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「宗教的」ということ 

これも「政治的」というのと同じような所があって、多数派の中にいて安心できている人たちは、自分が宗教的な選択を日々積み重ねていることを意識していないように見える。

「実によって木を知る」と言う。

自分は全然宗教的ではないという人でも、その言動を見れば、その人がどういう信仰に依拠しているかは知ることが出来る。ただそれを○○教と名状することが出来ないだけで、宗教であることに変りはない。

「政治的」ということ 

会議を仕切っていたのは、区長(自治会長)の中から選任された協議会会長で、普通に、人望も能力もあると思われている人だ。国粋主義者ではない。

しかし、英霊塔の清掃を集落自治会が持ち回りで請け負うという慣例を黙って受け入れるという意思は固いようだった。

それは政治的な選択である。自分では、全くのノンポリのつもりなのだろうが、多数派に従って多数派の思想を受け入れるというのは、まぎれもなく、政治的な選択である。

こっちの少数派と目される言動は「政治的すぎる」という言葉で簡単に退けられ、多数派の思想をなんとなく受け入れる側は理屈もへったくれもなく「和」をもって尊んでいれば良いという、何と言う不公平よ。

それでも、黙っている人たちの中にも理解する人はいるに違いないので、自分が信じるところの理は表明しなければならない。どのような表明の仕方が良いのかという事も考えるが、正直なところ、あまりよく分からないし、自分の慣れたスタイルでやるしかない。効果の程はわからん。知らん。

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「政治的」ということ 

今はもうあまり使われないが、かつて、「ノンポリ」という言葉があった。

Wikipedia による言葉の定義は :

> ノンポリは、英語の「nonpolitical(ノンポリティカル)」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。

とのことである。

この言葉には、かつては、否定的なニュアンスがあったが、今では「ノンポリ」であるのが標準にbなってしまった。むしろ「政治的」という言葉が否定的な意味合いで使われる場合が多い。

○○町区長協議会というのがあって、これは、集落自治会の会長(それを「区長」と呼んでいる)の集まりだ。あるとき、区長の一人である私は、これまで慣例的に続けてきた英霊塔の清掃をどうするかという協議の場において、集落自治会が英霊塔の清掃をする義理は全く無い、という話をした。

だって、そうだろう。英霊塔って何だ、と事務局である町の職員に聞いたら、日本のために戦って死んだ兵士を慰霊する石碑だと言う。自国であれ他国であれ戦争で殺された人を慰霊するものではないよね、と念を押すと、その通りです、と言う。そんなものの清掃を我々が強制される理由は無い。

そのように言ったら、会議を仕切っている人が、そういう政治的な話はしてくれるな、という意味の事を言った。

@moriteppei あ、既に見てましたか。
あれ、アメリカ映画の傑作中の傑作だと私は思っています。

仕事始め。

午前中にたまっていた雑用を片付けたので、午後はちんたらと時間をやり過ごそうと思っていたのだが、雑用が途切れなかった。

@moriteppei

かなり古いけど「ブルース・ブラザーズ」をお奨めします。Amazon Prime で無料です。

とびきりバカっぽいドタバタ喜劇ですが、音楽は極上の R & B だし、倫理の筋金が入った筋書きできちんと勧善懲悪するし、とにかく楽しめる映画です。

昼食の猪鍋も消化しきれないいうちに、夕食は但馬牛の鋤焼き。ごめん、旨かったんだけど、もう、しんどい。

猪鍋の方は、親しくしている隣家の当主が、息子さんが結婚した相手を連れて初めて帰ってくるのに合せて、一族郎党を集めて披露宴代りの宴会をした、その席に呼ばれたのだった。親戚でもないのに呼ばれた訳だ。どうなんだろう、断ることも出来たと思うが、隣家の当主とは今後も親しくつきあいたいので、お祝いを包んで招きに応じる方を選んだ。

但馬牛の鋤焼きの方は、きはら家の新年会。徳島と岡山から帰省して別宅に滞在中の子供たちとその母親が来て、甥っ子も彼女を連れて帰って来て。

楽しい時間が過ごせて、良かったと思う。

10年か15年ぐらい前だったかな、秋祭のときに同じように家の宴会をしたことがあって、そのときは、もっと嬉しく感じたな。家族が楽しそうにしているのを見て、大袈裟に言うと、家父長の醍醐味はこういう所にある、と感じたように思う。

まだ子たちが幼なかったからかな。彼らは独立を目前に控えていて、親の庇護の元にいるとは、もう言えない。

妻との関係も変った。かつての彼女は、もっと自分を抑えて、家長たる私を立てていたんだろうな。

寂しいか。いや、そんなことはない。もっともっと身軽になりたいと思う。

猪鍋食ってきた。旨かった。

イノシシなんか10年ぶりぐらいかな、と言ったら、お前、2年前にも食わしてやったぞ、と言われた。

国家神道の信徒に取り囲まれて息が詰まりそう。

きはら F さんがブースト

変えなければいけないのは、自分たちとあの人たちの、今のこの関係性なのであって、「あの人たち」ではない。そのことがわからないうちは絶対にあの人たちを変えることはできない。

きはら F さんがブースト

①自分たちのことを変えようとしている、②自分たちのことが嫌いな、③自分たちが嫌いな相手がいたとき、人はそいつの言うことを聞くかどうか、一度でいいから考えてみたらいい。

きはら F さんがブースト

まず最初に言えることは「あの人たちを」変えるって思ってるうちは絶対に変えられないってこと。変えるのは「あの人たち」ではなく、「あの人たちと私たちというこの構造」である。

もう元日は終ったし DIY しようと思って行って見たら、コメリはまだ休んでいた。農協も。

ま、そりゃそうだわな。私が悪うございました。

きはら F さんがブースト

弱く小さな者、打ちひしがれた者の目には見えない微弱な働きが、目立つ、強力な暴虐な、他者を虐げる者を最後に圧倒する。そういう願望が、他民族に支配されたユダヤ人の王国の住人達の間には広がっていて、預言者イザヤは没落したユダ王国の人々のそういう希望を、父祖の唯一の神への伝統的な信仰へと導いたのだった。しかしその言葉に耳を貸すものはいなかった。誰もが流行りのご利益のありそうな神に飛びつき、手っ取り早くイスラエルの栄光を回復してくれるよう偶像を崇めていた。精神面での統一こそが国民の真の強さだとは誰も思わなかったのだ。神がことばではなく物であり続けたからユダヤ人の国はついに滅びてしまった。しかし神は国は滅ぼしても民は滅ぼさなかった。彼は愛した民の末裔の悔い改めを待っていた。
【あなたは低くされ、地の中から語りかけ、 あなたのことばは、ちりの中からつぶやく。 あなたの声は、死人の霊のように地の中から出て、 あなたのことばは、ちりの中からささやく。しかし、敵の群れは細かいほこりのようになり、 横暴な者の群れは吹き飛ぶ籾殻のようになる。 しかも、それは突然、不意に起こる。】(イザヤ 29:4-5)

ウィスキー・ボンボンと、炭火であぶった酒粕は、幼い私を魅了した。あの甘美を追体験しようとして、年老いた私は今日も酒を飲むのだろう。

きはら F さんがブースト

今日のためにとっておいた、とっておきのチョコ。その名もウィスキーボンボン。友達からもらった高級品。こんな時のために冷蔵庫で冷やしておいた。金と緑の紙をぺりぺりと剥がすと、懐かしのボトルのような形のチョコレートが現れた。カリっと飲み口のところだけ齧って、お酒が口の中に垂れるかなと逆さにしてみて、とろりとした液を舌で舐める。このくらいの量がちょうどいい。こういうので酒飲みのふりをするのが自分にはきっと合っている。

「親の葬式なんか誰かがテキトーにやってくれるから放っておいて君は私と一緒に来なさい」と言ったのはイエス・キリストだ。

中山みき天理教教祖は「親と子でも魂は違う」と言い、「私が死んだら、遺体には何の意味もないから、葬式も何も要らん」と言った。

ところが、私の信仰と言えるものは、葬式と初詣に象徴される宗教的習俗に幾重にも囲まれて、初めて物語を聞いた時の感動を忘れて、消え入りそうになっている。

天理教の教会。

これは集落とは無関係。亡き父がここの三男坊だったので、我が家の「家の宗派」は天理教ということになった。

集落の、何て言うのだろう、共同体の宗教的習俗としての神仏混淆の初詣を済ませた後に、もう少しプライベートな初詣である。

雑煮をいただく。

集落の寺、神光寺にも初詣する。

ここでも寺当番の人たちが火を焚いてもてなしてくれる。蜜柑を貰って食べる。

本堂で読経(般若心経)のおつとめをして解散。

お宮さんとお寺のほかに、広峰神社もある。律儀な人はお宮さんに参拝した後、お寺に参る前に広峰さんに詣る。

五霊神社の拝殿

宮当番さんたちが火を焚いてもてなしてくれる。御神酒をいただく。

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