と逆に歩いてく場面が最高によかった。
でもその流れで同一座公演(いつもだけど、今回特に「一座」が集まってる感が強かったな)の『あらくれ』を見ると、やはりこのコンビは本来こっちの「やってらんねえよなー!」だよね、とホッとするというか。
こちらもこちらで出てくる男が全員しょうもなさすぎるわけですが、最初のやべー夫(この上原謙さまは「山の音」と張るレベルのヤバさ)にちょっと見てられないキツさだったものの、色々あるごとに生活力と勝ち気が止まらなくなっていくシマさん3度目のチャレンジ!(こっちの唇を不満げにひん曲げてズケズケ言ってるほうがデコちゃん様らしい、そしてここでも完璧な加東大介さまのヒゲダルマ!)あたりからどんどんユーモアマシマシに。ちんどん屋みたいな洋装とか自転車にもにんまり