最近は、黒沢清もそうだけど、脚本をあまり詰めない力について考えていた。
蓮實が73年の世代と呼んだ作家群(ジャームッシュ、ヴェンダース、エリセ、ベルトルッチ、アンゲロプロスなど)は、脚本に余白を作ることでインプロヴィゼーションの余地を作るタイプの作家だったなと。
これは現在の評価基準からは「脚本軽視を招いた。脚本を作り込むことも整備しないと」という反省を生む。
だが、実際には、余白を作ることで作品を動かすスキルを持つ作家には、重要な手際でもある(マンガで言うと、役割の最終的な帰結を未決定にすることで連載途中でダイナミックな変容を遂げる作品が近い)。この「変動を考慮した結果、隙にも見える」側面はきちんと言葉にされてないように思う。
『フュリオサ』見た。
前作よりも、損耗される人や破壊に痛みを感じさせる力が宿ってるように思った。マックスという神話的存在がいないからだとか、少女フュリオサが殺害や破壊を見つめ続ける存在だというふうに最初に強調されるのが効いてるからなんだろう。
この膨大な人死にと資源損耗は、独占し統治する狂王に注がれるのか…と呆然とさせる力が増してる。
ミセスのMVをめぐって、真の問題は「漫画ならあの程度の不謹慎はあり。見過ごされているだけ」なことかな…。
なんかこういうの、「ファンダムの間で火をつければよく燃える」計算にしか見えなくなってくるな
https://x.com/travis02130213/status/1801573409500913701?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
“奥能登で3、4月の死亡届が3割増 災害関連死さらに増える可能性
https://mainichi.jp/articles/20240611/k00/00m/040/194000c “
https://x.com/mainichi/status/1800660532355096950?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
あまり書き物ができてない。