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多少知見のある人でも、読書会が嫌になってやめるケースはわりとあるんだが、その原因は、読書会には英会話塾などの習い事カルチャーと同じ難点があるからだ。

世の中には英会話塾があるが、その受講生のなかで英語話せるようになるのはごく一握りであり、それはその人が自発的にどこまでやるかで分岐する。大半は受講して「なんか勉強になったなー」と満足してお金払う。書籍に関するトークイベントもレクチャー系の集まりにも同じような面がある。

その場での交遊、コミュニケーション、感想を言う、のサーキットを目当てに転じ、「さて、ここに挙がってる文献読みましたか?」と線引きすると盛大に脱落する。その結果、その場の口頭でのやりとりによって独習の埋め合わせをしようとしてくるため、チャリタブルなインテリがいるとその人の負担が一極集中する。

その結果、ある程度リテラシーがある人一方的に負担かぶせられて搾取される、それに辟易する、という構図が生まれる。

これを防ぐには、参加総数をある程度狭めるか、力のあるインテリが2~3人程度いることで、なんとなく自主学習を前提にする雰囲気を作って依存を減らす、独習のやり方を指南する、などの手ぐらいしかないんだろう。

かつての日本の脱政治文化の猖獗は、いま盛大に中国で起きているらしいと聞く。
80-90年代日本にも国外で受けないような、しかし長い目では現在のエンタメや文化につながっているような脱政治系作品がたくさんあった。
そこから別のオリジナル生成まで展開させる行程を中国もたどるんだろう。20年もしないうちにそうなる。

ジャポニスム研究って、東大比較文学みたいな富裕層右派の群れでは?というのが20,30年前の常識だと思う。

上述リンク先に目次画像が見れるが、この特集でペヨトルの今野が歌舞伎対談に出席しているのが目を引く。やはりペヨトルの歌舞伎取り上げはそれか

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Kindleで積むとマジで読まなくなるので、Kindle苦手

『ジャポニスムを考える 日本文化表象をめぐる他者と自己』、目次を見るだけでは、さすがに2020年代にもなって無邪気に出来ないから整えました~、程度のおそれもあるんじゃね?と思えたので、手頃なタイミングで入手して読んでおくか。
shibunkaku.co.jp/publishing/li

先日、平凡社からこんな本も出てて、比較文学ジャポニスム研究の派生みたいなやつかねえ、発掘資料次第で面白くなるやつか、などと横目で眺めたところだった。

和田博文『日本人美術家のパリ 1878-1942』
kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784

メトロポリタンオペラで、オペラ映像/曲を無限(無限ではない)に見れそうだと気づいた。だらだら見てるだけで「少女漫画の衣装劇これだなー」と思う。
metopera.org/season/on-demand/

東アジアの各国秩序は、普仏戦争以前の欧州みたいなもんで、覇権主義や帝国主義幻想への歯止めもも全然発達してないんだと思う。

造形把握と批評理論と左派的視座を備えるプレイヤー、というだけでも日本ではかなり数が限られてしまい、左派政治主義はしばしば造形や批評言語が欠落していたり、その逆、というふうになりがちだった。
そこで日本にちょうど欠けているが面白いのがベンジャミン・H・D・ブクロー。日本語だとリヒター解説者のように思われがちだが、ART SINCE 1900の項目では時折光る記事を残している。アルテポーヴェラの解説なんかがわりと良かった。
まあART SINCE 1900は「自覚せるアメリカ中心主義」なので、東アジアと植民地主義的帝国主義の直接の示唆にはならないが。

日本でジャポニスム研究やってるやつなんか、コンテンポラリーや左派を拒否するセレブ大好きの富裕層趣味マックスの連中だらけじゃね? みたいな先入観が働く。

かつてのアート・ワールドに付した形容「保守かつ権威主義」は、「脱政治的で、そのもとで(今見ると全体的に)右派親和的」ぐらいに言い換えていいかも。
フォーマリズム批評もそうした日本の脱政治体質のなかで機能していたし、その煽りでいまは「全部汚点に見えるので廃棄」に転じかねないと見ている。

岡崎乾二郎はポストコロニアル視点をちょいちょい入れる人だが、フォーマリズム批評枠で承認されやすいのが微妙なんだろうな。
今回の件で対応不十分でミスってるのは、まあ病後の晩年期作家にレスバの繊細性は無理だからなんだろうが、なんか岡崎が池田と同じ扱いされてBugs Grooveなどに嬉々としてRTされているのはかなり辟易。

BT 根っこにあるのは日本の官僚と官僚が仕切る政策が、日本のナショナリズムと帝国主義、他国のそれらを批判しない体制であり、それが前提で回っているからだろう、というのはたしかにそうだろうな。

白江幸司 さんがブースト

国策として、西洋美術のジャポニスムを日本すごいクールジャパン政策の一環に取り入れることをやってきているので、西洋美術の植民地性を批判できない、というのがあるのだろうと思ってる……。そこを批判するとその文化政策が破綻するので。
「ジャポニスムを考える―日本文化表象をめぐる他者と自己」とかはそういうことを批判的に考えるために刊行されたんだろうなぁ、という感じが。西洋美術館の館長だった馬渕明子さんによる政策としてのジャポニスム批判は色々考えさせられる内容。

ニューアートヒストリーの頃から日本では考えられてました、はさすがに嘘やろと思う。

まあ、日本のアートワールドは長らく保守かつ権威主義だったのに、2010年代半ばに突然政治化して、フェミニズムじゃんじゃんやりましょうに急展開したのだから、文献や概説などの整備が全然追いついてないんだろう。90-00年代ぐらいは政治主義的左派とアートピープルで完全に棲み分けみたいになってたし。表現の不自由展の企画者層は前者の枠だった。

まあたしかに「日本の東アジア侵略と植民地主義的支配」は、ちょうど「西欧のアートシーンおよび周辺言説の紹介」経路では出てこず、90年代までの日本の脱政治文化の猖獗により、日本における美術と植民地主義というイシューが蓋をされたままだった、というのはあるんだろうな。
んー、いや『美術史を解きはなつ』のような本もあったわけだから、この路線でもっと掘り下げた好著があるといいわけよね。

kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784

人間集団は、どの時代にも老人から子供にわたる、一世紀近い幅を備えている。一世紀ほどの幅を持ったまま移動している巨大な量塊が、人間なんだろう。

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