ニーチェ以前にも、道徳を歴史的に変化するものと見做し、その変化を進化論的に説明する試みがあり、ニーチェもその内容を知っていたが、パウル・レー、スペンサー、レッキーなどによるこの試みは、道徳の変化が利他主義へと向かう一方的な「進歩」であるという前提を共有していた。ニーチェにはこの点が不満だった。道徳の変化は進化であっても必ずしも進歩ではなく、道徳の一方的な変化という前提に囚われているかぎり、道徳の多様性という事実が説明できなくなる。この不満は、ダーウィンがラマルクに代表される先行の進化論および地質学のうちに見出した困難に対応する。ダーウィンもニーチェも同種類の困難を解消するために、同じ図式を考案する。生物の進化も道徳の変化も、ともに直線ではなく、枝分かれを繰り返す扇状の系図によって描かれることになり、そのために二人のこころみは系譜学(系統学)と呼ばれる。系図を作ること、系譜学とは、分岐点を記述する作業。

快原理そのものは当初、生命の自己保存を導く原理として持ち出されていた。しかし実際にはそれだけでなく、拘束の機能を通してこそ「無機的世界」への回帰=死に最終的に奉仕するように働く。一方で、快原理は、心的活動の拘束を通して、快/不快、拘束/拡散、生/死の循環的エコノミーとして生命を維持するように努める。しかし他方、そのエコノミーがいわば螺旋状に進行するにしたがって、最終的に「有機体はみずからに固有の仕方で死のうとする」のである。この水準では快原理は死の欲動に奉仕する。「すべての生命体の目標は死である」という「死の欲動」は、生そのものに内在する死の反復(反復強迫)、およびそうしたエコノミーの終わりへの帰還として理解できる。

快原理のもとでは、願望充実を幻影のうちに実現することが夢の機能である。しかしながら、大きな災害や過酷な戦争体験の神経症患者の夢では、患者がくり返しトラウマ的な場面に連れ戻される経験をする点にフロイトは注目した。通常、夢での不快な場では、幻想のなかで不安を形成することがいわば免疫をもたらし、直接の心的衝撃を和らげる効果をもつ。フロイトの言葉でいえば、快原理に代わって現実原理が欲動を「拘束する」ことで結果的に快原理の働きを成し遂げることが可能になる。にもかかわらず、外傷的神経症患者の夢では、心的エネルギーのこの拘束が快原理に奉仕するようにうまく働かない事態が生じてしまう。その理由は、心的拘束が現実原理で対処できる限界を超え、いまや反復強迫にしたがって生じているからである。この反復強迫をきっかけにフロイトが仮説として提出しているのが「死の欲動」である。

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