多少知見のある人でも、読書会が嫌になってやめるケースはわりとあるんだが、その原因は、読書会には英会話塾などの習い事カルチャーと同じ難点があるからだ。
世の中には英会話塾があるが、その受講生のなかで英語話せるようになるのはごく一握りであり、それはその人が自発的にどこまでやるかで分岐する。大半は受講して「なんか勉強になったなー」と満足してお金払う。書籍に関するトークイベントもレクチャー系の集まりにも同じような面がある。
その場での交遊、コミュニケーション、感想を言う、のサーキットを目当てに転じ、「さて、ここに挙がってる文献読みましたか?」と線引きすると盛大に脱落する。その結果、その場の口頭でのやりとりによって独習の埋め合わせをしようとしてくるため、チャリタブルなインテリがいるとその人の負担が一極集中する。
その結果、ある程度リテラシーがある人一方的に負担かぶせられて搾取される、それに辟易する、という構図が生まれる。
これを防ぐには、参加総数をある程度狭めるか、力のあるインテリが2~3人程度いることで、なんとなく自主学習を前提にする雰囲気を作って依存を減らす、独習のやり方を指南する、などの手ぐらいしかないんだろう。
『ジャポニスムを考える 日本文化表象をめぐる他者と自己』、目次を見るだけでは、さすがに2020年代にもなって無邪気に出来ないから整えました~、程度のおそれもあるんじゃね?と思えたので、手頃なタイミングで入手して読んでおくか。
https://www.shibunkaku.co.jp/publishing/list/9784784220342/
先日、平凡社からこんな本も出てて、比較文学ジャポニスム研究の派生みたいなやつかねえ、発掘資料次第で面白くなるやつか、などと横目で眺めたところだった。
和田博文『日本人美術家のパリ 1878-1942』
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784582207293
メトロポリタンオペラで、オペラ映像/曲を無限(無限ではない)に見れそうだと気づいた。だらだら見てるだけで「少女漫画の衣装劇これだなー」と思う。
https://www.metopera.org/season/on-demand/
かつてのアート・ワールドに付した形容「保守かつ権威主義」は、「脱政治的で、そのもとで(今見ると全体的に)右派親和的」ぐらいに言い換えていいかも。
フォーマリズム批評もそうした日本の脱政治体質のなかで機能していたし、その煽りでいまは「全部汚点に見えるので廃棄」に転じかねないと見ている。
岡崎乾二郎はポストコロニアル視点をちょいちょい入れる人だが、フォーマリズム批評枠で承認されやすいのが微妙なんだろうな。
今回の件で対応不十分でミスってるのは、まあ病後の晩年期作家にレスバの繊細性は無理だからなんだろうが、なんか岡崎が池田と同じ扱いされてBugs Grooveなどに嬉々としてRTされているのはかなり辟易。
まあたしかに「日本の東アジア侵略と植民地主義的支配」は、ちょうど「西欧のアートシーンおよび周辺言説の紹介」経路では出てこず、90年代までの日本の脱政治文化の猖獗により、日本における美術と植民地主義というイシューが蓋をされたままだった、というのはあるんだろうな。
んー、いや『美術史を解きはなつ』のような本もあったわけだから、この路線でもっと掘り下げた好著があるといいわけよね。
あまり書き物ができてない。