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ギヴンのポスターとか見てると、90年代までの邦画ゾーンをもはやアニメがカバーしてる気配がよくわかるなあ

またしても、またしてもだー
ナミビアの砂漠を見にきたら「18:30からどうぞ」だった。ぐはー!
あ、20分後にcloudやってるわ。これにしよう

なるほど。

破壊屋ブログ 「ネイティブ・アメリカン虐殺の贖罪(ただしゲーム・映画とかで)」(2024.6)
hakaiya.hateblo.jp/entry/2024/

温泉マークさんが水曜どうでしょうを今さら見るのに釣られて私も履修しようかなという気になっている

MVRDVで勤務して、MVRDVとOMAの模型が同じスタジオだと知り、さらにはマンガに関与してる吉村靖孝の経歴と仕事がけっこう面白そう。x.com/gajio0/status/1840193475

『ブレインウォッシュ』見た。メッセージをシンプルにするための工夫があり、アクティビストとして効果最大化を狙ってる。ソフト化&配信されてめちゃくちゃ見られるのが一番良さそう。最後の方で「今後の希望」っぽいセレクションでノマドランドやセリーヌシアマを持ってきてるのがなるほどなと。あとは、ワンダーウーマンとかいくつかを挙げて物語のプロットだけで見るとフェミニスト評価されてるけど、肢体ねっとり映す「ボディパン」をまだ採用してるし微妙じゃね?と指摘していたり。多人種からなる映画スタッフ・元女優・映画研究者たちの声を集めているので「みんなで連帯するぞオラァ」な雰囲気が出てるのもうまい。
 黒人男性相手なら女体と同じ映し方をできる、っていうのが透けて見える点でフライシャーの『マンディンゴ』は最悪で、しかしこれ以上「支配関係が性的視線を強いる」のを示す例はないと提起されたりする。メンケスの持ってくる映画サンプルがかなり手広いので、それだけでもなかなかやりおるという感じ。あと、アニエス・ヴァルダの地位はゴダールより上がるかもなあと思った。ガスヴァンサントのある作品が男女それぞれの絡み合いの映し方を平等に割り振ってる、と指摘した直後に、まあでもこれはヴァルダの影響かもねと、まんま同じなヴァルダの元ネタ作品が出てくるw

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『クィーン・オブ・ダイアモンド』(ニナ・メンケス監督作、1990)見た。
絵の構図作るのはまあまあなんだけど、静止画みたいな絵で延々ショットを持続させすぎ。人には勧められんな…。なんかぼやっとしてた。ベガスの独身貧困女性の生を点描してて、そのざっくりしたスタイルの良さはあるにはあるが、アメリカの文芸向けだとこうなるのかなと。だいたい掴めたが、これは日本漫画で言えばつげ義春枠の大家で、つげはミニシアター映画の隠し参照になりがちだが、この路線を女性がやりきってるのがでかいんだな。

『ブレインウォッシュ』(2022)が最新作で、フェミニストや理論家も登場するドキュメンタリーか。

今日はニナ・メンケス作品見るぜー。ローラ・マルヴィが冒頭から出てくるとか、いろいろ攻めてるらしい。

ninamenkesfilmfes.jp

これ、旧式のなつかしい転生悲恋だなー。BL要素をかぶせてるのが今風の調整か。x.com/umezu60/status/183952927

17時ごろの映画のためにいまから外に出て、外で時間を潰してそのあいだに別の本をできるだけ読もうと思ってるが、こういうのって計画通りに行くもんなのかねえ…途中で別のことに時間を費やしてしまうパタンが多い…しかし家にいても本に集中できそうにない…

「それはそう」の宛先こっちだった。めっちゃ意味不明なつなぎをやってた

白江幸司 さんがブースト

温泉マークさん見てると、10000曲とか100連発とかデカイ目標を建てるんじゃなくて実現可能な小さい目標を数をこなして成功体験を積んだほうが長続きするんだなぁって思う

これは、つきつめると「歴史に自分の名、生が記されてないことへの憎悪」だと思う。そう考えると、「俺の生涯が記されるべき」と自費出版で自伝を出す経営者や政治家とよく似た欲望になる。と同時に「社会やフィクションの表象でマイノリティが除去されているのはダメだ。レペゼンを!」ともあまり遠くないことに気づく

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それはそう(なろう関連まとめでハードルを上げまくった「〜〜〜などもろもろすべてを踏まえたなろう史を書くべき」の要求を見て、これ、ハードルを上げまくった崇高な輝きを放つなろう像を讃えて、誰も書かせないようにする無意識の心中の欲望に見えた)

白江幸司 さんがブースト


永冨真梨「彼らの系譜としての大衆音楽史」(『入門 ポピュラー音楽の文化史~<戦後日本>を読み直す』)、おもしろい。

"従来の日本の大衆音楽史は、男性性の変遷とともに構築された「彼らにとっての系譜」であり、大衆音楽の受容の変遷は、日本人の男らしさとはどうあるべきかの議論と不可分であったことを示したい"(p.205)

単に大衆音楽の受容とそれにまつわる語りの歴史が男性中心主義的だったというだけでなく、むしろその歴史じたいが規範的な男性性をめぐって構築されてきたのではないか? という話で、かつそこで日本におけるカウボーイ表象やウエスタン/カントリー音楽の受容を見ていくことで、帝国主義時代から戦後(70年代くらいまで)を貫く視点が得られるという……

白江幸司 さんがブースト

が、英語圏の支持者が寄付するだろうから、焦る必要もないか?とは思った

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