新しいものを表示

邦訳レーニン全集でいうところの「外延的発展」、これいかに。一見、現代日本語の辞書的な意味とは照応していない、いわば誤用的な訳語かとも思われるのだが、従来学界でもそれなりに流通していたようである。

紀州藩は18世紀以降、将軍権力の出身家系なので、吉宗の治世以後は、いわば「紀州王朝」の身内として長らく処遇されています。将軍権力にとっては最も近しい家柄。

何といったものか、藤原帰一を高く評価したい向きというのが存在しているのであろうか、あるいは。

トロント大学教授Arthur Ripsteinの著書『カントと戦争法』(OUP, 2021)に目を通していたら、冒頭に置かれた両親への献辞で「難民でスパイだったエレンに」と記されてあり、はてこれはと検索してみると、つぎの追悼記事がみつかった。WW2の戦中アムステルダムにいた、ヴィースバーデン生まれのジューイッシュだという。戦後にウィニペグへ移住し、株式仲買に従事し結婚。theglobeandmail.com/life/facts

運営組織の根幹にかかわることがらについてちっとも進捗できない。本末転倒も甚だしい

@yoshiomiyake フーコーによるマウリッツへの言及、『監視と処罰』を見返したら一箇所に一回ある程度ですよね(田村訳では「モーリッツ」…)。それもグスタフ・アドルフと並記されていて、いわば三十年戦争時代の人、という感じです。すぐにヴォーバン、ギベールの改革にまで筆は進んでいます。「従順な身体」のこの部分、私は全く忘れていましたが、こんなパッセージまで覚えているなんて、三宅さんの記憶力は実に驚くべきものだと思いました。

@yoshiomiyake はい返信ありがとうございます。「両インド」ふくめ貿易史をカバーした業績となると、世界システム論でも全然なんじゃないのか、と疑っています。グロティウスとかの議論もそれなりにありますが、いかにも政治学一般という感じで大して興味をもてません。とにかく大前提としてネーデルラントの政治・軍事・外交の歴史は、本邦の読者層にはほとんど知られていないように思われます。

@yoshiomiyake スピノザといえども「黄金期」オランダのマジョリティからみると本当に「どマイナー」なので、オランダ国民史のメインストリームにおいてふれられることが実に稀少ですよね。当然日蘭関係史研究にも登場することはありません。三宅さんにとって取り上げるに足る、みるべき近世オランダ史研究とはどんなものでしょうか?

維新=近代化=革命(!)という立場を堅持する側からみるとなると、中央集権・統一国家制度を確立する前の旧体制は分権的な複合国家なのに違いない、そうでなければ維新期の変革性を見出せないはず、という論理建てというか立て付けになっているのではないか、と思い当たった。しかしトクヴィル的にいってみれば「旧体制」との連続性というものも日本の国家には存在したのであって、それが集権的封建制というものであったのではないかと私などは考える(天皇のほうは大きく改変されているので、多少なりとも違う)。近代化要因を社会のほうに求める視角はすでにありふれているが(それでよいとは思わないが)、国家そのものにも維新変革の内在的原因は、あると言ってよいのではないだろうか。

@yoshiomiyake そもそも苅部さんは浅田彰を読んでこの道に志したと言われてましたので、ますます三宅さんが浅田さんのことを嫌いになりそう、と思ってしまいました。

ふつうの事務的な会議をやるとするならば、討議で参加者が一人十分以上しゃべるのを禁止すべきじゃないのか。

歴史学会の大会で、英語帝国主義の問題性をとりあげないものかな。

「グローバル化」でがんばってきたからグローバルヒストリーが地域史に対してより優越する、という観点というのはいったい何なのだろう。皆目わけがわからないのだが。

ブーストして思い出したけど、あるいは英米文学を専攻していたファニー(ドニーズ)・ドゥルーズの業績って、本邦の斯界では全貌が紹介されていないのではないだろうか。

同僚が土曜日というのに教職員組合に宛ててメールを送信していたのだが、こりゃ大物すぎる…。

フランスの文化政治といえば、それは過去から現在までの凡ゆる分野で顕著に視て取ることができようが、それを前提にすると、歴史研究での政治文化論なんぞは至極当然の状況を殊更に大仰な素振りで確認しているだけなのかもしれない、と思う。一方で文化の政治、なんつっても今日の本邦はと言えば、ハナで笑いたくなるようなものに留まる、と言ったら語弊があるだろうか。

youtu.be/r0WiHr6Pyr0 こんなの公開していたんだ。ヘルによるディアベッリ変奏曲

ただその直後に、M・ブロックが「しかし、こうした結論に対して再度議論をするとすれば、より確実な根拠に基づいてそれをすべきであろう」(邦訳pXVII)として論陣を張るのに対し、柴田による論評では、ブロックによる弁明のなかに「ヴァレリーの不信のアイロニーに通ずるものを感ずるのである」と述べて、いわば歴史家たちによる反論から、詩人の高踏的な文明論を救い出そうとするかのごとくである。《彼が「歴史」それ自体を否定しているのではなく、むしろ、国民に正しい歴史意識を与えることができない「歴史家」を否定することによって、「歴史」を救おうとしているとすら思わせる》…。

スレッドを表示

柴田氏はここで、Annales誌に拠ったフェーヴルやブロックによる批判や反論を引き、彼らの史論がヴァレリーによる歴史家批判を十二分に意識していたものであったことに注意を促している。とりわけ、『歴史のための弁明』が序文で『現代生活の考察』を引用し、「これらの断罪には恐るべき魅力がある」と評したところに、いっそうの注意をはらうべきであろう。

スレッドを表示
古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。