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視力 さんがブースト

北野武『首』、とりあえず 

北野武『首』。
映画としてどうかは置いといて、「ビートたけしファン」である自分には正直意外な出来、つまりとても良かった……。この数年ファンから幻滅され続けてきたたけしの晩年ムーブがフリになった、嗤いとニヒリズムの強烈なカウンターパンチ。もはや都市伝説と化した「たけしさんが飲み屋のお会計済ませてくれていて……」みたいな「美談」まで含め、残忍なギャグに転化される。芸人というロマンティシズムも映画という「権威」もすべて、「売れてねえくせによ!」という嘲笑で蹴り飛ばされる……のだが、そういう自分自身が最終的にきっちりフレームのなかに収められるという、何重にも冷静なニヒリズム。もうたけしはボケた!と誰もが思っていたのに、まだ振り子が止まってなかったんだ……という……。
しかしまあ過去作やたけし軍団、お笑いウルトラクイズやたけし城、戦メリばりの全画面笑顔などなど、キャリア総まくりの集大成で、大森南朋はそのまんま東に、浅野忠信は谷隼人に、中村獅童は島田紳助に見えてくる(笑)。「戦後日本のテレビ史」を知らない人にはどう観えるんだろう?

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ビートたけしが浅草からテレビの世界に出てきて、今映画監督として大成しているのが、時代と主要メディア転換の流動に身を置こうとしたんじゃないかなぁ…という心情が感じられて良いなと思います。世代的な共有はしていないし、なんとなくの憶測で言葉にしているのですが。

もしかしたら、浅い視座に聞こえるかもしれないのですが、YouTuberが有名になってテレビに出ようとしてゆく運動に近いものを感じています。

かつての映画館の立ち位置は、
劇場舞台に対しての新規メディアだっただろうし、
その映画館も新規メディアとしてテレビが表れた時に旧態的な立ち位置に移行したのだろうし、
そして、そのテレビも新規メディアとしてのネットが表れた段階でゆっくりと立ち位置が世代交代を成されていったのだと、

ざっくりとそういう認識でいいんじゃないかなと思っています。

劇場(旧態)→テレビ(新規)→映画(中間領域)

みたいな着地点にビートたけしさんは狙って動いていたとも勝手ながら想像しちゃいます。

そういった天下人の現時点の生息地としての主要メディアを見てると面白いです。

松本人志がドキュメンタルをAmazonプライムでやってたり、

さまぁ~ずがYouTubeにけっこう力を入れてたり、

メディアとその中心時代性を感じます。

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全共闘以降の破壊的な文化性を、後続世代として漠然と(本当にただ漠然と)内面化していたであろうダウンタウンは、反戦後民主主義的なセンスを90年代の「大衆/テレビ」回路のなかで積極的に展開し、そして彼らの在り方が当時の「サブカルコミュニティ/お笑いライブ」のシーンにおける理想像として、神格化された。大衆のアジールとしての寄席世界でもなく、戦後民主主義的お茶の間としてのテレビ世界でもなく、分節化されたサブカルコミュティの世界での、イデオロギーとしての笑い。

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「大衆/テレビ」の回路が専制的だった時期、笑芸は基本的にお茶の間に対応し得る内実、つまりアジールでの無礼講とは異なる、戦後民主主義的な価値観の範疇に収まるものでなければいけなかったはず。これが80年代に入ると、68年的なものと寄席的なものとを重ね合わせたような身体性を持つビートたけしによって、反戦後民主主義的な感覚が「大衆/テレビ」の回路のなかに持ち込まれる。で、そのプロセスも契機のひとつとして、「サブカルコミュニティ/お笑いライブ」みたいな回路も立ち上がってくる。

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「大衆/寄席」という回路が「大衆/テレビ」という大きな回路にスイッチし、更に1980年代後半ごろには、「サブカルコミュニティ/お笑いライブ」みたいな新しい小さな回路も成立し始める。

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少し前のものですが、
ゾフィーのPodcast岡野陽一ゲスト回が味わい深くて面白かったです。

前編後編に分かれてて、なおかつしくじり先生出演を経てからの放送なので、いりくんだ構造なのですが

現代テレビバラエティでの何周もした"クズキャラ芸人いじり"を提示されて、お笑いにおける「蔑みとは何か?」を考えさせられます

open.spotify.com/episode/4dpD8

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ゾフィー『ZOBEST』観た。上田はゾフィーの名前を残すわけにはいかなかったのかなあ。バカリズムみたいに。

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そういえば、いまだに一定の世代が「水曜どうでしょう」的なものから逃れられないのと同じように、たとえば20年後くらいに、オモコロ世代がオモコロ的なものの呪縛にとらわれたりするのだろうか

感覚的な言い回しをしてみると
かつてアンガールズが「キモかわいい」
と形容されてましたが、
蛙亭は「かわキモいい」みたいな領域を描いているのだと思います

カエルって
イラストとかだと可愛いく描かれているけど、リアルでよく見るとけっこう気持ち悪くて、でもその気持ち悪さを一回受け入れるとあの目玉もヌメヌメした皮膚も剥き出しの内臓みたいなフォルムも、なんか可愛く感じてくる

し、そういう生き物としての気持ち悪さって人間としての自分も他の生物から見たら異形のキモさがあるんだろうな…とぼんやり感じてくる

そんな魅力が蛙亭のネタにもあるなと思いました

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と、ここまではそういう表面的な部分の話

で、蛙亭が独特だなぁ…と感じているのは、
なんかああいうニュアンスを保持させたまま、"可愛げ"のデフォルメがうっすら成されているところだと感じています

なんか適当に言えば
キモさが分かりやすくないキモさで、
その見る側の解像度に委ねられている種類のキモさのまま、若干それを受け手が受け入れちゃってるという妙なグロテスクさが構造としてずっとある感じ

そして、それを自覚的にやってる感じがしないところ
無意識レベルの部分をお笑いにしてる気がする

それがなんか、飛躍した言い方をすると
「男性性(ショタ的な側面含む)のモノ化」と
「愛玩性(見下しと許容)の批評目線化」的なものを同時に感じてしまいます

中野さんはオモチャにされてる事を受け入れてるし、

岩倉さんはオモチャにも自我があるんだという部分を面白がろうとしてる自責の念を含めたグロテスクな目線を使いこなそうとしてる

そんな印象があります

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コントの設定の話だと

中野さんのあの奇天烈キャラ
だけどツッコミとして見る事もできる常識人の要素
そこら辺のバランスが味わい深かったです

審査員が若かったらもっと刺さってる反応の人もいそうと思いました

「自分の物差しで話を進めるところ」
というワードはツッコミ的な体重が乗ってるからこそウケてる気がしました

中野さんの持ってるフラ(人間的なおかしみ)って同世代的な部分が強そうだなぁ…といつも思います
それでいて普遍性もあると思う

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蛙亭のネタを見て
おぱんちゅうさぎの可哀想に ❗さん的な世界観を感じました

蛙亭のキングオブコントでのネタ
なんかここら辺に、ラランドや3時のヒロインとも違う、あとAマッソとかとも微妙に違う
文化圏としての新機軸のある面白さの追求を感じています

女性芸人的なくくりで見る事に本質的な意味はないのだけど
でもやってる事の球種と仕上げ方が女性芸人だからこそ発祥できてるニュアンスな気がします

こういった動画を見つけました
今はフリースタイルダンジョンの審査員やNHKの天才ビットくんのMCなどのイメージが強い、いとうせいこうさん

元々は大学お笑い的な地点から出発しているピン芸人です

おそらく本人が意識的に「お笑いっぽさ」を消してゆく事で現在の地位を築いている事に感心すると同時に、当時(80年代?)としてはこういったタイプの漫談が新しかったんだな、と歴史的資料としても価値も感じます

youtu.be/s7HFd7ZMytY?si=9Guk-U

ジョイマンという現象から捉える「自覚」と「言語」による「存在」への価値規定性 togetter.com/li/2242023

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