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プリゴジンが死んだので、イリヤ・プリゴジンを安く古書で買ってる(類感呪術?)。グランスドルフとの共著『構造・安定性・ゆらぎ』が数式多くて白目になった。

マンガではいくつかの「もはやスコープ狭くなったのが明白な老いのモデル」があるが、いまの50歳前後の世代に相当しそうなのが雑誌『フリースタイル』の漫画把握。ほとんど90年代で時間が止まっているような世界になっている。
だがこれをもって団塊ジュニア世代の老害化、と嘲笑するのは早計で、いまの30代、40代にとってのフリースタイルみたいなセレクティブ体制があると考えられる。

私はこの種のセレクト(だいたいその基準は「ある時期からの漫画なり映画なりは堕落だ」という区切りを持ち込みたがる)の内面化を解除するために、ゴミっぽいものから傑作までの総体全部を掘る、というふうにやっている。そうすると、ゴミもまた現代の中でのトライアルや生産として生まれているのが精密に観察できるし、良作におけるゲスな要素のハンドリングも見極められる。

世俗からの超越・脱俗志向と、「Aはぬるい/他方、Bは尖っている・本質的だ」判定の基準に足を取られる人は多いんだが、その種のジャッジは「学ぶものを縮減してくれる」から若い頃や学生には大受けする。「〜なんて読む価値無し」の断言が若い人につねに受ける光景がるのはこのため。
だが実際にはこの種の選別は、知を狭くしてしまう。フィルムスタディーズすら学習対象から外してしまい、もはや知性ではなく固有センス蛮族ぐらいにしか思われていない日本型シネフィル(≒蓮實派)もそういう知の狭いアホになった。

雑誌ダヴィンチってあるけど、あれは男性オタク女性オタクゾーンを回避しつつ、人文系オルタナ教養もごっそり欠落させていて、それは所詮「国語」を基盤とする教養形成だからなんだけど、しかし、現行のマンガ周辺の知はだいたいダヴィンチ型だという面もある。

人文系オルタナ教養というのはウィリアムモリスやアナキズム、社会主義系教養、批評理論も入れてもいいかも、まあインデペンデント系書店から人文ハードコアまでのエリアを指す。

これらは角川にはないけど、論壇文壇にもない。「拡張型角川」みたいなものに中立性を期待してるのが論壇文壇に甘い人の間抜けさとして、私には映っている。

両方同じに見えるからいっそ日本的論壇ニアイコール角川知として、秩序把握しておくべし、の発想になる。日本的エンタメで考えると「角川のレギュレーションの限界と成果(富野由悠季含む)」の把握は必須だろうから。

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一般的に人文好きは角川で学ぶのを亜インテリコースとして舐めると思うけど、私には日本論壇文壇知で済ましたり適応してる人こそが角川みたいに見えるというのがある。つまり、「日本の論壇文壇」カテゴリ内にある祖型が角川で、入れ子式になっている。
日本保守文壇と角川の差異って「日本の知性」をめぐるオーセンティシティの有無だけなのでは。

論壇や文壇のオピニオンって、左派の実現というよりは、保守パターナリズムが「恵んでくれる」余地のような範囲でしか起きないし、エスタブリッシュメント保守のおまけみたいなものだよ

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わかりやすい政治的発言が出たときだけ反応するのも、もはや無自覚に「すべてがジャーナリズムモードでしかは思考できなくなっている」ようで失望が沸く。
でも論壇や文壇の保守パターナリズムを「良心」と誤認するぐらいにぐだぐだジャーナリズムモードが多く、穏健保守や反左翼への警戒が薄い人だらけなのも、日本人マジョリティは右翼だしそんなもんかみたいな感想に。

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市川沙央個人が保守かどうかより──そんなことはハンチバック前後のインタビュー発言や本人の富裕層ぶりを考慮すれば早々に推定が立ったはずで、その上でなお、作品における色分けし難いバッファゾーンなり鮮明な箇所の読解などをとっとと蓄積されているのが望ましいわけだが──、文壇・論壇の保守〜右派体制ぶりを無色透明の中立だと楽観しているような能天気さの方が気になるようになった。

日本は保守総合誌も極左論壇も、両方ともアンチアメリカの保守教養主義に甘々だし、エスタブリッシュメント右派になるコースへの警戒がガバガバだから、ここに染まると保守一択にしかならんでしょ。白井聡だって「青年将校」みたいなトーンで受けてるんだから。

開催2時間前ぐらいに知ったけど、すでに申し込みが終わってた。まあ外出するしいいか…。

【パブリックヒストリー研究会第15回公開研究会】

登壇者:
師茂樹、杉浦鈴、近藤銀河、仲山ひふみ、中西恭子、マーク・ウィンチェスター

public-history9.webnode.jp/l/パ

家族でも学校でもないサードプレイスを目指して、そこに教会がよぎってくる、という進行で物語が進むことのを考えながら読んでいる。

ワンピースREDでもドラクエユアストーリーでもいいんだけど、二つの世界を作ると、片方を幻想・欺瞞に据えるのがよく使われる構成で、そこでバービーを見ると、バービーランドは別に欺瞞ではなくむしろ理念の体現だから、その手の対立のイージーハンドリングを封じてるのもうまい。

幻想と現実にして「回帰すべき現実」に収束させると、ダメな保守的説教性が出やすい。日本エンタメで虚構世界と現実を同居させると大抵これになる。

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ただし、女騎士を(性的にも)イノセントな武士にするコースなので、異和をキープしつつ舐められないポジにはなるものの、ここから異議申し立ての主体にはしづらい。
これは日本的脱政治路線ゆえの弱点だろう。だがバービーから考えれば真逆のサイドから掘削可能になると思われる。

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女騎士ミームは「くっ殺せ」とセットだから、ポルノミームなんだけど、青井タイル作品では、女騎士の表情をOFFにしてリアクションでエロくする手を遮断してるのと、武士っぽく伸ばす。これにより、「女騎士さんが日本文化スゴイを語る」の植民地主義的テンプレを避け、むしろ女騎士さんの高潔さが輝く反転持ち込む。

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朴夏辰の大島弓子『毎日が夏休み』論おもしろーい(『In-vention』創刊号、2013)。毎日が夏休み、『家族ゲーム』よりラディカルな感じなんだな。
この人はベケット論で博士号とったのかな

バービーが人間世界に来るときの違和感や主題系は、この種の模索と合流させてしまえばいい、と思いつつ映画バービーを見た。

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やっぱりこの漫画が現在の「女騎士、日本へ」枠の基準作品だな。ポルノ要素を逸らす手際がうまい。
本作を持って女騎士ミームに一区切りがついたとみる

comic-ogyaaa.com/episode/14079

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