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さすがに寝すぎて、ぼーっとする。

節々が痛い。これは本格的に風邪ですな。

風邪引いたっぽい…………………… 今日の忘年会、とても楽しみにしていたのに(いや、唯一の楽しみと言ってもいい)行けないよお

まあ、作家にせよみんな批評をやっているわけだから、あえて美術批評家と名乗らなくても、という感じかな、ぼくは。

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imdkmさんってfediverseやってたんだ。アト6の宇多田ヒカル特集おもしろかった。

清水穣の批評をいくつか読み直したけど、パターン化されていて、ほとんど読むに値しない。おもしろいものもあるけど、個別具体的な作品 分析から論が立ち上がっていない。

今日はどこも寒かったみたいね。多摩市も寒い。

マフラーを頭に巻いているひとたくさんいる……

gnckさんも評論家/キャラ・画像・インターネット研究だし、きりとりさんもデジタル写真論研究だし、ほとんどいないよなあ。みんな求められて美術批評を名乗るときもあるけど、なんで積極的に名乗らないのかは一考に値するかも。

美術批評家を名乗ったほうがいいって勧められたけど、とまどいがある。同世代でいえば、美術批評家を「積極的に」名乗っているのって勝俣くんくらいで、ほとんどいない。だからこそ名乗れっていう話なんだけど。

自分のこれからの仕事は一見政治的にみえない作品に政治性を読みとる仕事かなと思いはじめている。

原稿について友人に電話した。話すの大事。

「私の出した写真集について、かつてのわれわれの雑誌の仲間であり、今なお最も親しい友人である多木浩二は「身体を世界に貸し与える」ことによって成立する写真であると言い、それにもかかわらず、「主体を超えたものが主体を決めてしまう」こと、そのことに私はロマンティックに苛立っているのだと批評した。当時、酒を飲めば、「いかにも私が居なくても世界はあるだろう。私が居ない限り、世界があろうとなかろうと知ったことではない」などとうそぶいていた私は、いまようやくそのことの意味に気づきはじめているのかもしれない。しかし、もし彼の語ることを本当に突き詰めていくならば、私の写真集よりはあきらかに彼の言葉が先を超えていたと言うべきであろう。いや、批評というものが詰まるところ、一つの作品を媒介にして、批評者が、おのれ自身を語るものであるとすれば、それはなにもとりたてて言うまでもないことであるのかもしれない。だがいままさしく私の思考は私の視線をはじき返す事物の視線というものに辿りついていることだけはたしかかである。」(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』22–23頁)

友人とテキストしていて、原稿を書き終わったあと、ふと、誰に宛てて書いているんだろうと思うことがある、と。わかるわー。そして、未来の読者に向けて、と納得する——とりあえず。

『Dragging Away: Queer Abstraction in Contemporary Art』いい本だ。けっこう知らない作家たくさんいる。

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