個人的閲覧用「無意味グラフ」まとめ
https://togetter.com/li/2253668
と、ここまではそういう表面的な部分の話
で、蛙亭が独特だなぁ…と感じているのは、
なんかああいうニュアンスを保持させたまま、"可愛げ"のデフォルメがうっすら成されているところだと感じています
なんか適当に言えば
キモさが分かりやすくないキモさで、
その見る側の解像度に委ねられている種類のキモさのまま、若干それを受け手が受け入れちゃってるという妙なグロテスクさが構造としてずっとある感じ
そして、それを自覚的にやってる感じがしないところ
無意識レベルの部分をお笑いにしてる気がする
それがなんか、飛躍した言い方をすると
「男性性(ショタ的な側面含む)のモノ化」と
「愛玩性(見下しと許容)の批評目線化」的なものを同時に感じてしまいます
中野さんはオモチャにされてる事を受け入れてるし、
岩倉さんはオモチャにも自我があるんだという部分を面白がろうとしてる自責の念を含めたグロテスクな目線を使いこなそうとしてる
そんな印象があります
蛙亭のネタを見て
おぱんちゅうさぎの可哀想に ❗さん的な世界観を感じました
蛙亭のキングオブコントでのネタ
なんかここら辺に、ラランドや3時のヒロインとも違う、あとAマッソとかとも微妙に違う
文化圏としての新機軸のある面白さの追求を感じています
女性芸人的なくくりで見る事に本質的な意味はないのだけど
でもやってる事の球種と仕上げ方が女性芸人だからこそ発祥できてるニュアンスな気がします
こういった動画を見つけました
今はフリースタイルダンジョンの審査員やNHKの天才ビットくんのMCなどのイメージが強い、いとうせいこうさん
元々は大学お笑い的な地点から出発しているピン芸人です
おそらく本人が意識的に「お笑いっぽさ」を消してゆく事で現在の地位を築いている事に感心すると同時に、当時(80年代?)としてはこういったタイプの漫談が新しかったんだな、と歴史的資料としても価値も感じます
ジョイマンという現象から捉える「自覚」と「言語」による「存在」への価値規定性 https://togetter.com/li/2242023
少し前のものですが、
ゾフィーのPodcast岡野陽一ゲスト回が味わい深くて面白かったです。
前編後編に分かれてて、なおかつしくじり先生出演を経てからの放送なので、いりくんだ構造なのですが
現代テレビバラエティでの何周もした"クズキャラ芸人いじり"を提示されて、お笑いにおける「蔑みとは何か?」を考えさせられます
佐久間さんの面白さの根幹部分は
「『自分で自分をいじっている』
という状態の、『俺』を見ろ」
みたいな、欲求によって形を成しているものだと感じます。
その営み自体は、
"一人(自己内省)" で成立する代物なのだけど
それを"見てもらう他者"が必要ではある。
ただ、その他者を形式や構造で、ある程度自ら意識的に作り出しちゃったり、他者をコントロールしようとしちゃってたりしている(実際、それが予期せぬ反応やプレイ環境に繋がったとしても、関係はない。その外圧自体が自己内省への刺激に繋がってゆくだけだから)
という面白さなのだと感じています。
「キス我慢」も「マジ歌」も「あちこちオードリー」も「トークサバイバー」も「ナミダメ」も、全部自己内省の発露へ向かう環境設定が、基本的な骨組み。
「ママチャリ王選手権」も、他のマニアックさと比べると、身近かつ自家発電的な面白さだなぁ…とも感じます。要は、ずっと縛りプレイ的。
佐久間宣行さんは
「いじられる裏方」として表に出てきてる。
芸人側が、つい、いじってしまうんだとも思います。
冗談半分、本気半分で、批判的に語られる瞬間も多々あると思うのですが、それ自体が「佐久間宣行」という概念の強化に繋がっちゃってる。