窓ガラスの向こう、区画が区切られて一つのフラット以外は真っ暗なビル、真っ暗な車窓。別の世界がそうになってありえた世界を反復しながら増やしていくけどしかしここに私は1人。『異人たち』

ところで『さざなみ』が配信で見られないのなぜ…

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異人たち、常に何か恐ろしいことが起こる気配が漂っていて不安を覚えながらみていると最後ふと恐ろしいことはもう全て起こってしまったのだと気付く。

さるすべり さんがブースト

やっと映画館に復帰。ということで『異人たち』見てきた、しみじみとよかった。ファーストシーンからガラスや鏡に映る姿の無限の広がりに人間の哀しさがうつっている。ありえたかもしれない複数の人生。いろんなことが曖昧なままなのも物語のあり方として好きだった。そうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな…アイアンクローに並ぶタイトルの良さ(わたしたちみんな!)も光る。

アンドリュー・ヘイは「親密な他人」(異人というより他人のニュアンスが生まれている気がした)の話が本当にうまいですね。みんな後悔してるし、みんなさみしいし、やさしくしたいしやさしくされたい、を抱えている、その感情は生死を問わず存在し続ける、そうでしょう?

台詞で言及されることもあって、キングの影響も強く感じられる(ホラーとは愛の物語である)ゴーストストーリーとして非常に好ましく見ました。私はアフターサンのよさはよく分からなかったけど(ポール・メスカル以外にも共通項は多いと思う)こっちは素直に好き。「足りることなんてないのよ」に込められるすべて。

しかしアンスコさん本当にうまいな、顔がこどもになってるときと普段の表情とどっちつかずになってるときが全部違う…その潤んだ目や泣き出すのを堪えるような口元にただただ見入ってしまうのだった。

「こちらで袋に詰めてください」の英訳がすごいことになってる写真をいまだにスーパーや図書館などで不意に思い出してしまい辛い。

しかし政治は福祉の改善に興味がなく実質「何を諦めるかという選択肢」しか与えないという状態、今の日本だ。労働運動の制圧に銃で武装した警官がトラックで何十人も投入される様子はファシスト政権そのままだった。

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「女性として生きること」の中で女が担ってきた単純労働の一例としてタバコの葉を串に刺して干す仕事の様子が流れるんだけど、辛さを紛らわすための歌とタバコの葉に埋もれてうたた寝をする子供の姿によってタバコ小屋がどこか夢のような雰囲気になっていて面白かった。女たちの労働の象徴としての糸巻きから工場の巨大な織機の部品にオイルをさす姿に切り替えるだけで近代化が労働にもたらした決定的な変化と従属的な立場を強いられる女性の立場の変わらなさをみせていてすごかった。共働き夫妻の共闘子育てとか工場の塀に囲まれたことで男女に芽生えた労働者としての連帯意識という話の展開が出てくる点も良かった。

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『イヌとイタリア人、お断り!』を観た後でヴィットリオ・デ・セータやチェチリア・マンジーニのドキュメンタリーを観ることができた幸運…ありがとうシネラ……

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しかし犬を捕まえて川に沈めようとするわ蛇は振り回す泥の中で取っ組み合ったかと思えば頭を掴んで川に突っ込む。抜き差しならない出口のない貧困の中で生きていかざるを得ない彼らの状況をナレーターは語るけれど子供達の尋常ではない躍動に引っ張られるようにちょっと可笑しい。「無二の親友でいつもつるんでいるが些細なきっかけでつかみ合いの喧嘩をする。1人は泥棒に1人は警官になった。」
警官が来ると蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、逃げそびれた弟らしき小さな男の子を連れ帰りに戻ってきた少年はどれだけあんたらが水遊びを禁止しようが戻ってくるとふてぶてしく宣言する。日が沈んだ川辺で長い丸太に腰掛けてタバコを吸うシーンの静謐な美しさ。
「女性として生きること」労働者としての貢献を無視され続け、年がら年中子供を作らなければ神父に「神の恩寵を無駄にしないように」と諭され、出世の見込みのない単純労働に明け暮れ教育は受けられず、朝から晩まで働かなくてはいけない母親の代わりに上の娘が家事と兄弟の面倒を見ることになり11歳にして小学2年生の学力しか身につけられない。「女3代でようやく小学校2年生の学力に辿り着いたのだ」というナレーションが苦しい。

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福岡市立総合図書館シネラでチェチリア・マンジーニ作品集を観た。「都会の名もなき者たち」ローマ郊外の10家族が雑魚寝するアパートの狭い一室から街の中で電車賃もない少年たちがたむろしゴミの山から拾い集め石灰を口に含んで吹き付けて遊びどこからともなくかけてきた群れに溶け込み丘を駆け下り川に飛び込む。「女に言い寄れば一人前の男になれたような気になるのだ」というナレーションのマチスモに対する眼差しと少年たちの尋常ではないエネルギーの躍動を映す眼差し。
「ステンダリ 鐘はまだ鳴っている」ブーリア州の葬式に集う女たちの様式化した嘆きのドキュメンタリーでスカーフを三角に折って両手に持ち棺を囲んで左右に揺らす身振りや踏み鳴らす足、女たちの顔のアップ、背景に止まる男たちの横顔、とダンスみたいにリズミカルに切り替わる。最後棺が男たちの手で家から運び出される時現れる司祭が首のとこでスパッと切られていて棺を囲む女たちとの対比ですごい画面になってた。
「マラーネの歌」あ、あ、あ、あ、と声を上げる少年の顔が顎から見上げるような角度でスクリーンの下から徐々に上にいく冒頭が無茶苦茶かっこいい。そして子供たちのスーパーノヴァみたいなエネルギーの爆発が凄まじい。しかし栄養失調寸前で空腹を小さな川魚やカエルで紛らわす状態でもある。

ガソリン給油中に何やってんだろ…から「え、電話がない。」で何を投げ捨てていたかに気付く流れ。後はただなすすべもなく退路が絶たれていく様を眺めているしかないという恐怖。眠りが浅かったみたいで無茶苦茶眠い。夜中に見るものではなかった…

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怖かった…緑の牢獄。転げるように逃げていく後ろ姿と森が緑の牢獄に見えた後のMary Last Seenの一文の容赦なさ。

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アイアンクローはショーンダーキンなのでまあ間違いなかろうという安心感があります この短編みたときはこんな怖いのよう撮るな…って震えた vimeo.com/87582861

どうせだったら明日が夏日がよかったよお。寒いのは嫌だよ。

明日小倉に行くのに気温の予想に怯えてる。せめて早く寝よう。

The Beaux’ Stratagem、観ている間ずっと笑っていて歌とダンスと戯画的仕草と大袈裟に倒れる演技のほとんどバレエな華麗さに感心しつつ何しろずっと笑っているのでほとんど記憶がなく大団円でみんな踊っている様子に多幸感が込み上げてきてやみくもにめでたかった。でもフランス人に化けたアイルランド人が反逆罪で縛首だぞとイギリス人に脅されるとこちょっとウッとなったりもする。キルケニー!に涙出るほど笑ったけど。

まだレモンが後三個あるけど何を作るかな。レモンカードかタルトオシトロンか。

「こういう時ってどうするもんなの?」「そうですね、皆さん迅速な対処を選ばれますね。」という部分最高に好きだった。ザ・キラー。

さるすべり さんがブースト

『ザ・キラー』見たわよー。身も蓋もなくて面白かった!ようやくフィンチャーが「キャラクターのドラマ」をやめてファイトクラブみたいなモノローグで引っ張り続ける「世界観」のダークコメディをやることを自分に許した感がある(睡眠薬の効き目の読み上げとかそのままパラニュークやんけ)。

ファスベンダーの撫で肩がきいていて、立ち姿のそこはかとないおかしみがキメキメにならなさを担保してくれる。無感情なわけではなく無感情を言い聞かせてる人間にも機械にもなれない間の身体。その盛り上がらないお片づけタイムに同行する2時間。

で?という話をこれだけ面白くできるんだから素晴らしいわね。せっせせっせと人が動いてるだけでドラマはこれくらい虚無でいいのよ。世界のシステムは虚無で、俺も虚無で、しかし最強の虚無は虚無ゆえに生き延びる、ルーティン、ルーティン、ルーティン。普段と違うことはやらないほうがいいものさ。ルーティン、ルーティン、ルーティン。

なんかソダーバーグ(昔から仲良しで近い存在と目されてたときもあるけど実はかなりタイプが違う監督)にいちばん近づいた(けどやはりそこはソダーバーグよりだいぶわかりやすい)フィンチャーが見られた気がする。微睡ながら細かく震える瞼のごとく、動き続けるただそれだけよ

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