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白江幸司 さんがブースト

能登でも5月からずっと家に海水が浸水し続けている家屋があって(もちろん人が住んでいる)、台風怯えているという記事を読み、これもまたさ…………もう8月終わるぜ………………。もうこんなん全然テレビじゃ取り上げない。ひどいよ。
tokyo-np.co.jp/article/350819

漫画ではなぜ風神雷神ミームが廃れたのか。それはゲームやトレカのレギュレーションに比べると、4元素の相剋ですらないバイナリコードで、発展性が足りなかったからだ、などと先日は吹聴していた。

90年代は青山剛昌のYAIBAでも、特攻の拓でも、風神雷神が出てきて、さらに上位に龍神が控えるという謎序列で足並みが揃っていた。今にして思えば、龍神ミームでファンタジーRPGのドラゴンイメージと並ばせていたんだろうな。

空気がものすごくもったりとぬるく、毛布が暴力的に抱きしめてくるようだ。これが台風のしわざか

見る力か、すごいところに着目する。

“他者との取引・交渉を有利に進めるために必要な情報を目ざとく視認するのが得意な「王女」といったら、ディズニーの白雪姫・1937年版もそうだった。ねむねむ状態で寝室に入って、7人のこびとのベッドに記された名前をすかさず視認して記憶し、後の交渉に大いに役立てる。
(…)
末っ子様が『白雪姫』を気に入り、夏の間見てたのを折々チラ見すると、やはり姫は明確に「視線の力」をもつ人物で、《Whistle While You Work》でこじかが汚れた食器をペロペロ舐めてきれいにしようとすると、とっさに画面外から「だめよ!」と姫の制止の声が届く。フレームを越える強めの視線。

ディズニー版白雪姫の「視線の力」とは、フレーム外から見通す視線の力が、自分自身は不在のショット内で起きている出来事に働きかけ、状況を望み通りに変える力と連動するということで、自分の「見た目」は気にするが、自分で「見る」ことを怠り、鏡の中のしもべに丸投げする女王と、そこで差がつく”

x.com/hwashitani/status/182928

こういう話なのか

“「文化は金にならない(から縮小される)」ではなく、「文化が金になりすぎた」ことの問題。
DICの保有するアートは、CSRやメセナの域を越えて、DICの事業に匹敵する価値を持ってしまった。”

x.com/dkatsura/status/18289869

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ほむほむ

“DICの件でもう一つ言っておくと、「業績悪化による影響」ではないということですね。足元の四半期業績は回復しているし、EBITDAの見通しもここ10年の最高水準になっている。にもかかわらず資本効率の観点から削減対象となっている。ここが重要。”

x.com/dkatsura/status/18284564

困った迷惑客はえてして私のほうなのだが、とセルフツッコミが入る

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台風、九州に居座りすぎてて、何なの。困った客なの?という感想に。

ぐつぐつとした苛立ちを混ぜると、ろくでもない悪文ができあがるので、この悪癖をもっとなんとかしないとなー。もっとスカスカに乾燥させたソリッドな乾き菓子のようにしてからpostしたいものだ。

Iconocrash展図録は、破滅ラウンジの隠された参照の一つと思われる。

古書で高騰しているIconocrashをついに買ってしまったので、思考がすっかり現代における像と偶像破壊の問いになってるわ〜

文学と宗教の結びつき、距離を取ったかのように見えながら代替図式を作っている状態というのはけっこう根深く、芸術に関する聖性や卓越性は宗教的儀礼の変形に見えるものが多すぎる。しかしそれも必ずしも欠点になるわけでもない。

近代における世俗化と政教分離によって、芸術は宗教と無縁になったということになっているが、芸術史の側だって新たな形で再導入されている状況を否認しているわけでもなく、むしろ脱魔術化という事実は本当にあったのか?ぐらいに言われそうな面がある。

むしろ作品が国家とポルノ産業に完全回収されないためには宗教のトポスが残っているのはフィクションにとってもバッファになるから、案外馬鹿にできないものだなあと芸術史を振り返ると思うものだが、そこを「カルト」と呼んで終わってるのも、いかにも教養がない。もっと両義性に踏み込まないと馬鹿にみられると思う。

自律性をどう考えるかの掘り下げがない、その埋め合わせに敵や「宗教」や「リベラルな人たち」、「依存」とかを延々召喚している。火に焚べて埋葬しないと自律性維持できねえのか?となるんだが。それを言ったら自由になれる魔法の言葉に振り回されてるアホにみえた。

「カルト」が悪口になってしまうのも「普通の日本人」つまり右翼イマジネーションすぎる。神道以外はすべてカルトみたいに見えるのが普通の日本人イマジネーションだと思う。

まあ、この程度に頭が悪く、俗っぽく、凡庸な方が物書きをやれるのかもしれない(皮肉ではなくそういう逆説はある)のだが・・・

自由と公共の定義、線引きの洞察が雑で、その雑さを許しまくっているのは「束縛に感じる」沸点の低さだろうなとみていた。

私は今回の星野の記事、愚劣だから内容にコメントするのも嫌だったんだけど、「小説という形かそれに準ずる言語でないと、言葉を出すことをやましく感じるようになっている」というように、実際に「お前マジョリティだろ」とマイノリティから突き上げを食らったかどうかとは別に、突き上げを食らったような気分になって「疾しい」気分になっていた、というのがポイントで、

そこから「作家の言葉」に退避してるわけだが、その「作家の言葉」の言説空間こそを吟味しろや、と思ったかな。SNS消費vs作家の言葉 の図式がすでに臭い。

居場所と小説執筆が対比されているが、人が居場所をつくることに逆らう、それが作家の言葉っていうイデオロギーだと思う。そんなくっきり分かれるわけねえだろ、と疑わしい。でもSNSのクリエイター気分の人、こんなのにころっとやられる。私はこの種の「自律性を求めた人間が作家神話の再生産をやってミメーシスしまくる」ことの方に問題性を感じている

クリエイターって「自分が奪われたくない!」かつ「自分はすぐにキャパオーバーしてハングアップするんだ!」が多い。その結果、驚くほど似たような擬制に足を取られる

今回の星野智幸への喝采で、仲俣の先日の大杉重男ブログ記事の賞賛も底が割れた。「松浦寿輝はいけすかない著者だからざまあ」に尽きていたんだろうな。

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