発想が同じというのと、表現が同じというのは別の話だと私も思います。ただ、十二音がまったく同じでも季語が変われば新しい良い句になるというのは、よく聞く話ではありますが、私はあまり信じてないです。
先日、俳句関係の有名出版社では類想句のチェックをしているらしいという話を書いたが、せいぜいネットで検索するくらいだろうから、類想句を完全に排除するのは無理なのではないか。今、ある句集を読んでいるが、やはり類想句があるので、そう思った。
事前にいろいろな人に読んでもらえばいいのかもしれないが、それも面倒だし、結果は自分で引き受けるしかなさそう。
「宮崎や鹿児島でスポーツ選手が合宿をおこなう際に、知覧特攻平和会館訪問を日程に組み込むことは、よくあります。」
「「特攻平和会館で選手たちは「みな、肩をふるわせて泣いていた」けれども、それは特攻隊員が可哀そうだからではありません。眞鍋政義(一九六三年生)監督はその経験をふまえて「日の丸の重みを認識させ」、「我々が負けると日本が負ける」と言い続けたそうです。彼女たちの涙は、究極の「日本代表」である特攻隊員と自分たちを重ね合わせ、日の丸の重圧をプライドとパフォーマンスに転化するために流されたのです。」
井上義和『未来の戦死に向き合うためのノート』(創元社、2019年)118-119頁より
*上掲の眞鍋監督のエピソードは、注によれば伏見学「勝利をたぐり寄せる全日本女子バレー・眞鍋監督のコーチング哲学」に拠るとのこと。
井谷聡子さんのインタビュー記事だ!!
QT: https://rss-mstdn.studiofreesia.com/@asahi/112953960448800757 [参照]
ある結社主宰に聞いたのだが、俳句関係で有名な出版社では、句集中の類句をチェックしているとのこと。私が角川から句集を出したときにはそのようなチェックはなかったので、類句は見当たらなかったということなのだろうと思う(よかった)。
でも、角川とかふらんす堂から出ている句集でも、明らかにこれは過去にあるだろうという句はいくらでもあるように思う。もっと言えば、そういう句を排除したら成り立たないというような句集もたくさんあると思うけれど、そのあたりはどうなのかなあ?
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https://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3070000/307100/p036984.html
「雪華」のHPを更新しました。散文置き場には、池田澄子「月と書く」評(五十嵐秀彦)、橋本喜夫「いのちの俳句鑑賞」評(鈴木牛後)をアップしてあります。https://yukihana-haiku.com/
(これはXにも投稿しているのですが、自分が巻頭のときは巻頭句の紹介を省略しています。どうも自分のことを書くのは億劫というか気後れするというか…。)
鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)。俳句のことなど。ブログ「本日も深雪晴」https://miyukibare.exblog.jp/