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それな

“てか若い人が左翼思想を学ぼう、と思ったときの選択肢として外山合宿が最有力候補に浮上している現状ってわりとマズいよなと常々思ってるんだけど、どうすりゃいいんだろうな”

x.com/mjqag/status/18555823259

メイヤスーの「祖先以前性」トピックって、もはや忘れ去られているけどロシア宇宙主義注目の文脈を作っていて、それらは死者と生の関係一般につながるような問いだった。かつてと違って社会に対する文化と作品の位置付け自体が再審に付される変動が起きてて、そこでセオリーも哲学も宗教の問いと再び交差してるし、宗教以外では各国ごとの右派展開も顕著なことから(フランスのライシテもそれでなんとかなるという信の対象ではなり)、統治や宗教ごと総体を把握するような知のニーズが高まってる。それで文明論に派生しがちだったりしている。

そういう情勢に対するパースペクティブの模索が曖昧にやりすごされている状況があるわけよ。

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で、フィクションだとリアリズム様式の回復や、歴史小説とゲームシステムの同時参照が補助線になると見ていて、ゆえに私はゲームから派生したようなフィクションを延々探っているわけだな

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モダニズムの前提である世俗主義(政教分離や芸術・宗教の分離)を再検討する機運はあれこれあって、「大地の魔術師」展が 00-10年代のアメリカを脱中心化させるグローバルアートのなかで参照点になっているのもそれだし、イコノクラッシュ展も当時における応答だし、独仏英にまたがるイメージ論的転回も美術史研究寄りとはいえ近い位置にあるし、ベルティングならイメージ人類学で対応していたし、グロイス『流れの中で』がアートと宗教の永遠性の問いから議論を引き直すのも、そうした情勢を参照してそうなっているわけですよ。そもそも現代の「ランドアート」定義は先住民の古代遺制や古墳なんかも入るよ。

日本ではそういうのが全然消化されてないから、90年代時点で「土俗への回帰」と批判されるのを想定しつつ踏み切った椹木とか、オーウェンスのアレゴリー論やベルティングを参照して中世日本宗教画や儀礼論を組み込む黒瀬の足取りすら位置付けることに失敗して、世代的忿懣をぶつけて終わりにするプレイで止まってる。

で、そういう射程作りで読むと、酒井は「もうちょっとコンセプト練るべき」となる。

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ぶっちゃけ、文章下手というか、論説の展開や手頃な筆運びが下手で、読んでてすごく読みづらい文章ではある。判断の位置付けや留保がなくて、レイヤーが管理できてない。「と解釈できる」とか「〜とーは同じような対立で把握できないだろうか」と挟むだけで何とかなりそうな箇所が多い。

一つには、60年代が終わり、70年代以降の脱政治化を経て、左派のユートピア志向が失効し、それが因習村表象に転じているんじゃないか?という見立てはわかった(そういう言い方はできてない)。

もう一つは、作品経験が怪談のように伝承されるって作家の希望だよねというのがあって、そこから敷衍しているんだな。

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この記事を書いた酒井貴史自身が美術家で、伝承を模したり捏造する系統の作品を作ってるんだな。その立場上、怪談が他人事ではなくなるわけか。

出品略歴がある
shinano-omachi.jp/asahi-air/ar

nakanojo-biennale.com/artist/t

Twitterアカウント
x.com/koukanjyo

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ただ、グリンバーグにCIAから金が行ってたから、はい終了~みたいな単純ミームの面もあるな(いやグリンバーグは単なる保守モダニズムおじさんだが)。「ケージ押し出しに前衛政治ニュアンスあるに決まってるだろ」の反論も容易だ。

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この箇所なるほどなあとなった。川村覚文の本の第5章における見田宗介をジョディ・ディーンへ合流させる議論ともつながる。

この理屈だと、ブーレーズやシュトックハウゼンを押し出すのは「アメリカ勢に負けないぞぅ」の対抗性ゆえだとなるし、そうした欧州系紹介言説も日本社会に対する(主に米ソが担った)「大文字の他者」ポジションの争奪戦に見える。そしてその派生で、どの国をアバターにすれば偉くになれるかを日本国内で論者たちは遂行する。

となると、ここで「いやルイージ・ノーノですよ」の差異化ちら見せは、政治性意識してますプレイになるわけだな

白江幸司 さんがブースト

「戦後のヨーロッパにおける前衛音楽の隆盛には、じつのところ、アメリカを盟主とする自由主義陣営からの資金援助が大きくかかわっていました。自由主義諸国の前衛の作曲家たちは、新たな芸術音楽の可能性の探求にひたすら邁進していたのであって、けっして政治的な意図をもって作曲していたわけではありません。むしろ、政治といったものとは無関係だとさえ思っていたでしょう。しかし、そうした作曲家たちの意図とは裏腹に、実際には、彼らの音楽は、西側の反共産主義政策の中に重要な文化的手段の一つとして組み込まれていたわけです。」
(近藤譲「ものがたり西洋音楽史」岩波ジュニア新書892/2019年/274ページより引用)

こんなのやってたんだ(佐藤朋子のRTで知った)。「エクリ新訳を出せる訳稿はすでに溜まってるが出せない」段階なのか? x.com/SLJLSJ/status/1855072635

昼食、アッコにおまかせ!を横目で見てたらハリス嘲笑トーン強めの共和党ヨイショな内容。はいはい、共和党系認識のみ紹介するいつもの日本政治情報バイアス、知ってる知ってる。
中国共産党揶揄勢は日本も同レベルだよなと揶揄をしてほしいわ

白江幸司 さんがブースト

日本でも米国でも、選挙の結果については単純に語れないことばかりだけど、選挙の結果を受けてネット上で直球の差別発言が増加してることについてはシンプルにダメなのでどんどん批判すべき。差別発言をするな。

そもそも映画パーフェクトデイズの田中泯の現れ方が「なんか妖精か怪異みたいなのが出てきた」なんだよな。都市部のなかの寺社に立ち寄ってその林でニコニコ飯食ってたら、彷徨い出てくる何者かという感じで…

あたいは越後妻有は初回だか第二回だか忘れたけど2000年に行ってるからかなりアーリーな方ですね。学生が野外音楽フェスに行くノリと同じで、友達と夏休みに行った

そういう「当たり前/異常」の識別・増幅装置に怪談はすぐになるので。

しかし、「地域芸術祭への違和感」語りは、私は00年代前半リアタイで「芸術祭なんかいらね。ジブリとかでいいよ」と唾棄してたブログとかを見たので、そんな違和感連呼に乗りたくねえなという気持ちの方が出るかな

カバコフ作品は「距離あるから錯覚するけど、あれでかいよな…」と感じさせる点で幻覚や怪異に近いし。霊現象はメガネをかけても外しても同じように見える、という怪談パタンがあるし、真っ赤なシルエットの人を住宅地で目撃するといった怪談も90年代後半ぐらいからある。

あと、00年代ってアニメにおいて田舎風景が増えていく過程でもあったからね。00年代末ぐらいにはアニメは地域町おこしと絡んでたから平行的なものに見えるのはある。

あー、くねくねと地域芸術を結びつけるのはすっごくわかる。
昔くねくねを読んだときは、真っ先に、越後妻有のカバコフ作品(農作業の青いシルエットが山腹にある)を連想したんだ。越後妻有にはボルタンスキーの白い衣服がひらひら畑で舞ってる作品もあったし。

地方芸術祭とネット怪異譚
kakuyomu.jp/works/168173306571

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