つまりこれはジェイムズクリフォードなどを退けてラトゥールを掲げる現在の人類学若手と同じで、世代バトルかと。
民藝理論内部でイノベーションは起きそうにない、という漠たる私の疑念が、そのままシネフィル内部はアーミッシュだから知は育たないとする認識と重なる。そして北欧系と結びついたニュー民藝みたいな流れもあって、「マーケットできてるから偉い」みたいな論調も生まれているんだけど、そういうふうに変動する状態がアニメのグローバル成功による地位変動と同じに映る。。かつて高度成長期に地方文化へのノスタルジーが生まれて起きた60-70年代民芸ブームは「真正・民藝組織」たる民藝協会の連中から怒りと焦りで受け止められたが、工芸品の売買や認定にも関与してる以上、結局は「あのブームで需要も湧いたからよし」と現在では解釈する向きがあるようで、外部経済で変動してる感が濃厚だなーとか。
たまたま民藝言説と沖縄や韓国との緊張関係ってどうなってるんだ?と気になって基礎的な調べ物からはじめてるんだけど、当初の予定とは別のところで気になる論点が増えた。途中から「これって全部マネジメントやブランディングじゃねえの?」という疑念が浮かぶようになる。
保守系の人が書いた民藝論の現在みたいなちょろいサーベイ論文を読んでて、いろいろ示唆される。その論文自体はレベルが低いんだが、柳宗悦死去後の民藝におきたことがいまのシネフィルだなとか、これアニメでも起きてね?とかおもった。90年代の柄谷や小熊英二の柳宗悦論がポストコロニアルスタディーズ的批判であると位置付けつつ、書き手は「それらの柳の読み方が間違っているとする論者」にシンパシーがあるのが歴然としてる。なぜかというと著者が伝統工芸関連の職についてるからそのポジションのストレートな反映っぽい(まあ柄谷や小熊は柳のテキストを簡単に片付けるものではあるのは事実なんだろう)。
現在では、80-90年代文化で語れた言説や対立軸はあまりに階級の問いが霧散しているように感じられる。たとえばヒップホップひとつとってもかつては出自や階級の問いが希薄だったが、いまでは前景化しており、階級闘争・階級格差の言葉はひしめいている。そういった座標軸の変動があるのだが、むしろ70年代以降の半世紀は当時の言説をそのままたどるのではなく、ロウブラウ・ミドルブラウ・ハイブラウの射程で位置付け直して整理した方が、見通しが良くなると考えられる。
昨日は、その再読の切り口にラッセンもありうることに気づき、増補版の『ラッセンとは何だったのか』を読んでいた。しばらく前にドミューンでやっていたラッセン論集増補版刊行記念イベントでは、ヒロヤマガタとラッセンが当時の西武の脱大衆路線とどういう距離感だったのかについて中ザワヒデキが話してて、その機微が示唆に富んでいた。
『神田ごくら町職人ばなし』少し読む。漫画読みのなかで評判いいものの自分はピンときてなかったが、読み筋が見えてきた。桶職人、刀鍛冶、藍染意匠工の手仕事を前面に持ってくることで、形象描写の幅が広がってるのが重要なのだろう。各話の主人公は交代制で女性職工の回が多く、ジェンダー秩序をいじってるのも支持される理由か。
ただ、「マイクラなろうの上位版」かつ「青年誌お仕事もの」ゆえの評価であり、丁寧にかつ写実的にやってればホンモノというコードに従うものではありそう。私はむしろマイクラのまま質を上げるトライアルのほうに関心がある。
https://to-ti.in/product/gokuracho
ブログを更新しました。
渋谷駅近くで、並ばずに座れるカフェや無料休憩スペース5選を紹介します。精神障害者目線で、クールダウンできる場所を選びました。
鬱・ADHDが選ぶ、渋谷ですぐ座れる穴場カフェ/休憩スペースまとめ(1) - 敏感肌ADHDが生活を試みる https://www.infernalbunny.com/entry/2024/07/06/223058
この機に、経済学史における渋沢栄一論を読んでおくかと、島田昌和「経済立国日本の経済学 渋沢栄一とアジア」、『岩波講座 「帝国」日本の学知2 「帝国」の経済学』(杉山伸也 編、岩波書店、2006)を借りてきた。
https://www.iwanami.co.jp/book/b476350.html
従前から人と話し合っていた、ホラーや怪談における欠点に「明らかなカルト差別とカルト嫌悪を面白半分に混ぜてくるのでろくでもない」というのがあるんだが、それと同様に、伝統宗教側もまた宗教関係者にとっては、日本社会の共同体VS宗教共同体の摩擦が潜在していて、あくまでも日本社会の末端でしかない心霊やホラーのふるまいが、侮辱や簒奪と地続きという話なんだろうな。
簡単にまとめると、潜在的に宗教共同体とホラーは敵対関係にあり、ホラーの中で出てくるからって仲良いわけじゃない、という。
100兆ジンバブエドルの字面と石のインパクトで相殺されて感情が行方不明になるやつ。
石なのは「1円にも満たない貨幣価値」だからなのか…。
“私が大好きな100兆ジンバブエドル紙幣は「石」ですね。石。
https://nozakicoin.jp/products/7195445756094 “
https://x.com/hi_doi/status/1808899665460687083?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
(竹田恒泰の関与した令和書籍の教科書のみならず)こういう左派によるオルタナティブ教科書の線もかつてあったのかー。
“検定不合格というと歴史教科書(書家永裁判とか新しい歴史教科書運動)が思い浮かびますが、倫理にもあったとは知りませんでした。編者は久野収!
編集コンセプトや不合格の経緯がおもしろいです。
「「倫理・社会」の教科書が例外なく大学教授だけによって書かれすぎる現象を不満に感じていた」
第1版が検定を通過すれば「石牟礼道子、森崎和江、井上ひさし、永六輔、寺山修司、佐藤忠男、羽仁進、太田省吾」に執筆を依頼するつもりであったとのこと。
この幻となった教科書を読んでみたい!”
https://x.com/i_hug_sea/status/1809106340192866460?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
だがこの階級的条件はすでに崩れているため、若い世代はかつての小金持ち規範に共感性が低いだろう。ここで見ると、ウェブトゥーンやなろう、ウェブ漫画のトレンドはロウブラウが再導入される経路となっていることや、それらに見られる限界生活要素(逆位置にセレブ羨望や成り上がり羨望も見られる)やある種の安っぽさを湛えた作品が顕揚されるのは、ミドルブラウ基準へのカウンターや別のリアリティの誇示といった射程からも考えられる。
「オタクコミュニティが愛する20世紀末〜現代のミドルブラウの指標・達成」作品の系譜もあるのだが、ルックバックは貧困や安っぽさの見せ方次第でさらにズレる現代性を発揮する?余地も発見されうるかもしれない。
ミドルブラウというのは、別文脈ではキッチュの別名(グリンバーグはエリオットやウルフらのハイブラウに立脚しミドルブラウを拒否する言説の延長でキッチュを論じていた)。また、20世紀美学は、「ミドルブラウの中途半端さをハイブラウとロウブラウの両方の達成のもとで厳しく査定する」という面があった。
他方、オタクコミュニティにはロウブラウを手中に収めつつ、ミドルブラウまでの達成で留めるべき、ハイブラウは排除すべき、とする抑圧体制もある。いまではオタクファンダムは「かつての20世紀末日本までの中産階級的なミドルブラウカルチャーの厚み」を代替する秩序となっており、暗黙にミドルブラウ規範を志向している。「国民的」文化であることをしきりに誇るのは示唆的だ。また、ミドルブラウ規範の線で考えると、オタク類型を長らく一昔前の「小金持ちの子供」を下敷きにしていたことも整合する。
あまり書き物ができてない。