“あえてこの表現を用いれば、「普通のドイツ人」は「絶えざるずらしとすりかえ」という知的不誠実さを不問に付し「物語化」という誘惑を受け入れたのであった。徐も指摘しているようにこれがさらに粗雑な形で行われたのが一九九〇年代半ば以降の日本であった。「新しい歴史教科書をつくる会」は当初は「自虐史観」から脱却し司馬遼太郎の小説のようなわくわくする教科書を目指すとしていた。そのような出汁に使われた司馬ですらファナティカルな軍国主義を批判していたのであり、現在では極めて良識的に映るほど、「普通の日本人」においては歴史の否認こそが大勢となってしまった。”
徐京植著 『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1528.html
徐京植著 『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』
https://satotarokarinona.blog.fc2.com/blog-entry-1528.html
“『過ぎ去ろうとしない過去』の三島憲一の解説をふまえ徐はこうまとめている。「「歴史家論争」における修正主義者側の主張は、七〇年代以来のリベラル左派的コンセンサスに対する反動の一形態であったといえよう。論争の勝敗をひとことで総括するのは困難だが、ある論者は、論争を通じてハーバーマス側が議論では優勢であったし知識層の支持も多かったが、メディアに現れない大衆の日常意識の中では修正主義者への支持が多かった、と述べている。修正主義者側の「絶えざるずらしとすりかえ」、そして「物語化」という戦略に対して、ハーバーマス側には有効な反撃策がなく、その結果、「規則にのっとった議論では勝ちながら、規則の選択で敗れている以上、全体として敗色濃厚だった」というのである」。”
“彼(ラミング)はその社会を、「一方に、読み書き能力がない、そうでないとしても貧しかったり疲れて本を読むことができなかったりして文学とは無縁の大衆、そしてもう一方に、地元の土地で育ったものや作られたものであれば嘲笑うという特定の目的のために教育を受けた植民地中産階級」という雰囲気に支配された社会と表現している[*42]。こうしてカリブ海における1930–40年代の労働運動から、大衆は排除されていった。”
第7回 植民地の教育と記憶 未来のために振り返る力|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
https://note.com/kashiwashobho/n/nf1862a891888
“『黒い皮膚・白い仮面』でファノンは、白人優位の価値観が教育を通して子どもたちのなかに染み込んでゆく様を、「結晶化」と表現している。「アンティル諸島では、学校で《われらが祖先ゴール人》[ガリア人のこと]を絶えず反復させられる黒人の子供は探検家や文明をもたらす教化者、野蛮人に真理を、純白の真理をもたらす白人に自己を同一視する。自己同一視があるのだ。つまり黒人の子供は主観的に白人の態度をとるのだ。[……]。こうしてアンティル諸島の子供のうちには、本質的に白人のものである、ある態度、物の見方、考え方が次第に形成され結晶化するのが見られる[*41]」。要するに、英語圏以外のカリブ海の島々においても、教育は同様に帝国主義的なイデオロギー装置として利用されていた。そしてかれらにとっての「教えと学びの空間」もまた、自己否定の場であると同時に、西洋支配者たちの優れた「態度、物の見方、考え方」を模倣し内面化するための場となっていたのである。”
“「いま現在、帝国主義者をこうまでのさばらせたのは何が原因ですか?」という質問に、サイードは「強力に組織され、多くの人々を確実に動員できる抵抗勢力が存在しないこと」とともに、「知識階級全般の失敗」を挙げている。「重要なゴールを見失ってしまったのです。重要なゴールとは、エメ・セゼールが述べたような、自由と解放と啓蒙を求めるあらゆる民族が集う、勝利の会合なのです」(Edward W. Said and David Barsamianm, "Culture and Resistance",2003)。”
なぜコロンブスの像は破壊されたのか
https://note.com/k2y2manabe/n/n4218fcc9e026
後で読む。
第7回 植民地の教育と記憶 未来のために振り返る力|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達
https://note.com/kashiwashobho/n/nf1862a891888
口の立つやつが勝つってことでいいのか!頭木弘樹
https://note.com/kashiragi_box/n/n03d8013f6ca0
図書館に対しては、屈託が結構ある。
本を読んだ方が良いのかどうかは
図書館や書店や広告で歴史修正やヘイト、代替医療などが揃っているのを見ると、ちょっとためらう。
「読書」のための環境が整備されているのか、とか。健常者優位なのでは、とか。
『世界史とは何か 「歴史実践」のために』
https://www.iwanami.co.jp/book/b625953.html
(前略)“世界史はつねに「変化の激しい予測困難な時代」の連続であり、あえて現代を定義するならば、「人類が地球社会を未来に存続させることがより困難になっている時代」である現実のほうを見つめるべきだと思います。予測が困難なのではなく、生き続けていくことが困難なのです。私は、蓄積された学問を創造的に探究して、未来の困難に向かってどう生きるかを考えるような、新しい教育実践の挑戦を積み上げていきたいと考えています。
(「はじめに」より)”
→あまり、こちらが勢いよく攻めれば、彼等は、心を閉じてしまい、なにか見事な一語で、もはや議論の余地はないという。といっても、それは、彼等が、説き伏せられるのをこわがっているからではない。ただ、自分が、滑稽に見えるか、あるいは、自分の困惑が、味方に引き入れようとしている第三者に、まずい効果を与えることを恐れているにすぎないのである。/以上のように反ユダヤ主義が、理論も経験も撥ねつけるからといって、その信念が固いという証拠にはならない。むしろ、なにもかも撥ねつけることに決めてしまったから、信念が固くなったのである」(安堂信也訳『ユダヤ人』岩波新書、一九五六年、一八―一九頁)。
章末の註にあるサルトル『ユダヤ人』からの抜粋が印象的だった。
──「彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ『権利』があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話し相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢を挫いたり、とまどわせたりすることだからである。→
賢人と奴隷とバカ
01.現代日本の「反・反知性主義」?
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1107&ct=8
読んだ本 これから読みたい本のメモ 思うことなど トランス差別に反対しています
takako3599@ohai.social こっちも