個人的にはオリラジあっちゃんの提言は面白いと思いつつ、騒動そのものに参加している人々自体の年齢層の高さに構造的問題点があると感じてて、

正直「松本人志天下」そのものがもう終焉しているのだとも感じています。

たぶん2000年代中盤から実はさまぁ~ずの水面下での天下が実はあって、そこから今オードリー若林さんの天下に2015年辺りから切り替わっていると思っています。

たぶん松本さんの天下は、年代的に人口のボリュームゾーンである事とか、ネット登場黎明期のタイミングだった事とかが緩やかに関係していて、「年齢」や「お笑い好きかどうか」で、ずっと天下が続いているように感じる人が多いからという理由があると思う。なんていうか、言葉選ばずに言うと『新興宗教的』なんだと思う。

その外側に居ると、とっくにその磁場は弱まっているのがわかる。松本人志より上の年代の人と話したりすると「ビートたけしの天下」がまだ続いてる認識だったりします。

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「お笑い」というジャンルの地位向上の先に、テレビメディアと吉本興業という芸能事務所の形態がマッチして巨大資本の中で、神格化させながら産業として運営しているのだと感じますが、

例えば、上記したさまぁ~ずは
たしか2016年辺りに黒柳徹子さんとお笑いネタ番組の司会を一緒につとめてたと思います。

あと、ピース又吉さんの
芥川賞受賞というトピックとかも目を向けないわけにはいけません。

若林さんの立ち位置は、松本人志的なお笑い大規模コミニティと絶妙な絡み方をしていると思いますが、あちこちオードリーの配信ライブの盛り上がり方、「だが情熱はある」というたりないふたりのドラマ化などを考えると、これもまた「天下」を取ってないとは言い難いと思います。

なんと言いますか、
「『お笑い』の外側」にいかに連結しているのか?
という点で見ると、このそもそもの「天下」という概念自体が、けっこう簡単に覆ってしまうものだと感じます。

「天下」って"状態"が先んじているわけではなく、それぞれの「個人」の認識の中で、まず引き起こっているのだと思います。(なので、結果としてその認識の数が多いとその中で「天下を取っている」という共有世界観を形成しやすいというロジック。つまり洗脳的。)

「松本人志天下論」は、あくまで
こと"お笑い業界"の中でのみ強靭な磁場を発生させながら、その業界ごと拡張し、賞レース文化のホールドとトレースを繰り返すことによって、規模と格式を底上げさせてきたわけですが、やはりそれは"お笑い業界"の中でのみ成立している「天下」なのだと感じています。

もちろん
ドキュメンタルというフォーマットが海外バラエティにまで波及している事や、

フリップ大喜利としうゲームシステムの確立と普及など、

その功績はある種の他ジャンルへの影響も確認できるわけですが、

ただ、それらもやはり
「お笑いという概念の内部」でのみの触媒であると感じます。

中田敦彦さんが言うような「面白さの定義の固定化」は、たしかにそれらの利権と、空気としての誘導が、かなり強固に連動して形作られていると感じるので、ある意味では間違っていないとも感じます。(中田さんへのいじりという名の数による過剰なバッシング行為が、むしろその固定化されている現状の証明に繋がってはいる)

でも、それは繰り返すようですが、
「お笑い業界の中でのみ成立している天下」
である要素がとても強いと思います。

ビートたけしさんがお笑い芸人という出自と思想を色濃く残したまま、映画というジャンルに流入し、そのまま「世界の北野」と称され評され文化人的な地位を確立させていった形跡と比較すると、

松本人志さん的な天下が相対的にどうあろうとしているかが、なんとなく感じられます。

おそらく、松本さんはそれを踏まえた上でイメージコントロールに出力してきたであろうし、それが結果として"審査員"というブランディングになっていったのは本人がどれぐらいの段階から意図していたのかわかりかねますが、またこれから先どうなるかも予想できかねますが、現状そういう形でそれが天下だと言うのなら覇権を握っていると呼べるのだと感じます。

個人的な考えですが、
芸人さんの数だけ天下があるのではないでしょうか

僕は、これだけお笑い界内部で話題になってて、なおかつその外側にも基盤と地位を確立させているオリエンタルラジオ中田敦彦という芸人さんは、「もうすでに天下を取っている」と感じています。

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