『浮雲』と『あらくれ』を見て、やはり前者は異色で成瀬っぽい(かつ水木洋子先生っぽい)映画みたー!と思うのは明らかに『あらくれ』のほうなんだよなー、と思ったあとで、でもやっぱり別れられない話でも別れ続ける話でも「わきまえない女」の話なんだよなーと思う。
『レベル・リッジ』ドン・ジョンソンの存在からしてまあどうしたって想起するのがS・クレイグ・ザラー。私はザラーくらい「重くて遅い(起きること全部を入れるから)」と「人がせっせせっせと動く」が両立されているのが好きなので、寄り道こそしないけど目的がスライドする点でど真ん中ではないかなー。でもなかなか面白く見られました。
ポリス・ブルータリティを描いていながら(この問題はそれ単体で成立するものではなく…)にスライドして「銃」に象徴されるものに抗う。というのを物理的に「武器を持たない戦いで最強」主人公でやってるというの自体になんか妙な可笑しみがあるのよね。ちゃんとスマホの電源を取るとかWi-Fiの再起動で間を持たせるとか「お礼にお礼を言うね」「今は味方でよかった」とか、基本的に律儀な映画が好きなのでああいうのは嬉しい。
冒頭、ヘヴィーメタル?っていきなり戸惑うわけですが(黒人男性がロードバイクで疾走しているシーンのサウンドトラックとしてこの音が鳴ることに)戸惑うのがまず先入観なわけで。全体を通してそういう捻り方をして「そのような映画として求められるとおりにふるまう」態度から常に微妙にずらしてある。かつ(「セルピコ」の名が出てくるとおり)本質としては「熱い」アメリカ映画の伝統も踏まえている。面白いバランス。
場面ごとの切り上げ方がすごく上手な印象を受けた。焦らないし、無駄にも引き伸ばしていない。止まるところではしっかり止まるし、動くところではしっかり動く。美しい肉体の美しい運動を見ているのと同じ種類の、映画そのものの身体性みたいなのが感じられる。
全体の流れとしては「これまでもいたし、これからもいる」に集約されているのだけど、そこだけにどうしても収められないものが溢れ出してて忘れがたいのだ。底が抜けたのをダクトテープで塞いだボロボロのリュック。「若くて美しい、なんだってできる」に「あんたも俺もそれが嘘だとわかってる」と返していたこと。幻想を抱くシーンのドリーミーかつ猥褻なネオン。激しいホモフォビアの一方で見回りも仲間の息遣いも気にすることなくベッドでみんなが手淫にふけっている就寝後の赤いライト。敵を殺せるように、の神への祈り……美と殺戮のすべて、という言葉につながるような。
それにしても『ジャーヘッド』ってやっぱり当事者にリアルな手触りのある戦争映画なんだな。
不条理で矛盾した男社会の究極で命を脅かされながらもなお「諦めない」者になった主人公が終盤に「諦めない」を別に向けるとこもすごかったな。あの落とし所からあのエンドクレジットは凄みしかないやね……いやよいものを見ました。
『インスペクション ここで生きる』がすごいよかったんですよ。これは好きなほうのA24。ゲイであることを頑なに受け入れない母親とは関係断絶気味、その日暮らしに限界が来た青年が海兵隊に入るべく訓練に参加して、死にそうな目にあいながら自己を確立していく。監督自身の実話をベースにしたストーリーなんだけど、ものすごく美しいものもおぞましいものも同じ美しさで映っている。「人を殺すプロ」になる訓練の場で自然発生する男性らしさの誇張と性的な幻想。
『絶望死 労働者階級の命を奪う「病」』にも書いてあったし、それこそ変な方に有名になってしまったJDヴァンスの『ヒルビリー・エレジー』でもそうだったが「一回チャラにして立て直せる」「属性<実力での正当な評価を受けやすい」「死ぬほど頑張って何かを達成する経験がそもそも生活環境的に不可能だった若者たちが初めてやり遂げて自信をつける」場所であるというアメリカ特有の「軍」の話、この異様さの上に世界が成立してんだよなあ……と毎回思う。で、今作がいいのは差別意識や暴力に溢れた場所であること、非常に「美しい瞬間」が紡ぎ出されること、不条理に従い人を殺す訓練で怪物を作る場所であること、すべてを「じっと見る」ことができているからで、だからこそこの主人公が未来の監督なんだよな…と
結構いいとこもあって全体的には楽しかった。関係者の声で語られてるところでの「母親世代が働きに出ていたので家のことを教えてもらう機会がなかった」世代から特に求められた、とか。「便利にする」「楽にする」ではなく「美しくする」価値観の新しさとか。あと収監前のカリカリした映像とかあったけど、あれは別のドキュメンタリークルーが入ってたのかな?それとも当時から関係者だったのかな?
モデル→主婦→カリスマ主婦、ルートからビジネス進出したのかなあと思ってたんだけど(初代「インフルエンサー」というコメントもあるのでそれでも半分は合ってる)実際のところ、モデル→主婦(子育てはあんまり楽しくない)→株式仲買人→主婦(家全部自分で改装して完璧にするの超楽しい)→ケータリングビジネス→メディア進出、というルートだったんでもともと動いてないと死ぬというか極端に「仕事が楽しい」タイプの人なんだな、そりゃアメリカ的「象徴」になる資質全開だわ……と思った。生活を美しく、の美しさのなかには当然「自分」も含まれる女のバイタリティ。変化への適応もすごいし、前ほどperfectを求めなくなったといいつつ終盤の表情にやっぱり自己完結度の高さも伺われるのだった
Netflixで見た『マーサ』、今のマーサ・スチュアートのドキュメンタリー(本人インタビュー中心)が面白くないはずがないのですが、監督が『ファッションが教えてくれること』(アナ・ウィンターのやつね)のR・J・カトラーということもあってそこそこ穏当な伝記におさまっている物足りなさはあったかなー
いや、これでも十分に底知れない(元気すぎる)人として映ってますが、やはりあの「私が太陽」のメディアモンスター性ってもっと一筋縄ではいかない気がして……でもそんな人に言いたくなさそうなことも語らせたのはそれだけの人間関係作れてたってことなんだろね。
perfectly perfectを追求する女、自己主張のめちゃくちゃ強い女(しかもやってるのが「感じがよい」存在であるべきと定義づけられてきた「主婦」「生活」ビジネスのカリスマだ)、しかもがっつり稼ぐイノベーターであり実業家であることは男性なら「辣腕」評価される部分で全部憎悪の対象になる……の筋を立ててあるの、真実ではあるとは思うし今ドキュメンタリーでやるならまあそこですよねという感じだ。でも引用されたジョーン・ディディオンのコラム(素晴らしい)では皮肉と賞賛が渾然一体になってるのがよかったけどそういうとこは薄まってた気がする
「山田太一からの手紙」見て思ったんだけど、今って山田太一ゾーンにあるのって、もしや韓国文学なのではないか(ドラマや映画ではないように思う)
悪魔と夜ふかし見てきた。ちょっと展開に触れる
きちんと撮ってるなあという印象と、楽しかったー!という印象と。みんなが見るということ/みんなに見られるということの奇妙な関係。カメラ目線という「よく考えると奇妙なもの」への眼差しが面白い。リリーちゃんの「じー」が実に良い味、ただ見てるだけなんだけど。なんかこうなるとオカルトではあってもおもしろすぎてホラーではないような気がするけど、キング先生的な意味ではホラーエンタメど真ん中ともいえそうだ。ゴースト映画ではないけど監督とはゴーストの解釈も一致してそう。
この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りしました、みたいな最後の完勝宣言に笑った。これは「TV番組」というフォーマットの使い方としてかなりワザあり、終盤に「あれ?TV番組のマスターテープって前提を逸脱してないか?」と思ったのだが、それならまあ仕方がありませんね!みんながビジョンを共有するものとしての映像という前振りがきいている。一方でそこまではリアルタイム進行のTV番組性に強く執着しているのも面白い。大暴れパートがガサツなのも楽しい
この時代より少し後、私が育った80年代にもまだかなり残っていた「未知なるもの」へのTVの野蛮な手つきを思い出しつつ。でもまあ正直やっぱワクワク感もあるよね、よく企まれた映画だ
「ふたりの女、ひとつの宿命」が素晴らしくて(凄絶な地獄のメロドラマなので体力は使うが)メーサーロシュ・マールタこんなによいのか…(2ヶ月ぶり2回め) そして若いときから国境を超えまくって素晴らしいお仕事をしている頑なに唇を引き結んだユペール様の完璧さたるや凄いわね。声は割とはっきりみんなアフレコなんだけどユペール様はフランスだしアーコシュ役の方もポーランドのアクター、マカロニウエスタン形式だ!
青空娘、オープニングクレジット段階では青空に叫ぶノリか…これは面白くなるんかね…という感じがしてたが、めきめき面白くなっていくのがすごかったな、白坂脚本の極端な手際の良さとけたたましさが母恋娘のシンデレラストーリーを陳腐にしない、というか急がば回れも含めた最短距離で勝ちに行くあやや様最強伝説みたいな話になってて笑った 芝を払わせるのとかもう!プリンスチャーミングが1人では足りないのもあの娘さんなら当然だよ
こんな話でもとるかとられるかの気迫の「愛についての闘争劇」になるのすごいやね、あんな娘さんにちょっとしたブルジョアジーが勝てるわけがないのでラストの父ちゃんのアレに泣き伏すアレは全然和解ではなく「負けた」の号泣なのだと思われる、父ちゃんは全然わかってないまんまであろうけども
やたら豪華メンツの中高年女性のバリエーションが嬉しい ビビデバビデブーのかわりはキャバレーの豪傑ママさんの了解🙋♀️ってのがね。ああいう気持ちの良い女が出てくる映画はいいもんだよね。
ペトラ・フォン・カントの苦い涙見たんだけど、やっぱり私はファスビンダーわからん側のままかもしれん…不安は魂を食いつくすはすっごい好きだったんだが、あれはそもそも元ネタが好きだからな…もう少し見てみないことにはわからんのだが、うーん…すごいとは思うんだが…
資本主義と愛と社会圧はどういう比率でかけようとも無様で惨めな計算式になる、みたいなとこは興味深いんだけどさ。やっぱりわたしは演劇的空間が苦手なんかな、カット割っててもワンシーンワンショットに見えて狭さを強調しつつもかなり意図を持って動かしてあるカメラワークそのものは素晴らしいと思うんだが、それでもなお…
第一幕のひたすらベッドで喋ってるペトラさんでかなり疲弊してしまい、二幕の口説きでもまだしっくりこなくて、女性だけの密室ドラマとして支配と被支配の捩れがみっともない方向にグイグイいく第三幕でようやく「入れた」感があったし、あのパートのわかりやすい酷さがいちばん好きだった。とびきりかわいい赤ちゃんみたいな顔のハンナ・シグラだからよいのよね、無邪気に傷つけるんではなく相手が傷つくように傷つくように振る舞う、その意味をわかってさらに縋り付かれることまで予測してて、それでいて何も考えてないような不思議な顔をしててね
勝手がわからない