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発想が同じというのと、表現が同じというのは別の話だと私も思います。ただ、十二音がまったく同じでも季語が変われば新しい良い句になるというのは、よく聞く話ではありますが、私はあまり信じてないです。

自分も明らかな類想句を句集に載せているから(あとで気づいた)、あまり他人のことは言えないのだけれど。でもつい気にしてしまう。直接言ったりはしないけれど、メモしてある…。

いつだったかの角川俳句賞の選考委員会で、仁平勝さんが「ぼくは類想は気にしません」というようなことを言っていて、驚いた記憶がある。類想があってもいいのなら、賞って何なのか、と思う。

季語が違えばいいじゃないか、と開き直る手もあるけれど、そうはしたくない。難しいね。

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先日、俳句関係の有名出版社では類想句のチェックをしているらしいという話を書いたが、せいぜいネットで検索するくらいだろうから、類想句を完全に排除するのは無理なのではないか。今、ある句集を読んでいるが、やはり類想句があるので、そう思った。

事前にいろいろな人に読んでもらえばいいのかもしれないが、それも面倒だし、結果は自分で引き受けるしかなさそう。

私も特攻平和会館へ行ったことがあります。確かに涙を誘うものですが、誰が特攻を命じたのか、ということが一切触れられていないことが疑問でした。その上に、このような使い方がされているのかと、驚きを超えて恐ろしい。
>BT

鈴木牛後 さんがブースト

「宮崎や鹿児島でスポーツ選手が合宿をおこなう際に、知覧特攻平和会館訪問を日程に組み込むことは、よくあります。」

「「特攻平和会館で選手たちは「みな、肩をふるわせて泣いていた」けれども、それは特攻隊員が可哀そうだからではありません。眞鍋政義(一九六三年生)監督はその経験をふまえて「日の丸の重みを認識させ」、「我々が負けると日本が負ける」と言い続けたそうです。彼女たちの涙は、究極の「日本代表」である特攻隊員と自分たちを重ね合わせ、日の丸の重圧をプライドとパフォーマンスに転化するために流されたのです。」

井上義和『未来の戦死に向き合うためのノート』(創元社、2019年)118-119頁より

*上掲の眞鍋監督のエピソードは、注によれば伏見学「勝利をたぐり寄せる全日本女子バレー・眞鍋監督のコーチング哲学」に拠るとのこと。

鈴木牛後 さんがブースト

井谷聡子さんのインタビュー記事だ!!
QT: rss-mstdn.studiofreesia.com/@a
[参照]

:rss: 朝日新聞デジタル  
誹謗中傷を世界に拡散させた「政治的背景」とは 五輪女子ボクシング http://www.asahi.com/articles/ASS8F0GWLS8FUTIL008M.html?ref=rss #asahi #朝日新聞デジタル #社会 #パリオリンピック #朝日新聞 #ニュース #新聞

昨日の晩、流星群が見えるというトゥートを見て、窓を開けてみたが、関東平野の真ん中の我が家では星などほとんど見えなかった。昨年の夏までは満天の星の下で毎日過ごしていたことを思い出して、そのときの夜の冷ややかさまで鮮明に感じた。

ふだんは何とも感じていないと思っていたけれど、自分にも郷愁ってあることに気づいた一瞬。郷愁を感じたら敗北、みたいな感覚がどこかにあるのかも。

関東は暑いだろうからと思って、晴雨兼用の傘を買ったのだが、結局雨傘としてばかり使ってる。出したりしまったりが面倒で、これくらいの暑さならなくてもいいんじゃない?という感じになってしまって。男性がほとんど使ってないから、というのは考慮していないつもりだけど、心の奥底にはあるのかも。

ありていに言えば、出版社も商売だから、そのへんは手加減?しているということなのだろうな。

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ある結社主宰に聞いたのだが、俳句関係で有名な出版社では、句集中の類句をチェックしているとのこと。私が角川から句集を出したときにはそのようなチェックはなかったので、類句は見当たらなかったということなのだろうと思う(よかった)。

でも、角川とかふらんす堂から出ている句集でも、明らかにこれは過去にあるだろうという句はいくらでもあるように思う。もっと言えば、そういう句を排除したら成り立たないというような句集もたくさんあると思うけれど、そのあたりはどうなのかなあ?

「俳句の作り方」というサイトでも、例句を原典に当たってはいないのね。信用というのはそういうところから来ると思うのだけれど。

鈴木牛後 さんがブースト

「長崎平和宣言に賛同される方は、「賛同」ボタンをクリックしてください」

city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3070

今日、樹上でカタカタいっている声が聞こえて、たぶんこれがヒグラシなんだろうな。初めて聞いたけど、想像していたのと違う。ツクツクホウシは、何年か前に俳句甲子園に行ったときに聞いたけど、やっぱり想像とは違った。実際に聞いてみなければわからないもの。それもみんな新鮮。

結社の選のこと 

結社誌で自分の句が巻頭になったとき、SNSに書くのをためらうというのは、たぶん自分が結社主宰の選を全面的に受け入れていると思われたくないということなのだろうと思う。それならなぜ結社に入っているのか、と問われそうだが、深い意味はなく、人間的つながりという感じ。

それでいて、主宰に句を評価されればありがたいと思うことも事実。ひねくれているかもしれないが、自分の中では主宰の選を受けることと、その結果を盲信しないということは両立している。

「雪華」のHPを更新しました。散文置き場には、池田澄子「月と書く」評(五十嵐秀彦)、橋本喜夫「いのちの俳句鑑賞」評(鈴木牛後)をアップしてあります。yukihana-haiku.com/

(これはXにも投稿しているのですが、自分が巻頭のときは巻頭句の紹介を省略しています。どうも自分のことを書くのは億劫というか気後れするというか…。)

昭和のころなら「無頼」もひとつの個性だったが、今は反道徳的なことを言うのはなかなか難しいということはありそう。作者イコール俳句、というイメージもまだまだあるので、よけいに。

結社のネット句会にたびたび参加しているが、どうも句の評価の基準が「人情」のようなものになりがちで、自分でもついそっちに寄ってしまいそうになる。(自制はしているが、つい寄ってしまうこともある)。

そこを突き抜けた句を作ればいいのだけれど、そうかんたんなことではなく、もやもやしたりすることも。結社では主宰の評価の対象にはなっていなくて(評価がすでにある程度定まっているということ)、その辺は気楽なので、マイペースで行こう。

スポーツに限ったことではないだろうが、スポーツ観戦ってそうとうに人間の理性を失わせるものがあるんだろうな、と思う。闘争の代用品みたいなものだから、当たり前かもしれないけど。

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