あまりにもTLのマッコールさん人気が高いので重い腰をあげてイコライザー1作め見てたんですが「こういう映画」のデンゼルが見たいんだ!という監督のやたら高いモチベーションが全面に出ているとこ以外は割と普通の、ちょっと前のアクション映画(今ほどアクション釣瓶打ちをやらなくていいのよーという気分の時期)なのね。フークア、良くも悪くも「ちょっと前」のリズムの人だと思う。
丁寧な暮らし、丁寧な殺し!でいくのかと思ってたら後半のクールガイは爆発に振り向かないー!からのそれがやりたかっただけだろの土砂降り〆で大笑い(でもそのあとは全部いらなーいって思っちゃったな…)
マッコールさんとジョン・ウィックさんが近い時期に出てきて違う方向で「やべー奴怒らせちゃう系」をそれぞれの個性の違いのままに展開しているのはなかなかに興味深いことで、ジョン・ウィックさんはホームセンターの正社員やってけないよな…
デヴィッド・ハーバーさんがまだおいちゃんになる手前でかわゆーとかそっかここでヘイリー・ベネットなるほどとか、なんか色々気を取られておりましたが、まあでもやはり街角の紳士→ガチに目が虚無になる人としてのデンゼルの使い方、こういう方向でどうでもいいジャンル映画にもってきたのは確かに慧眼よね。
『オテサーネク』を見ていました。シュヴァンクマイエルは『アリス』だけ見てる。こっちのほうがより厭さに癒されるな…食べることの気持ち悪さにこだわり抜いた粘っこいテクスチャの素晴らしさや造形の楽しさもだけど(目と話と口をひとつの穴にまとめる感覚よ!)元ネタがあるのっていいな。イマジネーションの方向がひどいユーモアに包まれていて、グロテスクなのがおかしさに全部繋がっている。それにしてもなんでかチェコは少女やっべーな話が多い印象、なんで?
実は見てなかった有名な映画を見る部久々に。『真夜中の虹』を見たのですが、ちゃんとカウリスマキ見よ…ってなった。
や、学生の頃に『浮き雲』を見て「何がそんなに評価されてるのだろう」と首をかしげてから約四半世紀くらいかな、そうして初めてわかりましたよ、予想を超えて事態が悪くなり続けるのに泣きも笑いもせず生きていることのおかしさと、それでも生きていけてしまうことのゆかいさを全肯定する意味が…幌のあがらないコンバーチブルとラジオだけの男が愛する人を得たなら、不幸の底を打たせてなお彼らが真顔で全然めげない話にしなきゃならんのよ…それが映画の美しさというものなのよ…
思ったよりフィックスばっかりではなくて、的確なところまでぐーっと動いてすっと止まるカメラポジションとか、普段は苦手な暗転が面白いリズムを作ってることとか(途中まで暗転がやたら多いので停滞→後半は暗転がぐっと減ってジャンプカットになるのでポンポン進む)技巧部分の魅力にも気づけた。台詞なしでここまでいけるんやぞの絞り込みも今だから凄さがわかる。
にしても何より感動するのは、顔の力…画面の端に一瞬映るくらいの人まで素晴らしい顔しか出てこない…なんて素敵な顔映画…
ザ・フォール/落下の王国を見たので…展開に触れています。そんなにポジティブではない感想です。
私はこういう物語が人を救う話も映画についての映画もとても好きなのですが、なんかあまりピンとこなくて、それは御伽噺が1915年の若い男性と少女による世界旅行想像力のビジュアルにはどうしても見えない、あまりにも現代…という難しさを感じてしまったからだと思うの。
色彩や衣装デザインが強すぎて、都度の画像として切り出したら素晴らしくても、彼らがそのように見ていたと演出されることが正解だとはどうしても思えない、違和感の理由が言語化できないのがもどかしいんだけど…だから御伽話パートになるたびに眉間に皺がよってしまった。こんな「美術!完璧!」なビジュアルでいかないほうが絶対切実になる話じゃないです?
リアルパートはどれもとてもよかったんだけど。根本の設定に疑問はあるとしても(あの設定の5才の女の子があのクラスの病院に入院できたもんなのかね…?)。
アレクサンドリアのカティンカ・アンタルー、とてもとても素晴らしくて、ここは本当に映画の魔法の体現だった。あんなにちゃんとこどもの動きと喋り方に徹していられるこどもさんがいたのが奇跡だなー。悲しい話になりそうでそっちにいかない終盤、意外に感じつつも彼女で説得しきれた感があった
「十字架」をU-NEXTで。チリの軍事クーデター直後に各地で起きた左派弾圧(国家による虐殺)の真相についてのドキュメンタリー。
私はあんまりこういう進行好きではないなあ。飛距離がない感というか…独自スコープ(極端に美しくてポエティックなパトリシオ・グスマンと比するべきでもないかなとは思うが、私はあれくらいがいい)がほしい。これはこれで意義があるのだけど、なんか肌に合わない感。終盤のたくさんの十字架ショットに入るビデオノイズの入れ方とか、なんかなー。今の映像がときどき「当時の映像」に見えるというのは興味深くはあったけど。
ひたすらに時の止まったようなその土地の映像の長回しが続き、当時の書類や写真、そこに実際のその地域住民たちが証言を読み上げるのが重なっていく。んだけど、そこの相乗効果があんまり見えないような…今も彼らを殺した人たちの工場で持ってる町なんです、はチラ見せでなくそこが軸になってよかったような…
『ハウスバウンド』DVD出てたので観たら、この監督はミーガンではだいぶ大人しくしてたんだな…とわかりました。元気いっぱいやりすぎノリノリなジャンル横断(底抜けアクションホラーサスペンスコメディ…というか、何これ)倫理的に変(割とダメ寄りだけど、変のほうが勝ってる)映画で結構面白かった。すごく未体験ゾーン映画。
強盗失敗で保護観察中の主人公がかなりどうしようもない女で母ちゃんも母ちゃんでウゼー!なんだけどこの人里離れた自宅から出られなーい!そんなギスギスした親子が暮らす家で怪異現象が…この家には何かがいる!というところから予想から斜め下にズレ続けて、何これ(2回目)。地下室で突然レコーディング始めちゃうあたりでインシディアスとかも連想して、あーこれはジェームズ・ワン組っぽい!と思ってたら、あははははは、そういうあはははは
画づくりの面はそんなにパッとしてないかな、キャラクターの奥行のなさももったいないかな、という印象なんだけど、少なくともこんな元気いっぱい物理攻撃手近なものでドーン!のバリエーション見せてくれたら嬉しくなるわよ。
ジョン・ウィックシリーズの話。4の内容にも触れています。
「この世界はそうなっている」の作り方の変遷について。
1~2の途中まではヴァンパイア映画のヴァリアシオンだった、と思う。「現世に降りていた闇の王子の帰還」設定、あの世界ってまだ闇社会/そうじゃない社会がときどきだけ重なる別のものだったと思うんですよ。
そこから2~3で一番変わったのが、このユニバースの住人、半分くらいは殺し屋なん?という世界に変容していったことではなかろか。ともあれ3のラストでそういうユニバースであるがゆえの絶対性を持った組織を壊滅する方向なのかね?ネオとモーフィアスだし?と思ってて。
しかし予測は意外な方向に裏切られる。
今回の4ではまさかここまでというほど東アジア的なほうに振り切られるのだ。単に舞台設定や俳優のルーツだけの話でもないと思うのよね、映画全体に漂う哀しさにやたら東アジアみがあるの。
組織は絶対。主君の乱心でいくらでも兵が死ぬ社会であることに誰も疑問は抱かない。システムを変える発想は一切ない。一方で尊厳と義を傷つける仁なき主君に(ルールのなかで)牙を向くのは称賛されるべき態度とされる。
で、確かにこの方法「そのユニバース」を継続する唯一解ではある、だよな…いやどこまで狙ったのかわからんのですが…
グランツーリスモ、すっごくオーソドックスなつくりなんだけど、不思議に古臭くないというか、見たことあるもののなかに見たことなさが違和感なく同居してるというか。あまり作家性を感じないタイプの普通のアスリート映画に見える一方、この軽さは一貫して死が軽い世界を作ってきた人ならではなのかもしれないな、とちょっと思った。
今世界でいちばんの絆され担当になってるハーバーさんがかわいいのは当然として、オーランド・ブルームって私が若い頃はヘイデン・クリステンセンと並んで下手な俳優代表みたいな扱われ方してたけど、いやいやどうして良い中年俳優になっていて、実に素晴らしいと思いました。
私は車の映画はあまり得意ではなく(Rushもフォードフェラーリも良い映画だとは思うけど…みたいな感じ。shipにも熱心ではないしな…)今回もそこで引っかかるかなーと思ってたんだけど、全然大丈夫だった。「カーレースの映画」ではなく「グランツーリスモの映画」を追求する形にちゃんと構成されてるので。ということの必然として、ある意味企業PV的ともいえる(AIRも言われてたね)。しかし私はそのあたりの割り切りがすっきりしてるほうがずっと好きっぽい。
『ダークグラス』を見たのです。日蝕で始まるアヴァン、主人公の赤い唇のなんとも言えない尋常じゃなさ。からの四つ打ちのシンセサウンドが乗ってきてグイグイいくわよー!な殺人シークエンスのえげつなさ、ルビー色の血の大盤振る舞いでグイッと引き込む冒頭、さすがショック演出のベテランの風格ってこうだわよね、めっちゃいいのでは?とか思ってた。少なくとも事故後の生活立て直しのあたりまでは傑作の予感さえ覚えてた。怖がらずに生きるのよ!という話になるのかなと思って。
が、ゆるゆると真面目にトンチキに振れていって、ズコー!の連続に…ピンチの作り方がシュールすぎてそれ要る?なシークエンスだらけに。終盤では完全に緊張感はゼロになり半笑いで終劇あるいは襲撃。そんなネタ使いありですか?
でも紳士な映画ではあるので無駄な性描写とかないし主人公が娼婦であることを悔い改めるべきこと描写には一切せず、良い客もいれば最低な客もいるだけ、警察や医者も彼女をいじめない、少年も事情をサラリと理解する。そういうのは案外貴重で好きよ、無駄な意味から離れる態度にまっとうさが現れる。
しかしもうちょい「2人だから」の立ち向かい方を作っても良かったんではとは思うが。それを求めるべき監督ではないとも思うが。
『イカロス』の大丈夫かこれ?ってなりながら弁護士とか出てくるリアルタイムセッションの感じに比べると、こっちはストーリーが明確すぎるというか、既に検討され尽くしたものの再構成に徹してるぶん、その情報提示の仕方が上手すぎると感じるのかもしれない。イカロスで既に盛りと煽りうまいなと思っちゃう構成だったし。色々の問題含みな状況からつい色々勘繰ってしまうけど、この事件についていえばトルコ側の「何してくれとんじゃ…」を素直に受け取ってもいい気がするんだが、これも誘導されてるのかもしれない、とか。単なる穿ちすぎかもしれませんが、ここまで語りがスムーズになるとそういう弊害もある、気がしたのです
しかしそれにしたってルーマニアの『コレクティブ』見た時も思ったし、問題のスケールはさておき日本の『はりぼて』見たときも思ったけど、これどこからどうしたらいいのかね…のため息しか出てこないドキュメンタリーは面白いから困るんだよな…面白がってられないから面白いというジレンマ、割と不健全な映画的快楽ではある。
なんかなー、国家運営のトロール部隊とかシュールじゃないですか。でも多かれ少なかれ世界のどこでもそれはある。企業が自由経済上で情報インフラを取るってこういうことだし、それ以外のところも似たようなこと、で。
「ジャマル・カショギ殺害事件 真犯人は逮捕されない」をU-NEXTで。監督が『イカロス』の人なので身の危険のありそうな題材を…というのには驚かない、のだがこんなサイバー戦争みたいな話だったのか…というのがもう。なんかもう。独裁国家に反抗したら恐ろしいことが、というレベルの話でもない気がする。
Twitterがかなりの重要な要素を占める話なだけに、今のTwitterのしっちゃかめっちゃかと合わせて資本主義の行方どこなんこれ…みたいな気持ちにならざるをえない。まだサウジと取引しかけてたのがベゾスだったのはマシだったんじゃないかね…とかも思った。いやそこが主眼の話ではないのだが。
興味深く見た一方、この監督に撮られたら陰謀論にもあっさり引っかかってしまうんだろうな私、という懸念も少し。
勝手がわからない