@kitsunekirin これは、田舎に住んでいる私も同様に感じていることで、ここ数年で、財政的なバックアップをせずに衰退しつつある田舎を振興しようという政策が増えてきたのを実感しています。
要するに、自助努力(自分で採算が取れるようにしろ)と、ボランティア頼みの地方振興策。
農村のインフラを維持するためにはそれなりの費用を要する土木事業が必要なのだけれど、そこにはお金を出さない。ソフトウェアが重要だ、とか言って、口先ばかりの「コンサルタント」や「コーディネータ」にばかりお金を出して、住民やボランティアの努力に期待する方向に話を持って行って、それでおしまい。その方が安上がりなんだろうね。役人の天下り先である公益法人にそういう仕事を割り振れば形の上では言い訳が出来るしね。
東京国立博物館の館長が緊急寄稿「このままでは国宝を守れない」 | 文春オンライン https://bunshun.jp/articles/-/59847
これね、見たとき本当に愕然としたんだよね。「国立」だよ。「国立」の文化施設に必要経費が降りないんだよ。必要性を訴えたのに退けたわけでしょ。把握した上で『不要』ってしたんでしょ。もうどうしようもないじゃん。「国立」でそれやられちゃさ。私立の施設なんてもっと蔑ろにされてるのでは。『クールジャパン』とか言って都合いい時に『名誉』だけ与えてるのも本当このやろうって感じ。
@pantabekanmi 「いいね」「お気に入り」「ブースト」されなくても良いと思います。
今になって白状するけれど、カンミさんの文章を読んで初めて、香水を着けてみようかな、自分には似合わないと思うけれど、着けたいな、という気持ちになったのです。そういう、人を動かす言葉はすぐには反応を得られない場合が多いと思うので。
耳のピアスしたいな、とか思ってます。見る人がぎょっとするのを見て面白がりたいという、ひねくれた爺さん。へっへ、怖い者なしだ。
柿の木を強剪定(ほとんど伐採)した。昼休みを挟んで、11:00 頃から 14:00 頃までかかった。
段取り良く作業が出来たと思う。
・○○さんが設置している網と電柵を枝の落下にそなえて外す
・高枝切りチェーンソーを使って、切れる限りの枝を切り落とす .・脚立を使って、さらに上部の枝を切れる限り切り落とす
・脚立を使ったり、太い枝に足を掛けたりして、ハンディ・チェーンソーで切れる枝を切り落とす
・最後に残った幹にロープをかけ、近くにある樒の幹とつなぐ
・エンジン・チェーンソーで幹の山側に切れ込みを入れ、谷側を少し切り、ロープを引いて山側に倒す ... よし、上出来、うまく行った
・エンジン・チェーンソーで太い枝を切り落とす
・○○さんの海苔網と電柵を復元する
切って落とした枝は、量が少ないうちに、こまめに除去した。作業空間はきれいにしておくのが良いことを再認識。
切った枝は、いつものように、電動剪定鋏を使って小さく切る。柿の木は好き勝手な方向に枝分かれして伸びているので、細かく切らないと、非常に広大な置き場所を占有する。そのままだと、火を付けても、燃料となる枝の密度が薄すぎて十分に温度が上がらず、燃焼が持続しない。半分ぐらい処理が済んだ。まだ残っているが、16:30 に作業を終了する。
既に耕作放棄した農地にイノシシ用の柵が残っている。亡き父が50年以上前に設置したもので、波板トタンとL型アングル鉄棒が使われている。
常々、あの柵をばらして、材料を再利用しようと思っていたが、今日、やっと、L型アングル鉄棒を12本、波板トタンを4枚、回収することが出来た。まだ何本か残っているが、引き抜くのに結構な労力を要するので、今日はもう力尽きた。
地中に埋まっていた部分は腐食して脆くなっていたので、村の備品である切断機を借りてきて、切り落とした。
父は、物にはそれを作った人の命がこもっているので、無駄にしてはいけない、と言い、廃材に含まれていた折れ釘を叩いて伸ばして使う人だった。今も、父から受け継いだ道具箱には、そういう釘が残っている。
父がいれば、今日の仕事の成果をどや顔で自慢するのだが。
森林組合が村山の間伐作業に入っているのだが、墓の近くに木が倒れたのでどのように処理すべきか指示してくれ、と言ってきた。
区長(自治会長)としては、それなりの手順を経て決めるべきだと思ったので、山林係と墓の関係者に声を掛けて、現地検分に行った。
墓は林の中にある。現在は4軒の家の墓があるだけで、しかもそのうちの2軒は最近になって人が絶えたり村から出て行ったりした。薄暗い場所にある寂しい墓地だ。
うち捨てられた墓石がいくつか残っていた。
しかし、この場所は「平野(ひらの)」という名の比較的なだらかな山腹で、現在は人造林になっている(だから森林組合が間伐に入っている)が、かつては牛の放牧場(マグサ場)だったそうだ。そして、村中の墓がここにあったと言う。その当時は明るい墓地だったのだろうな。そんな景色を見てみたかった。
元気だった人が急に動けなくなって休むのって結構難易度高いと思っていて
「意外なことが出来なくなり、意外なことが意外と出来たりします」とは医者の談でこれは病気療養すべてに当てはまるみたい
病人以外の人の暮らしは何かをする事によって成り立っているから、
何かをしない事を生活の中心に置いて考えるようにできてないんだと思います
よく寝て、起きて、ご飯を食べ、楽しいと思う事だけやる
それも健康だったころに10出来たとすれば3ぐらいにしておくのが良いみたいです
生活のスピードを落とすイメージです
頭を使う事も楽しみも含め沢山頑張りが必要なことは一度にやらない
一日一個用事を済ませられれば優勝
回復するときというのは細かい波を何度も乗り越えながらだんだん時間をかけて良くなっていくものらしいです
だからしんどい日があってもそれも回復する一歩だと考えてしのいでほしいです
というような闘病生活を、8年前に病を得てから送ってきました
それまでは休むという事を知らないで生きて来て、ぶっこわれてやっと、出来ないことにぶつかってわかったのがわたしです
皆様もご自愛ください
ゆっくりしてください
山の中の集落、岩座神(いさりがみ)に住む面倒くさい爺さん。
プログラミングと社内PC環境の保守を糊口の資としてきたが、引退してゆるゆると野良仕事三昧中。
本拠は @kotobaphil-mtd.eu に移しました。