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𝕥𝕦𝕞𝕦𝕘𝕦 さんがブースト

youtube.com/watch?si=rjDEhLuPR

漸く拝見しました。岡真理さんの「繋がっている」という繰り返し、今のガザで起きていることが自分の関心領域とつながらないのであればそんな人文学は死んでいるのだ、という指摘が、痛烈です。

𝕥𝕦𝕞𝕦𝕘𝕦 さんがブースト

マルグリット・ユルスナールの『火 散文詩風短篇集』を訳者あとがきと須賀敦子の『ユルスナールの靴』を参照しながらちょっとずつ読んでる 『火』はギリシャ神話などの登場人物たちの同性愛(男と男)を前に敗北する異性愛(女)の構図になっているものが多いようで、女と女の同性愛の前に敗北する男は…!?て思ってしまったんだけど『火』は「或る内的危機の報告書」と自身が語っているとおり自分自身の苦しみを文学に昇華した作品で
1930年 編集者のアンドレ・フレイニョー(男性)に出会い、彼がユルスナール曰く「女性に背を向けた男性」であったために彼を熱烈に愛しても報われない苦悩を知る
1935年 『火』を執筆
1936年 『火』初版発行
1937年 生涯のパートナーとなるグレース・フリック(女性)と出会う
という時系列を知るとなるほどなあ…てなる

(一部間違いがあったので訂正しました)

マルグリット・ユルスナールは生涯の同性のパートナーと出会う以前に愛した男性もまた同性愛者であったことから「どんなに愛しても報われない」ことを身を以てあじわい、その苦悩を作品に落とし込んでいるんですね 「源氏の君の最後の恋」は老いて隠居し、目が不自由になってゆく光源氏をかつての情人のひとりである花散里が、自分がかつての情人であったことを隠して何度も会いにいき最期を看取るという話で、「老いた光源氏をどんなに献身的に愛しても報われない花散里」という構図が、かつてのユルスナールが体験した、報われなかった思いを古典文学をとおして昇華していて、本当に苦しかったのだろうな 多田智満子の訳がとにかく美しくて、あと光源氏のワア気持ち悪…て部分がきっちりちゃんと気持ち悪いのがよいです
白水Uブックスの『東方綺譚』はユルスナールの本の中では一番手に取りやすい価格なのでおすすめ

たぶんって言っちゃったけどこれ「もののあはれ」ってひとことで本居宣長が言ってましたね

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源氏物語って光源氏の爆イケモテ期のイメージがどうしても強く感じてしまうけどたぶん当時の仏教の価値観や末法思想が反映されていて(帝もわりとよく出家してる)どんなに栄華を誇っていてもいずれは衰退してゆくって話なんだな〜っていう理解なんだけど(ほんとに浅い理解なのでちがうかもしれない)このあたり源氏物語におくわしい人ならもっと楽しめるんじゃないかしら

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わたしは源氏物語はうっすらあらすじを知ってる程度なんだけど、爆モテ光の君時代があっても帝にはなれず、歳をとって栄光の日々は過ぎ去り、遠い空の黄昏の埋み火を盲いてゆく目で眺めているような光源氏の最期をユルスナールが抽出したのは見事だなあと思う

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ちょうど源氏物語が大河で活気づいてるようなのでマルグリット・ユルスナールが源氏物語の二次創作書いてたの思い出して『東方綺譚』収録の「源氏の君の最後の恋」を読んだのだった
源氏物語の「幻」と「匂宮」の間にある「雲隠」(本文は現存せず、巻名のみ)にあたる部分、光源氏が隠居してから亡くなるまでの部分をユルスナールのオリジナル展開で書いてるのが「源氏の君の最後の恋」なんだけど、紫式部が敢えて書かなかったのか、本文はあったけれど平安時代以降の戦乱で失われてしまったのかを思いながら読むのも楽しかった

調べたらマルセル・シュオッブ全集のほうは軽く4倍くらいの値段でビャン!あ〜〜でも全集の方は多田智満子が訳したのが入ってる…買えないけど…おれが富豪だったら…

立ち寄った本屋さんにマルセル・シュオッブの『夢の扉』があっておおおお…!!!て手にとってね、値段……しおしお…てそっと元にもどした…わたしが富豪だったら…

シュワっとして口がさっぱりするやつ(KALDIのシチリアンレモネードベースを炭酸水で割ったやつ)飲んでる これねえ甘すぎなくてすっぱくておいしい

わたしはわたしの書く文章がわたしなりに好きだったから、日記でも感想でもお話でもいいから書くことを手離したくないし、いまはできなくてもそこで断絶させてしまうんじゃなくて、細々と続けて表現や考え方にアップデートが必要ならそうしていきましょうねってスタンスでやっていきたいの…生活と一緒に文章書くことを…

いろんなものへのこだわりや執着にしがみついて深く感じ入った物語に自分のリソースをつぎ込むことで現実の嫌さをまぎらわせていままでようやく毎日を生きのびてこられて、たぶんそうしないと生きていけなかった いまはそれらへの興味のボリュームが平らになってきて、この社会の家父長制やミソジニー、政治の腐敗による現実の酷さだけが残って、この状態のままあと何十年生きなければならない、どうやって?このクソみたいな世界で生きていけばいいのかわからない

抗うつ剤を飲むようになってから、なにかの作品に執着して起きてる間ひまさえあればずっとそのことを考えてお話を書いては落ち込んでを繰り返してたのが本当にぱったりなくなって、それをよかった悪かったで判断する必要はないし二次創作をしてたこと、一冊だけだけど本を作れたことはわたしにとっても大切な思い出としてとっておきたいなと思うんだけど、じゃあいまの自分でまたおなじくらいの熱量でなにかを熱烈に好きになったりなにかを書いたりだれかと交流したりイベントに出たりってできるかな?て思ったときに、おそらくできないだろうってあきらめちゃってる自分がいることを寂しいと思う

Blueskyにもほぼおなじ内容の投稿してみたけどだいぶめんどくさくてちょっと続けられないかなあ…

ヴァージニア・ウルフ「ラピンとラピノヴァ」とトーベ・ヤンソンのトフスランとビフスランについての補足

ムーミン公式の上記の記事にはトーベと既婚のヴィヴィカがお互いをふたりだけの秘密の呼び方で呼んでいたことをトフスランとビフスランに落とし込んでいて、それを男女の婚姻によって発生する名前の強制的な変更や夫の夫人という肩書きへの違和感、家族イベの嫌さの中で夫との間で空想を共有するウルフの「ラピンとラピノヴァ」に重ねるのは見当違いでは?て自問自答もあったのですが、「ラピンとラピノヴァ」の著書のヴァージニア・ウルフ自身も男性であるレナード・ウルフと結婚している間に女性の恋人がいた期間があり(トーベとヴィヴィカの関係性に重ねるとヴィヴィカ側の立ち位置にいる)、それが著作に非常に影響を与えているようなので、それを踏まえて書いています

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