なんか学生のころにビジネス書の上位互換と見立てて野中郁次郎のナレッジマネジメントの本を読んだなあと思い出した。
その10年後ぐらいに、私は作品や批評を労働と対立的に(聖/俗みたいに)見立てるのをやめて、むしろ同じものとしてみなすようになっていった。分解可能な単位や属性の措定を作品や言説、発話行為に対して見出す作業をどんどんやっていき、SNSはもはやそういう吟味と掌握のサンプルの場に見えていたわけだが、この種の「作品やその愛着/労働」の区分の解消こそが、多くの趣味人・文化通の人にとって嫌なことなんだろうなと思う。
日々の労働や苦役が人を単位や属性に割り振って処理するものであるからこそ、作品や愛好の語りにアジールを見出そうとする。むしろ全人格的であるべきであり、人生を感じるものであるべきであり、コミュニケーションと良識の場であるべき、となる。私はいわば積極的にその縁、ボーダーの方に行くアプローチだな。
こういう留学生の目には、日本の醜悪さの権化として渋沢新紙幣が現れるんだろうな。
「日本人」以外は外国人・外人で、「外の人」扱いされ、その扱いが半永久的に固定されているような感じ。
「このブログ知ってる?」と言われて読んでみたが、けっこう面白い『蛇の道』読解記事だった。
“本作では凄惨さの根拠がどこにも行き着かない。復讐劇が個人の恨みから駆動している訳でもないし、個人ではあらがいがたい組織の論理から駆動している訳でもない。ボスもヘンタイも居ないのに、拷問が繰り広げられているとき、そこでは誰が一番「偉くて強い」のか?誰が仕切ってるのか?この凄惨さを召還させている主体は誰なのか?その正体がもし見つかったら、それに全身の力を込めて抱きつき、すがりたいと香川照之はずーっと感じているかのようだ。自分が一番惨たらしい暴力を行使しているというのに…。
香川照之は一見、復讐の主体であるかのように見えながら、映画の後半ではほとんど目的や自分を見失っており、目の前に転がる死体が、死体なのかそうでないのかも判然とはしていないような状態で、只ひたすら、哀川翔から認知されて認められたいという欲望にのみ突き動かされているかのようで、(…)”
私とRT数がそんなに離れてないのに、こっちは右翼の集中砲火喰らってるな
“渋沢を一万円にした時点で、日本は朝鮮半島の植民地支配を反省していないということを世界にアピールしたことになる。麻生が責任者だったと聞くと納得以上のものがある。あえて挑発しているのだ。本当に日本は反省能力のない、悪い国だ。”
https://x.com/yodogawa111/status/1808730027548422152?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
津田梅子の選出も帝国期ジャパンの差別的栄光の枠なんかねえ。
“渋沢栄一が話題だが、津田梅子も相当にヤベーからな
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/04/21/111939 ”
https://x.com/yuukim/status/1119804192644747265?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
あーこれ、本宮ひろ志の言動(ツイートのさらに引用先のツイート)を小林よしのりが真似てる気配があるな。
https://x.com/matsuwitter/status/1808680800562597997?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
お、からかいが始まった。逆なんだよなあ。紙幣による記憶の定着で、武士道が知られているというふうに遡行されてるんだよ。英語で知られた日本人著作、どんだけあると思ってんだ。
https://x.com/arata_eisuke4/status/1808711763552051554?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
他にありうるのは、韓国の反発に反発する奴はいても、渋沢一族に恩義や仁義を示すのをいまの日本政府は見せないから、ブースターが存在しない、というのもありうるかな。
新紙幣選定・発表(2019)の財務大臣は麻生太郎で、麻生財閥が渋沢財閥を選んでるグロさもあるんだよな。
戦後紙幣は伊藤博文、福沢諭吉、新渡戸稲造、渋沢栄一の並びが明らかにアジア侵略正当化の系譜だし、帝国期ジャパンの偉人を称える枠が強い。「軍人や政治家じゃない経済人や文化人から」とか言ってるが、これは表向きのカバーストーリーなんだろうなとよくわかる。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43507800Z00C19A4EAF000/
あまり書き物ができてない。