"そうした批判は、皮肉にも、西洋フェミニズムの言説は有色人女性や第三世界の女性には無関係で当てはまらないという前提から出発している。この前提は、西洋の白人女性の状況を明らかにするためにフェミニズム言説をひとくくりにするのは妥当だと暗黙のうちに想定しているが、それこそわたしたちが異議を唱えたいものだ。そうした想定に疑問を投げかけ、二極化を再生産してもただ「フェミニズム」を再び三たび「西洋」に譲り渡すだけだと言いたいのである。結果は、架空でしかない西洋の均質性や、言説上も政治的にも安定しているかに見える西洋と東洋の階層的な分断を、覆せないだけである。"(C・T・モーハンティー 境界なきフェミニズム p.128)
女性は大胆に行動するという決断が奏功した場合(つまり被害を受けずに済んだ場合)にも、それは自分が経験や知恵や直感に基づいて合理的に状況判断した結果とは受け取らないという。そうではなく、むしろその状況を「馬鹿なこと」をやってしまったけど「うまくやりすごした」と解釈し直すのだ。(...)そういった出来事を、自分たちが得られる情報をもとにして正しい判断を行い、綿密で賢明な選択をした場面なのだと思い直してみることができるだろうか。私たちの直感は敵対的で家父長主義的な環境の中で研ぎ澄まされてきたものだし、繊細な感受性も合理的な情報処理能力もあるし、それらをどう使えばいいか知っている。男性に支配された世界で生きることがそうしたスキルを培ってきたのだ。そんなふうに考えると物事は違って見えてくる。ただ運まかせにほっつき回ってる女性はほとんどいない。みな抜け目なく、大胆に、豊かな経験に基づいて賢明に行動しているのだ。もし私たちが女性の勇敢さを認めることを否定したり手放したりすれば、それは直ちに女性が主体性や自分を理解する能力すら否定することに繋がってしまう。"(レスリー・カーン フェミニスト・シティ p.231~232)
"(…)全体として、こうした暴力の描写は見知らぬ他人からの暴力や性犯罪がつねに身近にあると暗黙に語りかける。コメディアンのティグ・ノタロにはその効果を実に的確にとらえたネタがある。パブリックな場所で不安を覚えた女性がその度に「レイプされるのかしら?」と考えてしまう、という小咄だ。それが真実に触れていると知っている私たちは、笑いながらもその不安にどこかで共感している。私たちは実際に、「自分がレイプされる」という現象は確固として存在していて、どこか暗がりで待ち構えていると信じているところがある。それとは対照的に、家庭内暴力や顔見知りによる性犯罪、近親相姦、子どもの性的虐待その他の「プライベート」で、しかしさらに酷く蔓延している犯罪には、はるかに小さな関心しか払われていない。フェミニズムの見方でいえば、この関心のギャップは女性の恐怖心が家庭や家族ではなく外に向くように促し、核家族をはじめとする家父長制を強化し、一見安全と思える異性愛関係への依存度を高めることに貢献している。さらに悪循環なのは、これが「安全」なはずの家庭の空間で体験した暴力をスティグマ化し(恥ずべき不名誉なものと感じさせること)、さらに目に見えにくいものにしてしまうことだ。
(レスリー・カーン フェミニスト・シティ p.214〜215)
裕福な家庭はこうした不都合を低賃金労働者の力を借りて乗り切っている。物事が家庭の手に
余ったり、行政が頼りにならなかったりするとき、アウトソーシングされた社会的再生産の仕事、たとえば手頃な料金の託児先を提供するのは移民、女性、有色人種の男性といった人びとだ。 (…)その点では高等教育を修了するという私自身の「教育」は、少なくとも部分的には、宅配業者や保育士など、仕事内容の割に低賃金な境遇におかれた人びとの存在に依存していた。このことは、ケアワークの公的インフラが不足している中で家計を回していくために自分たちのやっていることが、結局はさまざまなレベルの搾取を強化し、女性の間の格差の拡大につながっていると思い知らされることでもあった。"(レスリー・カーン フェミニスト・シティ p.64)
"一九七二年七月に首相となった田中(角栄)は、すぐさま一九七三年度予算の編成に際して
の無償化や五万円年金の実施などを盛り込み、「福祉元年宣言」をした。これは持論である農
部の工業化や新幹線を軸とする高速交通網の整備などの地方開発を集約した『日本列島改造
論』のような開発主義だけでは都市部の支持層を得られない、と考えた田中の戦略であった。
しかし、「福祉元年」になるはずだった一九七三年一〇月には第四次中東戦争による石油危
機が起こり、右肩上がりの日本経済に暗雲がたちこめ、景気は停滞、税収が伸び悩んだことか
ら以降、社会保障費拡充が困難になったのである。ここに国家に依存しない日本型福祉社会論が台頭してくるのである。"(安藤優子 自民党の女性認識「イエ中心主義」の政治指向 p.54〜55)
> ぺぺは、ラディカリズム(根源)をかつてなく標榜していた。「リベラルは、ラディカルから生まれ、育まれる」と言っていた。
"労動権が認められれば、彼女たちはほかのどんな労働者とも同様に、それをもって、公の場で、みずから搾取や暴力にさらされる状況を変えるために主張し、団結し、行動することが、少なくとも理論上は可能になる。現実にも、労働者として社会に認められるなど条件が整えば、彼女たちが被害者か犯罪者としてのみあつかわれ、搾取や暴力にあった場合にも、救出や援助のみを頼りにしなくてはならないような、
そして、つねに逮捕や強制送還におびえながら隠れて暮らすような必要もなくなる。それが、奴隷状態から命を賭けて逃げてきた人を助けるのと同程度に重要な、エンパワメントなのではないだろうか。"(新編 日本のフェミニズム9 グローバリゼーション p.226)
"沖縄においても性暴力は被害者とその家族にとっての「恥」と考えられる傾向にあることから、直接訴えにくい状況にあった。だが、そうした状況を大きく変えたのが、北京女性会議での参加経験、そしてそのさなかの「少女暴行」事件であった。高里(鈴代)は、事件が起きた日のことを「今まで見えなかったことが浮かび上がってきた日」と述べている。「女性への暴力」という言葉は、これらが数ある暴力の一形能だけでなく、女性にとっての人権侵害だということを明確にし、それまで名指すことができなかった問題に名前を与えた。"(新編 日本のフェミニズム9 グローバリゼーション p.21)
元従軍慰安婦の訴えと沖縄の性暴力の訴えの連動性を自分も見落としていた……。
読書記録を小まめにつけていきたい
https://sekizui-sekiko.hatenablog.com/entry/2023/02/11/130825
精神科病院の看護助手や派遣バイトで税金や中退した大学の奨学金を払いながら本を読んだり絵を描いたり音楽を聴いたりしています。